野生の距離
僕が実家へ戻ってから、一週間が過ぎた。
父さんは毎日、果樹園にリンゴの世話をしに行く。主だってやっているのは父さんだが、母さんも同じくリンゴの面倒を見ている。
リンゴ農家は、十一月上旬からいよいよ収穫が始まる主力の種の世話のために、今の時期がいちばん忙しくなる。
味も見た目も良いリンゴに仕上げるため、葉摘み作業や玉回しなど、丁寧にリンゴの面倒を見る。木の本数が多い農園では、作業のために親戚を呼んだりバイトを雇ったりするところもあるくらいだ。
うちの高橋農園はそこまで広くはないから、この季節も毎年父さんと母さんだけで回している。けれど今年は、僕もいるから三人だ。
「あんたがいると便利だから、収穫が一段落するまでは休職していて」と、母さんが冗談めかして言っていた。
リンゴの木には今日も、リンゴ鳥たちがいる。僕は謎の鳥を遠巻きに眺めて考えた。
「擬態……なのかな。敵から身を守るためにリンゴに擬態してる? いや、おいしいものに擬態したらむしろ襲われちゃうんじゃないか?」
「さあな。なんか理由があってリンゴに似てるのかもしれんし、偶然似てるからリンゴを仲間と認識にして集まってるだけかもしれんし。その辺は生物学者さんらが調べてるんじゃねえか」
父さんが僕の脇を通り過ぎる。
自分の果樹園の侵入者だというのに、父さんはあまり鳥に興味を示していない。邪険にもしないが構おうともしない。自分の仕事はリンゴの面倒を見ることであり、害のない鳥には気を配る必要がない、といった様子だ。
リンゴの世話は、毎日同じことの繰り返しだ。収穫前の実を確認しながら、傷のある実を探して歩く。作業は単純だ。なにかを達成しなくても一日が終わる。
だからこそ、考えごとをする余地もあった。そして考えはじめると、会社のことを思い出してしまう。
未読のままになっている連絡、仕事の引き継ぎ、迷惑をかけた同僚。中途半端な仕事。胸の奥が重くなる。
あくまで休職だ。また戻らないといけない。ずっとこの小さな農園で両親の世話になるわけにもいかない。考えてしまうと、頭に靄がかかって集中力が削れてくる。リンゴの傷を見落としてしまいそうだ。
そんなとき、頭上でかすかな羽音がした。僕の見ていた木に、リンゴ鳥が一羽とまっている。こんなに近くに人間がいるのに、平然とこの木にとまったのだ。
僕はじっと、その姿を観察した。赤い羽毛に、黄色の差し色。本物のリンゴと一緒に、秋の日差しを浴びている。
僕が一歩だけ歩み寄ると、鳥はぱっと飛び立った。
「あ」
呆気ないほど素早い。隣の木へ移り、警戒するようにこちらを見ている。それなのに、なぜだろう。その冷めた目が少しだけ心地よかった。
リンゴ鳥は毎日、僕らの傍にいた。
リンゴにそっくりすぎて鳥に気がつかなかった僕がうっかり近づきすぎたときに、木から一斉に飛んだりとか。
木箱を運んでいたら、足元をちょこちょこ歩いて寄ってきたりとか。でも、別に触らせてくれるわけでもなくすぐに逃げたりとか。
鳥がうっかり人間にとまってしまう、なんてかわいいアクシデントも起こるはずもなく。
鳥は近づけば飛ぶ。距離を詰めれば離れる。まるで見えない線が引かれているようだった。
鳥はすぐそこにいる。でも、僕と父さんと母さんと、なんの接触もしない。言ってみれば、同じアパートに住んでいて壁一枚挟んでいるだけなのに、挨拶もしたことのない隣人みたいな。
父さんがリンゴの実を見ている。そのすぐ傍の枝に、鳥がいる。
「父さん、鳥が近くに来てるから、驚かさないようにね」
僕が一応声だけかけると、父さんはちらっとだけ頭上を仰いで、そこにとまる鳥を確認した。
別に人間に懐くわけでもない、農家の役に立つわけでもない。
鳥は枝の上で丸くなっている。こちらを見ているようで、見ていない。近くにいるのに、関わろうとしてこない。
僕は作業を途中で止めて、一旦休憩に入った。リンゴ箱に腰かけて、ひと息つく。見上げると、リンゴの木々の葉の向こうに、青空が広がっていた。もうすぐ冬が来る、少し、白っぽい冷たい空だ。
木陰で風に当たっていると、足元に気配がした。目線だけ動かすと、リンゴ鳥がいた。地べたの虫でも食べているのか、うろうろしながら木の根元を啄んでいる。
僕がここにいるのに、あまり警戒していない。動かないから、危険がないと思っているのだろう。それだけなのに、なんだか、僕がここにいることを許しているようにも思えた。
もっとも。許しているというのも、人間の勝手な解釈に過ぎないのだけれど。
鳥たちはきっと僕を気にしていない。危険がなければよいと、無視しているだけだ。それでも良かった。その方が良かった。
僕はただここにいる。リンゴ鳥も同じく、ただそこにいる。
秋の日差しの中、リンゴの香りの中で、枝に実る果実とともに、鳥たちの羽根の色が農園を彩っていた。




