空飛ぶリンゴ
ここ最近、不安で眠れない夜が少なくなった。別に悩みがなくなったわけではない。単に、実家のリンゴ農家の手伝いでたくさん体を動かす反動で、泥のように眠れるようになっただけだ。
果樹園の景色は、日を追うごとに僅かに変化していた。僕が出戻ったばかりの頃に比べ、今はリンゴは赤く色づいている。いよいよ、収穫の日を迎えた。
「今日からしばらくは、昨日より重労働だ。覚悟決めてけ」
父さんが戦闘に向かう武人のような顔つきで、果樹園へと向かっていく。普段から期限が良い母さんも、いつも以上にご機嫌だ。
「ポムちゃんたちと一緒に、楽しい収穫祭ね」
果樹園のリンゴが赤く輝く。緑の中に小さな灯りが無数についているようにも見える。
朝露の残る果樹園を、肩から収穫籠を提げて歩く。父さんが僕の前で、リンゴをひとつもいで見せた。
「収穫の仕方は覚えてるか。こうやって、引っ張るんじゃなくて捻って取る」
僕も近くの実をひとつ持った。指を果梗の付け根へ添える。そして手首をくるりと返す。ぽろりと、驚くほど簡単に外れた。
子供の頃の記憶が蘇る。小さい頃に、母さんに抱っこされて初めてリンゴをもいだ。小学生に上がってからは、今みたいに父さんから収穫のコツを教えてもらってお手伝いをした。
上京するまで、毎年、一緒にリンゴをとっていた。
「懐かしいな」
リンゴの実は、木からもぎ取るのではない。木に、離してもらうのだ。
木には今日も、リンゴ鳥がたくさんとまっている。一羽がこちらを見た。目が合った気がする。だが鳥は次の瞬間には僕への興味を失って、羽毛を膨らませ、その羽根の中にくちばしをうずめた。
僕は赤く色づいた実を選んで、手のひらで重みを確かめた。傷をつけないように籠へ入れる。最初は空だった籠も、リンゴを入れるたびに少しずつ重くなっていく。
時折、軽トラックの荷台に積まれたコンテナへ移し替える。コンテナの中では真っ赤なリンゴが整然と並んでいた。宝石箱みたいだ、と僕は思う。
母さんは別の列で収穫している。鼻歌を歌いながらリンゴをもぐ母さんは、父さんより仕事が早い。
時々立ち止まって、鳥を見上げてニコニコしている。
「ポムちゃんたち、こんにちは」
リンゴ鳥は少し首を傾げてから、またリンゴのふりをはじめた。父さんが離れた位置から母さんに呼びかける。
「おーい、ちょっとこっちに来てくれ」
「はあい。なに?」
母さんが駆け足をすると、鳥たちがぱらぱらと飛んだ。
羽ばたく音と、広がる赤い翼。木々の隙間を飛び交うリンゴ鳥。育てたリンゴのうちのいくつかが、翼を授かって飛んで行くかのような、そんな光景に見えて、不思議な気持ちになる。
全てのリンゴの収穫には、うちのような小さな農園でも数日かかる。というのも、リンゴの熟し具合が個々に違うからである。今日はまだ収穫には早いリンゴが、明日にはベストタイミングになったりもする。
僕らはリンゴの具合を確認して、丁寧に日数をかけて収穫を進めた。日に日に果樹園から赤が減っていき、木の葉の緑の割合が増していく。はらはらと落ちる鳥の羽根が、やけに鮮やかに見える。
枝を見上げる。以前は十羽も二十羽もいた木に、今日は数羽しかいない。翌日にはさらに減り、また翌日には、殆ど姿が見えなくなった。
リンゴ鳥は、リンゴが赤くなる季節になると現れ、季節が終われば去っていくという。いちばん遅い時期に収穫期を迎えるリンゴが木から消えれば、鳥たちの渡りが始まる。姿を見なくなってきたのは、彼らが旅支度をはじめた証拠だ。
脚立の上で高い場所の実を取ろうとすると、手を伸ばした先に、一羽のリンゴ鳥がいた。この数日でだいぶ数が減っていたから、見つけるとちょっとびっくりする。
近い。羽根の模様まで見える。赤い体に黄色の斑は、まるで熟したリンゴに朝日が差したような色だった。
あ、と思った次の瞬間には、鳥はふわりと飛び立っていた。
この鳥は人に懐かない。餌もねだらない。ペットみたいに甘えてくれるわけでもない。愛想がなくて、別に僕を励ましてくれるわけでもない。
頑張れとも言わない。
早く元気になれとも言わない。
だから僕も、健康なふりをしなくていい。
そうして数日かけて収穫し、実るリンゴが消えた日、僕はやけにすっきりした木々を見渡した。
「あんなに赤かったのに」
リンゴがなくなっただけでなく、リンゴ鳥も殆どいなくなった。見える範囲では、目の前の木に一羽だけとまっているだけである。
父さんが僕の隣で同じ鳥を見上げる。
「あとはこいつだけか」
鳥は枝先で、赤い羽根に陽射しをたっぷり集めていた。ふくふくと羽毛を膨らませ、青い空を見上げている。
多分、最後の一羽だ。
母さんも傍に来て、愛おしそうに鳥を見つめた。
「寂しくなるわね」
風が吹いた。リンゴの葉がさわさわと鳴る。
仕事には常に意味が求められた。成果が求められた。期待に応えることを求められた。
誰かの役に立たなければ、存在してはいけないような気がしていた。
けれど枝の上のリンゴ鳥は、なにもしない。なんの役にも立たない。それでも誰も責めない。彼らも、僕を責めない。
いや、リンゴ鳥だけではない。父さんと母さんも、この果樹園も、僕がここにいることを、許してくれている。
リンゴ鳥が僕を見下ろした。黒い小さな瞳に、僕らはどう見えているのだろう。鳥は人間の悩みなんか知らない。仕事のことも、将来のことも、不安も。なにも知らないから、僕を放っておいてくれる。好きにすればいいじゃないか、と。
枝にとまっていた鳥が、翼を広げた。ふわり、リンゴの実が風に乗ったかのように軽やかに、宙へ浮かぶ。羽ばたき、木の葉を越えて、突き抜ける冬の青空へと上昇していく。
僕はそれを目で追った。空飛ぶリンゴが果樹園の真上で太陽を背負う。赤い翼が、あの小さな体を、高い空へと連れて行く。
遠く。もっと遠く。
やがて、青の中へ溶けていくように小さくなって、そして見えなくなった。
「またね」
そう言ったのは、母さんだった。
「またね、ポムちゃん。来年も、元気な顔を見せにきてね」
もう見えない鳥に手を振る母さんに、父さんがぽつんと言った。
「あいつら、どこ行くんだろうな」
「さあねえ」
母さんが肩を竦める。
「でも帰る場所があるんでしょうね。そしてまた季節が変わったら、今度はここが帰る場所になるのよ」
渡り鳥は、季節ごとに住む場所を変える。両方が行き先であり、両方が帰る場所なのだ。
リンゴ鳥にとって日本は、旅の途中の通過点なのだから、この農園が「帰る場所」というのは変ではないか。と、僕は一瞬思ったが、でも母さんの言いたいことは分かった。
旅の途中にだって、そういうところがあってもいいのだ。
「そうだな」
父さんは受け流すようにそう言って、くるりと背を向けた。
「さて、昼休憩にするか。午後は出荷に向けてもうひと働きだ」
「うん」
僕は父さんの背中を追いながら、尋ねた。
「僕、いつまでここにいていい?」
父さんは一瞬だけきょとんとした顔をした。それから当たり前のように答える。
「好きにしろ」
母さんも、そうねと笑った。
「そうそう。若い働き手がいると助かるし。でもやりたいことがあるなら、どこへでも行けばいいし」
帰ってきた日からずっと胸の中にあった重い鉛は、まだ完全には消えていない。この先も消えないかもしれない。
けれど、それを抱えたままでも歩いていける気がした。
空を見上げる。鳥の姿はもう見えない。それでもきっと、また来年になれば戻ってくる。
この果樹園へ、このリンゴの木へ。
ここが、彼らの帰る場所になるから。
風は少し冷たくて、どこか優しかった。




