ポムちゃん
昼が近づく頃、僕は台所で母さんの手伝いをしていた。手伝いと言っても、野菜を洗ったり、空いた調理器具を片付けたりする程度だ。
「真琴がいると便利だわあ。お料理がサクサク進む。お父さんは農園に付きっきりでこっちの手伝いはしてくれないからね」
母さんが鼻歌交じりに言う。
母さんは料理が好きだ。明るく世話焼きな人で、あまり笑わない父さんとは正反対に見える。あっけらかんとした母さんの性格は、一緒にいると肩の力が抜ける。この人の気楽な態度に、僕は少し救われていた。
窓からは果樹園が見える。昼の光を浴びたリンゴの木々が、静かに並んでいた。母さんがちらりと窓を覗く。
「あら、ポムちゃんがいる」
「ポムちゃん?」
「ほら、あそこ」
母さんが窓の外を指さす。僕が目を凝らすと、木の枝の上に丸い赤い影がいくつか見えた。今朝見たリンゴ鳥たちだ。
「リンゴ鳥だ」
「私はポムちゃんって呼んでるの」
母さんがうふふっと笑う。
「知ってる? リンゴはフランス語で『ポム』なのよ」
「だからポムちゃんなんて名前付けたんだ?」
「うん。それにほら、羽毛がポムッとしてて、ポムちゃんって感じがするでしょ。ポムって言葉の響きもかわいいし、良い名前だと思わない?」
母さんのオリジナルのネーミングで呼んでいる。この人らしい感性だなあ、と僕は口の中で呟いた。
母さんはエプロンで手を拭くと、窓際へ近づいた。しかし窓は開けないし、鳥に声を掛けることもしない。
「ふふふ、かわいい。なんであんなにリンゴそっくりなのかしら。リンゴの妖精なのかな」
枝の上でリンゴ鳥たちは丸くなっている。寄り添い合って昼寝しているようだ。僕は母さんを横目に見た。母さんはあの鳥を気に入っているようだ。この人は元々かわいい生き物が好きだから、まあそうだろうなと思った。
「ポムちゃんたち、かわいいわあ。癒やされる」
メロメロになる母さんに、僕は苦笑した。
「ポムちゃんなんて名前まで付けちゃって。ペットじゃないんだから」
「あら、ペットだなんて。違うわよ、個体の名前じゃなくて、リンゴ鳥全部ポムちゃんなの!」
「はいはい。でも実際、ペットにしたがる人もいそうだよね。野鳥だからだめなんだろうけど」
無害らしいし、人への警戒心も野鳥のわりには薄い。おまけにあんな見た目なのだから、ペット業界に注目されそうなものだが。
母さんも、そうねえと唸った。
「お友達になれたら嬉しいけど、あの子たちはそういうものじゃないから」
そう言ってひとつ、まばたきをする。
「前に、近くで見ようとしてそーっと近づいたら、木から二メートルくらいのところで逃げちゃったのよ。あんなに気を抜いてるように見えて、ちゃんと野生の世界でサバイバルしてる鳥なのよね」
自嘲気味というか、反省の滲んだ口調だった。
「お父さんに叱られちゃったわ。『折角寛いでるんだから警戒させるな』って」
窓の向こうの鳥たちは微動だにしない。窓から見ている僕らに気づいてはいるだろうが、攻撃してこないことも分かっているようで、気にしていない。
母さんは切ったホウレンソウを、包丁でまな板の端に寄せた。
「人間が手を焼く相手じゃないのよ。あれは野生の鳥。お腹が空いたら食べて、眠くなったら寝て、危ないと判断すれば飛んでいく。自分のことは自分でやって、きちんと生きてる」
僕は返事に詰まった。仕事をしていた頃の自分はどうだっただろう。
お腹が空いても仕事をし、眠くても仕事をし、危ないと思っても立ち止まらなかった。それで、自分のことは自分でやって、ひとりで生きているような気になっていたけれど。もしかして、違ったのかな。
母さんが冷蔵庫から蒲鉾を取り出す。
「ポムちゃんは飼われてるわけじゃないから、危険なこともあるだろうし、海を渡る間に死んじゃう子もきっといる」
野鳥は毎日が命懸けだ。
「あの子たちが冬にいなくなる度に、来年も無事に来てくれるかな、って心配になる。でも、野鳥のあの子たちに、私にできることなんてないから」
母さんはちらりと僕に目を向け、そしてふっと微笑んだ。
「無事にまた来てくれることを祈るだけ。そして、この時期に元気な姿を見せてくれたら、歓迎する。それだけね」
僕はなんとなく、母さんから目を逸らした。
それは、今の自分に向けられた言葉のようでもあった。もちろん母さんにそんなつもりはないのだろう。母さんは、窓の外の鳥を見ているだけだ。
「母さん」
「なに?」
「あの、さ」
そこまで言って、言葉が止まる。なにを言いたかったのか、自分でもよく分からなかった。謝りたかったのか、情けないと思っていることを話したかったのか。それとも、ただ不安だっただけなのか。
母さんはしばし僕の言葉を待っていたが、やがて、再び窓の外のリンゴの木に視線を戻した。
「ポムちゃんたちがくっついて寝てるわ。微笑ましい」
僕の言葉の続きを急かしたりしない。なにも聞かない代わりに、彼女は僕の肩を叩いた。
「そろそろお父さんを呼んできてくれる? お昼ご飯ができるよーって」
「あ、うん」
「あったかいおうどん。お父さん、外で作業して寒い思いしてるだろうから」
母さんは、鳥を大事にしている。ペットみたいに愛でているように見えて、ちゃんと線引きをして彼らの野鳥としての生活を尊重している。
それは、僕に対してもそうだ。飛び立つことも、立ち止まることも、自分で決めさせてくれる。
「母さん」
「んー?」
うどんを茹でる母さんが、こちらを見ずに声だけで反応する。僕は、先程言いかけて言えなかった言葉を、ようやく吐き出した。
「ありがとう」
「なによ、急に」
心配性のくせに、無理に励ましたりはしない。僕は母さんに随分と助けられている。




