第52話 反転する世界、奈落の底。校長先生がなんか変です。
信頼する教授であるカザミの報告を受け、ガルムは一年上級潜行者育成科の教室を覗きに来ていた。
本来なら一笑に付すような話だ。
さすがのジャンク商会とて、本物の化け物を学校に送り込んでくるわけなどあるはずがない。
そう思っていた。
相手がカザミでなければ、叱責していた可能性すらある。
学校長としては、来るべきではなかった。
それは理解している。
いたずらに気にかけるくらいなら、ジャンク商会にその真意を公式に尋ねるべきなのだ。
自分は、かつてのようなただの兵隊ではない。
この世界の秩序の一翼を担う人間である。
現場気質が抜けないのは、セツナにもよく指摘されるところであり、自らも気にしている悪癖ではある。
だが、不安材料というものを安易に放置することが、どうしてもできない。
自らの目で一度確認したい。
それもまた、本音だった。
そして、その戦場の勘のようなものは、妙な時ほど当たってしまう。
とはいえ、現実的にありえない。
アゲハとスズが並んで座っている。
問題は、その隣だった。
鮮烈な赤い髪。
深い緑の瞳。
整った顔立ちは、男とも女とも取れる。
少年のようにも見えるし、少女のようにも見える。
緩く締めたネクタイにブレザーという、一般の男子生徒の姿。
確かによく似ている。
ガルムの記憶にある、テオ・ドールと同じように見えるが、あれは別物だ。
本物はもっとおぞましかった。
幼く見える容姿、その内側に潜む、老獪な気配。
荒々しいのに、妙に落ち着いた佇まい。
鋭いのに、その矛先が見えない狂気。
すべてが、噛み合っていない。
まるで、暴力を人の形にして、無理やり皮を被らせたような。
化け物が誰かを食らうために人の顔をしているような、不気味さ。
それこそが赤い悪魔なのだ。
あんな穏やかなわけがない。
杞憂だったか。
ガルムは、そこでようやく小さく息を吐いた。
全身に入っていた力が、わずかに抜ける。
そうだ。
似ているだけだ。
ジャンク商会の悪質な冗談か、それとも、何か別の意図があるのかは分からない。
だが、少なくとも、あれは本物ではない。
本物であってたまるものか。
ガルムはそのまま立ち去ろうとして。
そして、動きを止めた。
本当にそうなのか?
カザミの勘違いと流して良いのか?
それは、ささやかな好奇心とでも呼べるものだった。
あるいは、現場にいた頃から抜けきらない例の悪癖だった。
ガルムは、一般の生徒なら気づかぬ程度の、ほんのわずかな殺気を視線に混ぜた。
警告ではない。
威嚇でもない。
軽く肩を叩いて、反応を見る。
その程度のつもりだった。
瞬間。
世界が反転した。
音が消えた。
床が抜けたような感覚があった。
いや、違う。
落ちたのではない。
気がつけば、ガルムはその場に座り込んでいた。
緑の瞳が、こちらを見ていた。
ガルムの視線に気がついたからではない。
最初から、見ていた。
───最初から、こちらを見ていたのだ。
その上で、何もしなかっただけ……。
息ができない。
心臓が、胸の内側を乱暴に叩く。
喉の奥が、ひゅっと鳴った。
あれは、生徒ではない。
少年でも、少女でもない。
人の姿をして、椅子に座っている災害だ。
「……ほんもの……だと?」
絞り出すような、濁った声が漏れる。
人間復興の戦いにおいて、最も多くの命を殺めたとさえ言われる凶戦士。
それが、たしかに教室にいた。
この気配はまさしく、悪魔のソレだ。
何度か、戦場を共にしたことがある。
だが、共闘などと呼べる代物ではなかった。
そもそも、あれは戦いではない。
一方的な虐殺と殲滅。
ついていくことすらままならない。
味方であっても、気を抜けば殺されるのではないかという恐怖。
あれは、人を殺すためだけに存在する災害。
前線へ投入された敵部隊が、その日のうちに消えたなどという話でさえ、生易しい。
敵も味方も、アレに見つからぬよう身を潜めた。
ついた渾名は『赤い悪魔』。
あまりに恐れられ、本名を呼ぶことすら厭われた。
敵からも味方からも、戦場での呼び名はもっぱら『振袖』だの『赤いの』だの。
名を口にすることすら、不吉だったのだ。
それが。
それが、なぜ。
――あんなところで、普通に席についているのか。
ガルムは理解できず、ただ呆然とした。
そして、そんなテオを。
アゲハを名乗る少年は、まるで友だちを連れ出すかのごとき気楽さで手を取ると、引きずるように教室の外へ引っ張っていくではないか。
「校長先生こんにちは、こんなとこでどうしたんです?」
アゲハと呼ばれるものは、化け物の手を取り、何事もなかったように通り過ぎていく。
「何者なのだ……あれは」
ガルムの背に、嫌な汗がじとりと落ちた。
シトロを引き込んだことで、毒をも食らう覚悟はした。
けれど、学園を魑魅魍魎の棲家にする覚悟をしたわけではない。
あの少年のことを、早急に。
いや、早急に。
できる限り素早く、調べねばならない。




