赤い悪魔は止まらない、何が起こってるかわかりません
テオは何かに耐えるように息を、表情を整え。
「アゲハ、少しこれ被ってろ」
そう言って、僕を魔法使い達から離れたところに下ろすと、キャスケットを深く被せ、視界を遮った。
石鹸の香りがした。
それから、上等な香の匂い。
なんだったか、たしか——白い小さな花の匂いだ。
沈丁花だったろうか……。
僕のことをぎゅっと抱きしめて、
そして、その温もりは離れていった。
***《スズ》***
アゲハが上級魔導師の光刃を弾いた。
まるで、そこに来ることを読んでいたかのように。
上級魔導師はたじろぎ、距離を取り片手を上げる。
潜んでいた魔法使いたちが一斉にフードを取り、
すべての杖がアゲハへと向けられた。
何人いる?
どれほどの数の魔法使いを揃えてきたのか。
中には魔導師すら含まれている。
アゲハのことを思うなら、自分たちは逃げるべきだ。
分かっている。
だけど——
スズには、そんなこと到底できなかった。
「やめろ! やめてくれ!!
その人はこんなところで死んでいい人じゃない!!!」
喉がちぎれるほどに叫ぶ。
アゲハが、スズのほうを見る。
そして——
少しだけ呆れたように笑った。
……そんな気がした。
これすらも許してくれるというのか。
貴方の覚悟を無駄にするような、
愚かな私の行動さえも……!?
涙がこぼれる。
ダメだ。
ダメだ、ダメだ、ダメだ!!
この人は——
決して、殺してはいけない。
スズの身体が、ふわりと浮いた。
薄い膜に覆われる。
「スズ、ここでおとなしくしてなっ。
死ぬよ」
見上げれば、シトロが防核膜を展開していた。
肩で息をしながら振り返る。
七色に光る髪。
黒い瞳が渦を巻く。
——それは、異様な光景だった。
「セン!
だめよ! あんたの力は他の人を巻き込む!
それに、テオくんが怒ってる。今は抑えて!」
荒い息を吐きながら、
普段穏やかなセンリツが、その鬼の形相をなんとか押さえ込んでいる。
スズは、全身から出る汗が止まらなかった。
絶対的な“死”が、
自分の周りにいくつも広がっていた。
スズが対峙していた人造天使三人も、
まるでこけしのような姿で、
いつの間にか転がっている。
——何なんだ、この地獄は。
アゲハのほうへ目をやる。
赤い髪の悪魔が、
二振りの剣を構えていた。
最凶最悪の悪鬼が——
怒りに震えていた。
***
最初に動いたのは——音だった。
踏み込み。
それだけで、空気が裂ける。
次の瞬間。
上級魔導士の腕が宙を舞った。
遅れて、悲鳴。
「ぎゃ——ぁあああああああああああああああああああ!!」
だが。
死んでいない。
肩口から先が消えているのに、
血は——ほとんど流れていなかった。
焼けている。
斬られた断面が、灼けて、閉じている。
「……は?」
スズの喉から、かすれた声が漏れる。
テオが、立っていた。
いつの間にか。
魔法使いの群れの、ど真ん中に。
「ああ……ああ……今日はなんて日だ」
低い声。
静かで、感情の薄い声。
なのに——
それだけで、空気が凍る。
一人が魔術を放つ。
杖から放たれる、強力な貫通弾。
恐怖に充てられた魔法使いたちが、
次々と光弾を放つ。
「や、やめろ!
やめろぉ!!」
叫び声を上げたのはテオではなく、
指揮官である両腕を失った上級魔導師だった。
世界が止まったように見えた——次の瞬間。
弾幕は、すべて撃ち返される。
魔法使いたちの足を、腕を、撃ち貫く。
テオの服の振袖や靴、
その至る所に施された反転結界。
単騎突撃という、馬鹿げた戦法を可能とするテオの技巧だ。
むろん、普通の人間——
いや、人造天使や上級魔導師ですら扱えない代物。
すべての攻撃を見抜き、
そのすべてを撃ち返せるテオだからこそできる芸当。
こうなってしまえば——
もはや何も届かない。
混乱。恐怖。戦慄。
そんな感情すら含めたすべてが、斬られる。
何もかもだ。
為す術もなく、蹂躙される。
正確に。
容赦なく。
「ひっ……!? や、やめ——」
「やめてくれぇえええええええええええええええ!!」
悲鳴が連鎖する。
逃げようとする。
だが——
逃げられない。
足が、ない。
立ち上がろうとしても、腕がない。
それでも——
死なせてもらえない。
「ほら、どうした」
テオが言う。
静かすぎるほど穏やかな声で。
「まだ動けるだろ、戦えよ」
表情はない。
ただ、わずかに口の端を上げる。
「まったく……ほんとに最悪だぜ。
せっかく風呂に入ってきたばっかりだっていうのに」
テオがユラリと動く。
いつの間にか魔法使いの目の前に移動している。
顔を掴み、顎を砕く。
また消えて、別の魔導師の耳をちぎり、指を踏み潰す。
振り向きざまに、もう一人。
膝を砕いた。
そして——
また、違うところで悲鳴が響く。
「な、なんだよこれ……」
誰かが呟く。
それは疑問じゃない。
恐怖だった。
それは戦いじゃない。
殺しですらない。
「た、頼む……」
「殺してくれ……」
誰かが言った。
その言葉に。
テオの動きが、止まる。
ほんの一瞬。
静寂。
そして——
「……お前、知ってるか?」
魔法使いの一人が「へっ?」と間の抜けた声を出す。
テオはその魔法使いの顔面を蹴り潰し。
「アゲハは、血の匂いが嫌いなんだ」
ぽつりとつぶやくように言った。
ひどく苛立ったような声だった。
「また……風呂に行かなくちゃいけない」
——俺とアゲハの時間を……返せよ。
生きる屍たちは、誰一人として、何も答えなかった。




