第8話 「今日だけは、ただの友達でいられた」
「今日だけは」という限定が、一日を守ることがある。
守られた一日の話です。
視点は結城朔。途中だけ、刈谷燐。
ゲームセンターへ行った、十月末の放課後のことです。
食堂に燐が先に来ていた。
朔が入り口で少し止まったのは、予想していなかったからだ。「先に来ていた」ことが、少し意外だった。燐はいつも「先にいる」より「後から来る」印象がある。でも今日は先にいた。コーヒーのボトルを手に持って、入り口の方を向いていた。朔が入ってくるのを、待っていたようだった。
「やっぱり調べてた」
席に座る前に言われた。朔が「うん」と答えると、燐は「だと思った」という顔をした。馬鹿にしている感じはなかった。「そういうやつだ」という、なんでもない確認の顔だった。
「昨日と今朝、調べた」と朔が言った。
「ありがとう」と燐が言った。
予想していなかった言葉で、少し止まった。「ありがとう」は燐がよく言う言葉ではない。でも言った。短く、普通の声で言った。
「楽しいから」
そう返した。正直な答えだった。攻略を調べることは、朔にとって本当に楽しい。動画を繰り返し見て、パターンを言語化して、「ここが分岐点だ」と気づく瞬間がある。その作業が好きだった。燐のためにやったという感覚より、楽しんでやった、という感覚の方が近かった。
何かが、燐の肩から少し下りたように見えた。
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学院から歩いて十五分。連鎖戦記クロノレイドの筐体は、ゲームセンターの二階にある。
一階は音ゲーのフロアだった。平日の放課後の時間帯で、それなりに人がいた。スクールバッグを持ったまま画面を叩いている生徒が何人かいた。燐は一階を通り過ぎながら少しだけ音ゲーの筐体に目を向けた。「こっちも面白そうだな」と言った。「クロノの方がいい」と朔が言うと、「そうだな」と燐が返した。
二階に上がった。
クロノレイドの筐体は、奥の壁際に二台並んで設置されていた。どちらも空いていた。二人でそちらに向かった。
筐体の操作パネルは、端末と並べると随分と重たい感じがした。レバーとボタンの配置がある。朔は端末でクロノをやり込んでいるが、筐体は今日が初めてだった。
「筐体の方が反応が違う」と燐が言った。端末とレバーの操作感の差を、すでに確かめている顔だった。「慣れるまで時間がかかるかもしれない」
「慣れればいい」と朔が言った。「パターンは同じだから」
「そうだな。お前はどっちでも読み方は変わらないか」
朔は少し考えた。確かにそうかもしれない。端末でも筐体でも、敵の動線を読む作業は変わらない。変わるのは燐の指の動き方だ。レバーで操作する燐の体がどう変わるかを、今日は観察しながら指示を出す必要があった。
「一周目は見てから調整する」
「分かった」
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一周目は途中まで順調に進んだ。
端末と筐体の操作感の差で、燐の動きは序盤から少し大きかった。レバーを使うと体ごと動く感覚が出るらしく、第一波の処理では燐の反応が早すぎて空振りした場面が二回あった。
でも三分の一を過ぎた頃から、燐の動きが落ち着いてきた。レバーの遊びの量が体に入ってきたのだと思った。「右を固めて」と朔が声で伝えると、燐の動きに一拍の間が生まれた。その間で状況を確認してから動く。その「間」が今日は機能し始めていた。
終盤の第四波で崩れた。朔が「左を待って」と言いかけた瞬間、燐のレバーがすでに左に入っていた。筐体特有の手応えに引っ張られた動きだったのだろう。中央に隙間が生まれて、敵影が抜けた。
「次は左の指示を早めに出す」と朔が言った。
「助かる」
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二周目は感触が変わった。
朔は「左を待って」という言葉を、燐の体が動きそうになる一拍前に出すようにした。燐が画面の左側を認識する前に、言葉が届く。そうすると燐の体は「待つ」モードで構え直した。筐体の手応えに負けなかった。
「右から来る。中央を先に」と朔が伝えた。
燐が中央に向かいながら、右側を視野の端に置いていた。朔は左の敵影を確認しながら「右はまだ」と短く言った。燐の体が右への反応を抑えた。一拍。中央が崩れた。燐がそのまま右に転換した。タイミングが合った。
「もう一本」と朔が言った。今日二度目の、迷いのない一言だった。
「お前、今日は言い方が早いな」と燐が言った。
「分かってきた」
「何が?」
「筐体の時の燐の動き方」
少し沈黙があった。燐がスタートボタンを押した。
三周目が始まった。
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三周目、四周目、五周目とプレイを重ねた。
朔は今日の燐を観察し続けていた。端末の時より、燐の体の動きが大きい。レバーを使うと、指だけでなく肩も一緒に動く。その動き方が読めると、次にどちらに行くかが少し早く分かった。「右を固めて」と言うよりも、燐の体が右に傾く前に言えると、タイミングがより正確に合った。
「今日の燐、なんか違う」という感覚は、ゲームの中ではなく、それ以外の場面から来ていた。
燐の目が、今日は「今ここにいる」感じがする。いつも燐の目は少し先を向いている。次の手順、次の任務、次の確認事項。でも今日の目は、筐体の画面と朔の言葉だけを追っていた。それだけを見ている目だった。
五周目が終わった時、朔は自然に「もう一本やろう」と言っていた。
燐が少し朔を見た。
「……なんだ」
「いや」
何かを言いたそうな顔を、燐はしなかった。ただ「やろう」と言ってスタートボタンを押した。
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六周目の途中で、燐が「ちょっと待って」と言って手を止めた。プレイが一時停止される。
「次の第三波の前に、中央を捨てるか持つかで判断が変わる」と燐が言った。「どっちがいい」
朔は少し驚いた。燐が攻略について自分から確認してくることは、あまりない。反射で動くタイプだ、という認識が朔にはあった。でも今日の燐は、判断の分岐点を自分から確認してきた。
「捨てる。第三波は量が多いから、中央を持ちながらは無理」
「なるほどな」
プレイを再開した。第三波の手前で燐は中央から離れた。その選択が合っていた。第三波を右側に絞って処理した。中央が空いたが、第四波が来るまでの間に戻れた。
「読める」と燐が言った。「言葉にしてもらうと、先が見える」
朔は何も言わなかった。でも少し、胸の中で何かが動いた感じがした。
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ゲームセンターを出ると、夕方の空気だった。
十月の夕暮れは早い。商店街に入ると、店の看板の電飾が点いていた。まだ明るいのに電飾が点く時間になっていた。二人並んで歩いた。朔はスポーツドリンクのペットボトルを買って持っていた。燐はコーヒーのボトルだった。
「鋒継の新話、もう見た?」と朔が言った。
「まだ」と燐が返した。「おすすめは?」
「三十六話。カット割りが変わってて、でもそれが合ってる」
「三十六話か」
「あのシーンの演出、斬撃が画角の外で完結してるんだよ。見せないことで速さが出てる」
「なるほどな」
燐の「なるほどな」は、理解した時の短い返事だった。ちゃんと聞いている。前を向いたまま、コーヒーのボトルを持ちながら歩いて、「なるほどな」と言った。
しばらく二人で歩いた。アーケードの屋根の下で、他の人も歩いていた。夕飯の材料を買っている人。学生の集まり。普通の夕方の商店街だった。
「今日は楽しかった」という言葉が、頭の中にあった。声にはしなかった。言葉にしなくてもいい感覚だった。言葉にすると小さくなる気がした。このまま歩いていればいい。並んで歩いて、アニメの話をして、アーケードを抜ければ学院への道に戻る。それだけの時間だった。
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アーケードを出た先の通りに、それはいた。
壁際の影に薄く滲んでいる。澱。第五等。……
三秒かからなかった。
「問題ない」と、内心だけで言った。
視線を戻した時、道の端に人がいるのに気づいた。
アーケードの入り口近く、壁に寄りかかるわけでもなく、ただそこに立っている。薄い小豆色の髪。右手首の白木の腕輪。朝霧凪沙だった。冴と目が合った。凪沙は何も言わなかった。視線を外さなかった。ただそこに立っていた。
もうここにいたのか、と冴は思った。声はかけなかった。必要がない。燐が処理した対象はもう散っている。朔の前方に凪沙の視線が向いている——それだけで、冴には伝わった。
朔と燐の後ろ姿が、商店街の灯りの中に進んでいく。
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一瞬、何かが変わった気がした。
燐がいつも通り歩いていた。コーヒーのボトルを持ったまま、前を向いて、何も変わらない様子だった。でも何かが、一瞬だけ違った気がした。空気の質、というほど確かなものでもなかった。
「……気のせい」だと思った。たぶん、気のせいだった。
「今日の七話さ」と朔が続けた。「帰ってから見てみてよ」
「後で見る」と燐が言った。
「七話は演出の意図が分かると、もっと面白い」
「お前の解説が長い」
「でも聞いてるじゃん」
「……まあな」
二人で笑った。アーケードの外の夕方の空気が、少し冷たくなっていた。商店街の電飾が明るくなっていた。並んで歩いて、学院への道に戻っていった。
今日の燐は、元気だった。朔はそう思いながら歩いていた。いつもより笑っていた。ゲームに前のめりになっていた。それが嬉しかった。燐が今日のために何かを背負っていたかどうかは、朔には届かない場所の話だった。届かないまま、並んで歩いていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第八話は朔視点、途中だけ燐視点。今日の燐が元気だったこと、ゲームに前のめりになっていたこと——それが嬉しかった、という朔の話です。朔には届かない場所で、燐が何かをした。届かないまま、並んで歩いた。その非対称性が、次の話に繋がっていきます。
次話は最終話です。路地の話をします。どうぞお付き合いください。




