第9話 「もう迷わない」
迷い続けてきた人間が、初めて迷わなかった夜のことです。
視点は複数あります。刈谷燐、神崎冴、結城朔。
そして最後に、榊千燈。
また、光を受け取った者たちとして、御堂律、音羽澄、朔間綾乃、朝霧凪沙の名もあります。
第一幕、最終話です。
二人でまだ歩いていた。
商店街を抜けると人通りが少なくなって、道が少し細くなった。アーケードを出た時より空気が冷たくなっていた。燐はコーヒーのボトルを持ったまま、朔の隣を歩いていた。
「三十六話、今夜見てみる」と燐が言った。
「見たら分かるから」と朔が返した。
普通の話だった。今日の帰り道はずっとこんな感じだった。途切れなかった。
道が折れる手前で、燐は気配を感じた。
路地の奥から来る。複数体。通常型が二体。それと——においがない、温度がない、感情の澱みがない、あの質の気配が一体混じっていた。異常型だ。
「今日みたいな日に」という感覚が一瞬来た。でも感情が来ることと前に出ることは、燐の中では別の話だ。行動は決まっていた。
「問題ない」
自分に言った。それから朔の方を向いて、明るく作った声で言った。
「あ、さっきのゲーセンにスマホ忘れたかも。ちょっと戻ってくる。一人で行った方が早いから、ここで待ってて」
もう歩き出していた。返事を待たなかった。ゲームセンターとは逆方向の路地へ向かいながら、朔の声が背中で小さく聞こえた。
---
◆
---
神崎冴は今日もゲームセンターから朔の後方についていた。
二人が商店街に入ってから、ずっと距離を保って歩いていた。今日の二人を見ていた。朔が笑っていた。ゲームに前のめりになっていた。護衛対象があんな顔をするのを、冴は初めて見た気がした。妹が元気だった頃の顔に、少し似ていた。
燐が路地の方向へ歩き出した直後、冴は端末を取り出して千燈へメッセージを送った。
「対象が燐(五番隊隊長)と別行動。燐の向かった方向に気配あり。対象はその場に留まっています。護衛継続中」
送ってから朔の方を見た。朔は軒先で立って、ボトルを両手で持っていた。燐が戻ってくるのを待っている。まだ動いていない。
千燈からの返答が来る前に、朔の足が動き始めた。
「——」
冴は走った。朔の行く方向は燐が入った路地だった。止めなければならない。護衛対象が戦場に入ろうとしている。冴は朔の腕に手を伸ばした。指先が触れる寸前、朔の体が路地の入り口をすでに越えていた。
---
◆
---
路地の中で、刈谷燐は懐刀を大太刀に顕現させた。
翼が広がった。緋色のエネルギーが刃を走った。通常型の一体に踏み込んだ。斬り込んで、核に通した。浄化できた。でも手応えが薄い。今夜はずっとそうだ。依代に残る緋色がまた少し削れた。
千燈へ式紙を送った。念じるだけで届く。
「武蔵北区画・交戦中。物量増加・異常型あり。支援要請」
あの夜、この言葉を書けなかった。あの夜から、燐はこの言葉を送れる判断基準を持っている。弱音ではない。隊長としての正しい判断だ。
千燈からの返答が来た。
「確認した。支援を向かわせる。持ちこたえなさい」
通常型の二体目に向かった。処理した。残るは異常型一体。
においがない。温度がない。近づいても何も来ない。悲しみも、怒りも、未練の重さも——浄化するものが何もない場所を、燐は斬ろうとしていた。こちらを見ている。殺そうとしている。でもなぜ殺そうとしているかが分からない。それが一番、気持ち悪かった。
右肩が疼いた。古傷の上に今夜の消耗が重なっていた。大太刀を構え直した。緋色がまた薄い。「問題な——」と内心で言いかけた。
一秒、かかった。
「問題な……い」
あの夜は言葉がすぐ出た。別の夜には書けなかった。今夜は声が遅れた。
朔だけは巻き込みたくない。今日の朔は笑っていた。ゲームに前のめりになっていた。今日だけは普通の一日にできた。あいつだけは——
---
◆
---
結城朔は、商店街の端から一本入った路地の前に立っていた。
待っていた。三分が経った。五分が経った。スマホを取りに戻るなら、もう戻ってきていい時間だった。ゲームセンターとは逆の方向に歩いていったことを、朔は気づいていた。
路地の奥から、何かが来る感じがあった。
言葉にならない感覚だった。首元の勾玉が、気づかないくらい微かに温かくなっていた。「なんとなく好きで」買ったお守りが、今夜は違った。温かいのに、どこか急かすような感じがした。燐がいる方向から来ていた。
背後で誰かが引き留めようとする気配がした。でも振り返らなかった。燐がいるのは前だった。
一歩踏み出した。路地の入り口を越えた。壁が近くなった。地面が濡れていた。奥に進むほど暗くなった。
燐がいた。
大太刀を構えていた。白い翼が広がっていた。路地の奥に、ひとつの影があった。
初めて見るものだった。翼の縁に緋色が走っている。その色が、どこか心許ない。体が少し傾いている。
燐が振り返らなかった。前を向いたまま、低い声で言った。
「来るな」
「燐」
「戻れって言ってる」
「また見ているだけになる」
口から出ていた。
委員会の発表も、燐への声がけも、「また間に合わなかった」の繰り返しだった。図書館でも「あの」まで出て止まった。ずっとそうだった。今夜は、見ているだけになったら燐が倒れる。そういう感覚だった。正しいかどうかは分からなかった。分からないまま、体が動いていた。
首元の勾玉が熱かった。遠い記憶の声が来た。武家の屋敷。誰かの手を取れなかった瞬間。あの時動けなかった。間に合わなかった。その後悔が今夜の足元に来て、「また」という形になっていた。
「また」の先に燐がいた。
「もう迷わない」
声に出ていた。初めての断定だった。
勾玉が光った。周囲の音が、遠くなった。世界が止まったように静かになった。遠い記憶が一瞬だけ滲んだ。あの時取れなかった手を、今夜取る——その感覚が来て、全身の感覚が途切れた。
次の瞬間、光が溢れた。
翠色の光が、波紋のように広がった。足元から始まって、壁を、地面を、路地の奥まで静かに満たした。爆ぜるのではなく、染み出すように広がった。束ねた髪が解けて、広がった。風のない路地で、髪だけが動いた。
---
◆
---
緑の光が、路地の入り口から滲み出してきた。
燐は大太刀を握ったまま、一瞬だけそちらを見た。
異常型が後退していた。音もなく、輪郭が押し返されていた。何かが来た。この路地に、自分以外の力が入ってきた。
振り返った。
路地の入り口に朔が立っていた。白い翼が、溢れ出すように開いていた。翼の縁に翠の光が残っていた。
「……何だ、これ」
声が出た。言葉として整理する前に出た。
---
◆
---
覚醒の光は、倭国天使のフィルターを通じてのみ届く。
【御堂律——路地の手前】
支援の要請を受けて急いだ。六番隊が路地の手前まで来た時、翠の光が全身を包んだ。律は目を細めた。光は十秒ほどで収まった。路地の奥に二人がいた。
「……これが、覚醒か」
感情として処理しなかった。確認として受け取った。でも懐中時計に手が触れた。
【音羽澄——別の場所の自室】
依代の鈴が静かに鳴った。窓の方を向いた。目を閉じた。
「……良かった」
小さく言った。それだけ言った。
【朔間綾乃——別の場所の廊下】
前髪の奥の目が、光の来た方角を向いた。一瞬だけ止まった。
「あの子だ」
確信が来た。二ヶ月前の廊下で目が合った子。あの時感じた揺れが、今夜完成した。
【朝霧凪沙——路地の見える場所】
ずっとここで待っていた。いつか来ると分かっていた。
「やっと来たね」
翠の光が収まっていく路地を見ていた。
【神崎冴——路地の手前】
止めようとして、届かなかった。その直後に空気が変わった。
端末を取り出した。
「対象・異常なし。状況変化あり」
打ち込んだ。間に合わなかった、という感覚はまだ胸の中にあった。でも朔は無事だ。それを確認することが、今の自分にできる唯一のことだった。端末を閉じた。
---
◆
---
律の六番隊が路地に入ってきた。
燐は状況を短く伝えた。異常型一体。残存気配なし。律は無言でうなずいて、隊を奥へ向けた。引き受けた、ということだった。
燐は大太刀を懐刀に戻した。緋色の縁を確かめた。薄い。でも戦いは終わった。
朔の方へ歩いた。
「なんで来た」
声が出た。怒った言い方になった。でも朔の顔を見たら、自分の声が言葉と合っていないことが分かった。
朔が燐をそっと抱きしめた。
「燐が無事でよかった」
小さく言った。それだけ言った。
燐は動かなかった。振り払わなかった。路地の奥で律の隊が処理を続けている音がしていた。二人はそこにいた。燐は何も言わなかった。
しばらく、そのままだった。
「……ありがとう」
朔に言った。何をしたのか分からない。でも朔が来た。分からないまま言えた。
朔が先に手を離した。
「帰ろう」
朔が言った。燐は何も言わなかった。ただ、一緒に歩き出した。
---
◆
---
覚醒の光は、学院まで届いた。
榊千燈は職員室の窓から空を見た。翠の光が路地の方角から滲んで、もう消えていた。
手帳を開く。今日の日付の下に、一行書く。
「結城 朔。覚醒。」
手帳を閉じた。また一通、式部からのメールが届いていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
第九話、そして第一幕の最終話です。「もう迷わない」という言葉が、朔にとってこの幕で初めての断定でした。その言葉が出るまでに、九話分の積み重ねがありました。
第二幕へ続きます。朔の覚醒の先に何があるのか、燐が「ありがとう」と言えた夜の続きを、どうぞお付き合いください。




