第10話 「守られた」
光は一瞬だった。
でも確かに届いた。
刈谷燐視点。朔の覚醒の直後から、武蔵国府・番所まで。
守られた、という感覚が何なのかを、燐がまだ知らないままの話です。
右手が、懐刀の柄から離れていた。
気づいたのは、律の六番隊が路地に入ってきてからだった。足音が近づいて、隊の気配を確かめて、周囲の穢れの残滓がないことを確認した。そこまで順番にこなして、それから初めて、自分の右手に気がついた。
いつ離したのか。分からない。
燐は懐刀を改めて握り直した。緋色の縁を指でなぞった。薄い。今週だけで三回削れた。先週より消耗のペースが上がっている。三体目の異常型が来た時点で、今夜はそろそろ撤退ラインだと内心で判断していた。その判断通りに動けた。それは正しかった。
それなのに、柄から手が離れていた。
あり得ない話だった。五番隊の隊長として、任務中に柄から手を離すことは燐の中にない行動だ。少なくとも今まではそうだった。どれだけ消耗していても、どれだけ限界に近づいていても、右手だけは懐刀に触れていた。それが燐にとっての「まだいける」の証だったから。
今夜、その手が離れた。自分の意志ではなかった。
律が燐の前を通り過ぎた。「後処理に入る」と短く言った。燐はうなずいた。それだけだった。
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路地の外に出ると、朔がそこにいた。
覚醒直後のはずなのに、朔は転びそうでも倒れそうでもなかった。ただ、少し遠い目をしていた。こちらを見ているのに、もっと遠いところも見ているような目だった。
「帰ろう」
朔が言った。燐は何も言わなかった。ただ、一緒に歩き出した。
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商店街へ戻る道は、来た時より静かだった。人通りが減っていた。アーケードの端の電球が一つ、点滅していた。
しばらく、二人とも黙って歩いた。
燐はときどき横目で朔を確認した。確認、と思った。隊長として、対象の状態を見ている。覚醒直後の天使がどういう状態になるか、燐は経験上知っていた。足が定まらなくなる子もいる。泣き出す子もいる。喋れなくなる子もいる。だから見ている。それだけだ。
朔は普通に歩いていた。
「ねえ」と朔が言った。
「何」
「変なこと聞いていい」
「ああ」
「……川が見えた気がした。すごく大きい川」
燐は前を向いたまま聞いた。
「さっき?」
「うん。あの光が来た時。橋はなくて、対岸に誰かいて……渡れなかったのか、渡らなかったのか、分からなかった。あと武家屋敷。誰かの手を取れなかった場所もあった」
燐は何も言わなかった。朔が続けた。
「変だよね」
「別に」
少し間があった。
「もっとあった。すごく重いものを持ってた感覚がある。武器だと思う。でも人を倒すためじゃなくて……守るために持ってた。で、そこで終わった。誰かを守ろうとして、そこで終わった感じ」
朔の声は穏やかだった。怖がっていなかった。不思議なくらい、淡々としていた。
「夢みたいな感じ?」と燐は聞いた。
「違う。もっとはっきりしてる。でも整理できない。さっき一気に来たから」
「そうか」
「うん」
アーケードの照明が途切れた先、道が少し暗くなった。二人の足音が並んでいた。
「あと」と朔がまた言った。「同じ声が何度も聞こえた気がする」
「誰の」
「分からない。時代が違うのに、同じ声で。知ってる声なんだけど、誰か分からなかった」
燐は何も答えなかった。朔も別に答えを待っていないようだった。ただ、話していた。誰かに向けてというより、声にしながら自分で確かめているみたいに。
「怖くないの」と燐は聞いた。
少し間があった。
「怖くない」と朔が言った。「変なんだけど。全然怖くないんだよね。なんか……やっと来た、みたいな感じ。本来の自分に近づいた気がして」
燐は前を見ていた。
本来の自分。
その言葉を、燐は飲み込んだ。飲み込んで、特に何も言わなかった。でも少しだけ、ペースを朔に合わせた。もともと合っていたかもしれない。どちらかは分からなかった。
「燐は」と朔が言った。「覚醒した時って、ああいう感じだった?」
「俺は違う」
「どんな感じ」
「もっと熱かった。朔みたいに遠くのもの見える感じじゃない。ただ火がついた感じ」
「そっか」
「お前のが静かだな」
「うん」
また黙った。静かな黙り方だった。気まずくなかった。今日一日ずっとそうだったから、このまま続いているだけだった。
商店街を抜けた先、道が二手に分かれるところで、朔が少し足を緩めた。
「ありがとう」と朔が言った。
「何が」
「今夜、一緒にいてくれたから」
燐は答えなかった。「どういたしまして」と言う気にもなれなかった。かといって「別に」でも違う気がした。だから何も言わなかった。
「後処理、まだあるんでしょ。行っていいよ」
朔が言った。それから「また明日」と言って、学院の方へ歩いていった。
燐はその場に立ったまま、朔の背中を見ていた。道の端の暗がりに、気配があった。神崎冴だった。物陰からすうっと出てきた。目が合った。一言もなかった。でも燐には分かった。「引き継ぐ」という意味だった。冴は朔の三歩後ろに並んで、燐の方を一瞬だけ見た。確認した、という目だった。それで終わりだった。
二人の影が夜の通りに消えていく。
燐は肩から少し力を抜いた。それを自分が無意識にやっていたことに、少し経ってから気づいた。
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夜の空気は湿っていた。九月の終わりにしては生温かかった。
燐はその場に立ったまま、さっきのことを考えようとした。
あの光は何だったのか。
翠色の光が路地を満たした瞬間のことを、燐は何度か思い返した。白い翼が見えた。燐が十七年間で一度も見たことのない顕現の仕方だった。上から来たのでも、横から来たのでもなかった。水面に広がる波紋のように、燐の周囲に静かに満ちた。包んだ、という感覚が近い。
圧力ではなかった。熱でもなかった。荒魂が戦場で感じる焰のような圧力とは、何もかもが違った。深い森の底に降りるような、重力だけが優しくなるような静けさだった。ただ、燐が受けていた「削れる感覚」が一瞬で消えた。さっきまで確実に薄くなっていた緋色の縁が、一瞬だけ戻った気がした。
「守られた」という言葉が浮かんだのは、その後だった。思考より先に身体が動いていた。身体が先に「もういい」と判断した。そういうことが起きたのだと、燐は少し経ってから整理した。整理はできた。でも受け取れたかどうかは、まだ分からなかった。
本来の自分に近づいた気がして。
さっきの朔の声が来た。怖くない、と言っていた。全然怖くないんだよね、と言っていた。覚醒した直後で、過去の記憶が一気に溢れてきて、それでも朔は穏やかだった。燐の隣を普通に歩いていた。足音が並んでいた。
朔が穏やかだったのは、守られたからだろうか。
その考えが来た時、燐は少し止まった。頭が整理しようとして、整理できなかった。「守られた」という感覚の正体がもう少し分かりかけているような気がしたが、言葉にはならなかった。
まあいい。番所に戻る。
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番所に戻ると、律がいた。
壁際に立って、懐中時計を開いていた。燐の足音に気づいて顔を上げた。
「後処理が終わった」
「確認した」
律は懐中時計を閉じた。一拍、間があった。
「さっきの光を確認したか」
「した」
「結城の覚醒か」
「だと思う。あの形は想定外だった」
律は何も言わなかった。また懐中時計を開いた。今度は少し長く見ていた。律が懐中時計を何度も開く時は、何かが計算外になっている時だと経験上知っている。今夜の律がどのくらいそういう夜なのかは、燐には分からなかった。
式紙を出した。
千燈教官への一次報告を書いた。「結城朔、覚醒。対象の保護は神崎へ引き継いだ。現場の後処理は御堂の六番隊へ引き継ぎ済み」。事実だけを書いた。書き終えて、最後に「問題ない」と付け加えようとした。
指が止まった。
いつもなら三秒もかからない。「問題ない。以上」と書いて、終わる。そういう式紙だ。今夜は撤退ラインを超えていない。後処理の引き継ぎも完了した。冴に護衛を渡した。任務として見ればどこにも問題はない。「問題ない」は正確なはずだ。
でも指が動かなかった。
問題ない、という言葉の意味を、燐は何百回と確認してきた。「次の任務に支障が出るレベルではない」という判断。今夜も同じはずだ。でも今夜だけ、その判断を下す前に何かが来た。名前のつかない何かが、「問題ない」の四文字の前で止まっていた。
「……問題ない」
少し遅れて書いた。送った。
律が横目で見ていた。何も言わなかった。燐も何も言わなかった。「問題なかったか」という問いが返ってくることもなかった。それでよかった。
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千燈教官から返信が来たのは、しばらく経ってからだった。
「確認した。今日はそこまで。おつかれさま」
それだけだった。
開く前から波長で分かっていた。いつもの温度。いつもの整然とした感触。どれだけ疲弊していても、千燈教官の式紙の波長は崩れない。そこが正直なところ少し羨ましかった。
「おつかれさま」という一言が、今夜は少しだけ重かった。千燈教官はいつもこういう一言をつける。燐がちゃんと動いたことの確認だ。それだけのことだ。分かっている。
でも今夜は少し違う。
今夜、燐は守られた。「問題ない」と書こうとして指が止まった夜に届いた「おつかれさま」が、何かを刺した。何を、とは言えない。
燐は返信を書かなかった。送った後だから、書く必要はない。でも式紙を開いたまま、しばらく手の中に持っていた。
右手を見た。
「……まあいい」
声に出た。いつもの言葉だった。「まあいい」と言えば終わる。前に進める。諦めでも切り替えでもなく、ただそういう言葉として、ずっと使ってきた。燐がこれまでに「まあいい」と言った回数は、おそらく千回を超えている。任務の後、傷の手当ての後、一人で朝練を終えた後。毎回その言葉で蓋をして、次に向かってきた。
でも今夜は、声が少し違った。
「まあいい」の中身が変わっていた。諦めじゃなかった。言葉を足すとしたら、「まあ、よかった」に近い何かだった。
よかった。
朔が来た。守られた。帰り道、朔は穏やかだった。本来の自分に近づいた気がする、と言っていた。それを聞きながら、燐の「守られた」感覚の正体が少しだけ近づいた気がした。守られた、というのは燐だけの話じゃなかったのかもしれない。今夜の路地で、朔も何かを受け取っていた。燐も何かを受け取った。そういう夜だったのかもしれない。
そこまで気づいた時、燐はそれ以上掘り下げるのをやめた。
やめたのは、考えるのが嫌になったからではない。これ以上掘り続けると、自分が少しだけ泣いてしまいそうな気がしたからだ。今夜それはまずい。荒魂の隊長が、番所の壁に背を預けて泣いてしまうのは——それはまずい。だから蓋をした。今夜はここまでにしておく。
「よかった」という感覚を胸の中に置いたまま、それ以上触れないでいることを選んだ。今夜だけの、そういうやり方だった。
番所の外はまだ夜だった。明け方まで、まだある。燐は壁に背を預けた。右手は、膝の上に置いた。柄には触れなかった。
今夜だけは、この手が休まっていることだけを、認める。
それが今夜の、燐なりの受け取り方だった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
燐の視点です。「守られた」という事実を身体が先に知って、頭がついていけなかった夜の話でした。帰り道、朔は怖がっていなかった。むしろ穏やかだった。その穏やかさが、燐の「守られた」の正体を少しだけ近づけた夜です。言語化できないまま「まあいい」の意味だけが少し変わった。蓋をしたのは、泣いてしまいそうだったからです。
次は千燈視点に続きます。同じ夜を、別の場所から見ていた人の話です。どうぞお付き合いください。




