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第6話 「踏み込もうとして、止まった」

声をかけようとして、止まったことがある。 止まった理由が見えていた分だけ、前回よりも少しだけ、長く止まっていた。


視点は結城朔(ゆうきさく)。三度目の朔視点。 今日は、燐の目が少し疲れていた、という話です。

 金木犀の香りがした。


 廊下を歩いていると、開けっぱなしの窓から入ってくる。朝と違って午後の金木犀は少し重い。九月の終わりかけに、十月が滲んでいる。


 燐が廊下の先にいた。


 教室棟から食堂に向かう途中の廊下で、同じ方向を歩いている後ろ姿だった。高い身長で、歩き方に無駄がない。遠くから見ても燐だと分かる。朔は無意識に、その後ろ姿の何かが今日は違う、と思った。


 歩き方ではない。速さでもない。


 肩のあたりが、少しだけ違う気がした。いつもの燐の肩は前に向いている。「次に進む」という重心が、姿勢の中に出ている。今日の肩は、どこか——朔は言葉を探した。出なかった。ただ、いつもと何かが違った。


---


 食堂に入ると、燐はすでに列に並んでいた。


 朔も列に並んだ。少し後ろに。前から三人目の燐の横顔が、トレーを取る動作の間に一度だけ見えた。


 目が疲れていた。


 正確には分からない。目が疲れているのか、眠れていないのか、何か別のことがあったのか。でも朔には、「いつもの燐の目」との差が見えた。眉間の力が少し違う。そういう違いをいつの間にか蓄積していた。蓄積している、と気づいたのは今だったけれど。


 「ねえ、今日の委員会って何時からだっけ」


 「四時だよ、四時。また忘れたの」


 すぐ後ろに並んだ生徒たちの声が通り抜けていく。何でもない声だった。当たり前の声だった。


 その中で、朔は声をかけようと思った。


 「大丈夫?」という言葉が、頭の中で用意された。右手が無意識に動いて、制服の首元にある勾玉のお守りに触れた。でも列が進んで、燐はすでにトレーを持って出口に向かっていた。朔もトレーを取って、あとを追おうと思った——その一拍が、間に合わなかった。燐が別のテーブルの人に声をかけられて、そちらの席に座った。朔はそれを見て、別のテーブルに座った。


 食べながら、少し考えた。


 「大丈夫?」と聞けばよかった。でも、聞いたとして、燐は何と言うか。「問題ない」と言う。たぶん、そう言う。今まで何回も聞いた言葉だ。燐の「問題ない」は嘘ではない——でも全部でもない、ということを、朔はなんとなく知っていた。「問題ない」と言われた後、朔には次の言葉がなかった。「問題ないなら安心した」で終わる。それは、声をかけた意味があったのかどうか、よく分からない。


 だから止まったのか、と思った時には、食事が終わっていた。燐はもう席を立っていた。


---


 午後の授業が終わって、図書館に寄った。


 特に目的はなかった。課題のために参考文献を調べようと思っていたが、どの棚に行けばいいかを考えているうちに、空いているテーブルに座っていた。鞄から参考書を取り出して、開いた。


 少しして、向かいの椅子が引かれた。


 顔を上げると、燐がいた。


 鞄を持ったまま立っていた。図書館の入り口のあたりで何かを探していたのか、それとも朔を見つけてきたのか、どちらか分からなかった。


 「お前、勉強しに来たの?」


 「……うん」


 「なるほど」


 燐が椅子に腰を下ろした。参考書を出す様子はなかった。鞄を横に置いて、少し背もたれに寄りかかった。窓の外を一度見た。また視線が戻ってきた。


 「なんか、ここにいたかっただけかも」


 小さな声だった。燐にしては珍しい言い方だった。「なんか」と「だけかも」という言葉が、どちらも燐の口から出ることはあまりない。


 「そっか」


 返事はそれだけにした。


 図書館の中は静かだった。他の生徒が何人かいて、ページをめくる音がした。空調の低い音がある。窓からは午後の光が入っていて、テーブルの端に薄い影ができていた。


 朔は参考書に目を戻した。燐もそのまま座っていた。


 声をかけようとした言葉が喉の近くまで来た。「今日、大丈夫?」という言葉が。


 首元の勾玉に、また指先が触れた。


 止まった。


 また「問題ない」と言われるかもしれない、と思ったからだ。「問題ない」の先に何を置けばいいか分からないから、最初の一歩が出ない。もっと先の言葉を持っていなかった。だから、止まった。それだけだ。


 今日は、なぜ止まったのかが分かった。前回よりも一秒か二秒、言葉が喉の近くにいた。


 燐がページをめくる音がした。


 いつの間にか本を開いていた。参考書ではなく、棚から持ってきた何かだった。タイトルは見えなかった。ただ燐が本を開いて、ゆっくりページを繰っているのが目の端に見えた。


 朔は参考書の文字を追いながら、燐の存在を感じていた。同じ空間にいる。声をかけなかった。かけられなかった。でも燐は、何かを探してここに来て、本を開いた。


 「なんか、ここにいたかっただけかも」という言葉が、少し遅れて意味を持ち始めた。


 今日の燐は、少し疲れていた。それは目が言っていた。肩が言っていた。声の柔らかさが言っていた。燐が人に「ここにいたかった」と言うことは滅多にない。でも今日は言った。


 朔はそれを受け取って、「そっか」と言って、隣に座っていた。


 それが正しかったかどうかは分からなかった。でも「問題ないなら良かった」で終わらせたくなかった。その気持ちだけは、はっきりしていた。


---


 「そろそろ行くか」


 燐が本を閉じて立ち上がった。元の棚に戻しに行く。朔も参考書を閉じた。今日は結局、あまり中身を読めなかった。


 廊下に出ると、金木犀の香りはもうなかった。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第六話は朔視点。止まった理由が今日は見えた、という話を書きました。前より一秒か二秒、言葉が長く喉の近くにいた。それだけが、朔の今日の一歩です。


次話は燐の視点に戻ります。今日の疲れた目の理由と、その夜の話です。どうぞお付き合いください。

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