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第5話 「削れていく感覚に、名前がつかない」

強い人間は、限界を迎えても音がしない。 だから誰も気づかない。本人も含めて。


視点は刈谷燐(かりやりん)。桜暁女学院の高校二年生。五番隊の隊長。 「問題ない」という言葉が、この人にとって何を意味するのか。 五番隊の巡回担当日の話です。

 湿った風が路地を抜ける。深夜二時。


 武蔵北区画。校舎裏から続く細い路地の入り口で、刈谷燐(かりやりん)は立ち止まった。黒のタクティカルジャケット。腰に懐刀(ふところがたな)。路地の奥から漂う気配に、首筋が粟立つ。


 数が多い。


 今夜の番員は四名。隊列を組んで、燐が先頭に立つ。いつも通りだ。でも、いつも通りではなかった。


 空気が重い。重さの質が違う。単純な穢れの密度ではない。何か別の——燐は思考を打ち切って、前に出た。考えは後でいい。今は動く。それが先だ。


---


 路地の一本目で、穢影(えかげ)が二体。


 斬り込んだ。一体目。緋色の軌跡が路地の壁に走った。手応えがある。浄化できた。二体目に向かって踏み込む——動きが読めない。いつもと違う動き方だ。軌道を読ませず、避けている。こちらの動作を見ている。


 一手多くかかった。


 「問題ない」と判断して、先を急いだ。


---


 二本目の路地で、また二体。


 今度はうまくいった。でも、違和感が刃先に残った。


 一体目を浄化した時、何も感じなかった。


 いつもなら来る。輪郭が鮮明になる一瞬、ここに誰かがいたという感覚が届く。悲しみか、怨恨か、未練か——それは毎回違う。でも必ず「送る」ことになる。今夜は、来なかった。近づいてもにおいがない。斬っても温度がない。浄化したはずが、浄化した感覚がない。


 燐は少し、立ち止まった。


 「——いなかった」


 そんな言葉が浮かぶ。でも穢影は確かにそこにいた。斬った手応えもあった。なのに「いた」という感触がない。残滓がない。


 気のせいかもしれない。燐は前に進んだ。


---


 三本目で、状況が変わった。


 穢影が五体いた。


 多すぎる。普段この区画で一夜に出る数の、一週間分だ。燐は即座に判断した。「行くぞ」と番員に声をかけて、先頭で踏み込んだ。


 最初の三体は問題なかった。感情の澱みを持つ穢影。古いにおいがある。こちらの動きを待っている。斬り込んで、緋色のエネルギーを核に通す。浄化する。一体、二体、三体。


 四体目に刃を通した瞬間、感覚が消えた。


 手応えはある。だが、核を砕いたはずの刃先から、何も伝わってこない。悲しみも、怒りも、未練の重さも。においがない。温度がない。壊れた灯りのように明滅する人型の輪郭。中身は、空だ。


 「殺そうとしている」と燐は思った。「でも、なぜ殺そうとしているか分からない」——これは何だ。


 それでも斬った。浄化できた。消えた。


 五体目は通常型だった。処理して、終わった。


---


 番員を番所に帰した。


 折り返し地点の物置小屋の横で、燐は一人残った。右肩に手を当てた。今夜は五体目の衝撃を肩で受けた。防いだが、圧がかかった。古傷の上に重なった形で、疼いている。大した傷ではない。


 足音がした。


 燐は振り返らなかった。分かっていた。律の歩き方だ。折り返し地点で、六番隊が来た。合流するはずのない場所だった。経路変更をするなら、理由がある。


 「今夜の担当区画、変更したか」と燐が聞いた。


 「変更した」と律が返した。短い。隣に並んで立った。しばらく黙って、同じ方向を見ていた。


 「北側に引っ張られていた」と律が言った。「今夜の発生位置を確認すると——」


 少し間を置いた。


 「意図的な配置に見える」


 律が、断定を避けた。


 燐の背中が、すっと冷えた。「意図的」という言葉が、頭の中にこびりついて離れない。今夜の感情成分ゼロの穢影。発生位置の規則性。多すぎる数。一つ一つは説明がつくかもしれない。でも全部重なった時に——燐は考えを止めた。考えは千燈教官に渡す。燐の仕事ではない。


 「報告は上げる」と燐が言った。


 「そうしてくれ」と律が返した。それだけだった。


 律の足音が遠くなっていった。


---


 番所に戻って、千燈への式紙(しきし)を書こうとした。


 「武蔵北区画・穢影七体・処理済み。うち感情成分未確認が——」


 手が止まった。


 「感情成分未確認」なんて言葉、書いたことがない。書き方が分からない。「気のせいかもしれない」と書いて流したほうが楽だ。でも流せなかった。今夜のあの感覚は、気のせいでは片付けられない。


 「消耗は通常範囲内。問題な」


 式紙をなぞる指先が、そこで止まった。


 書けない。


 第四等が出ようが、数が多かろうが、古傷が疼こうが——これまでは「問題ない」で押し通してきた。今夜のあの「空っぽ」の穢れは、その基準で測れるものではなかった。


 燐は式紙を書き直した。


 「武蔵北区画・第四等七体処理済み。うち一体、浄化時の感情残滓を確認できず。発生位置に規則性あり。六番隊と合流・同じ区画内で発生を確認。意図的な配置の可能性について精査を要請します。消耗は通常の一・五倍程度。問題なし、とは書けません」


 式紙を送った。


 光が消えていくのを見ていた。「問題なし」と書けなかった式紙が千燈の元に届く。変なものを送った。でも取り戻せない。


---


 報告を出してから、少し止まった。


 こんな夜が、続くとしたら。


 その先を考えようとして、やめた。続くかどうかは分からない。分からないことは考えない。それが燐の決め方だ。でも今夜は「やめた」という感覚がはっきりと残った。いつもは考える前に切り替わる。今夜は、意識して切り替えた。


 そこに差があった。


---


 寮に戻って、部屋に入った。


 制服を脱いで私服に着替えた。机の上の懐刀を取り上げて、緋色の縁を指で確かめた。


 薄い。


 今週で、また薄くなった。先週より。先週の先週より、また少し。数値はない。感覚だけだ。でもこの感覚は正確だ、と燐は思っている。


 懐刀を置いた。


 今夜起きたことを朔に話したいと思った。すぐに、できないと分かった。天使のことは話せない。穢れのことも話せない。今夜感じたあの「空っぽ」の感覚も、言葉にしても伝わらない。何も話せない。


 「話したい」という感情が来た、という事実だけが残った。


 ベッドに腰を下ろした。クマのぬいぐるみが枕の隣にいた。気まずくも何ともない。今夜はそのままにした。端末を取り出して、朔の名前を開いた。何かを送るつもりで開いた。あの「空っぽ」を斬った時の気味の悪さを、聞いてほしかった。でも、文字は打てない。届けたいのに、届けられない。


 何も打たずに、画面を伏せた。


---


 起き上がって、懸垂バーに手をかけた。


 体が動いている間は、余計なことが後ろに下がる。今夜はなかなか下がらなかった。三十回を超えてから、少しだけ、静かになった。手を離した。


 「……まあいいか」


 言ってみた。今夜はあまりしっくり来なかった。


 横になった。


 「問題なし、とは書けません」という言葉が、頭の中にまだ張り付いている。正しく書いた。正直に書いた。でも正直に書いた後に来るのがこの静けさか。動いている間は分からない。止まった時にだけ、来る。


 天井を見ていた。


 今週は何体だったか。気づいたら数えていた。数える必要はない。でも数えていた。合計を出そうとして、やめた。


 電気を消した。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第五話は燐視点。「問題ない」が書けなかった、初めての夜の話です。嘘をついたわけじゃない。でも今まで通りには書けなかった。その差を書きたかった。


次話は朔視点に戻ります。燐の目が少し疲れている、という朔の観察から始まる話です。どうぞお付き合いください。

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