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第3話 「強い人は、折れる音がしない」

強い人間は、限界を迎えても音がしない。

だから誰も気づかない。本人も含めて。


視点は刈谷燐(かりやりん)。桜暁女学院の高校二年生。五番隊の隊長。

「問題ない」という言葉が、この人にとって何を意味するのか。

五番隊の巡回担当日の、夜明け前から始まります。

霧の中に、音がなかった。


 五時を少し回ったばかりの訓練場は、丘の上にある。校舎より高い場所に作られた石畳の区画で、四方を結界が囲んでいる。外の音が届かない。風の音すらない。自分の足音と、素振りの風切り音だけが、霧の中に吸い込まれていく。


 刈谷燐(かりやりん)は、依代の懐刀(ふところがたな)を腰から外した。


 手のひらに収まる小さな刀だ。宙に向けて念じると、刀身が光の中から現れた。大太刀。体格に対して大きい。でも燐の手には、軽い。この重さを初めて感じた時のことを覚えている。「これだ」という感覚が先に来た。理由より前に。体が知っていた。


 翼を出した。


 白い翼が、霧の中にゆっくりと広がった。大きくはない。朝練の時はいつも自然体のフォルムだ。緋色はまだ眠っている。戦闘前の、静かな状態。霧が翼に触れると、少し散った。朝の薄明かりを縁が受けている。


 素振りを始めた。一本、二本。腕が覚えている順番で動く。数は数えない。体が「今日はここまで」と判断した時に手が止まる。それを「終わり」にしている。


 「荒魂(あらみたま)」というのは、熱を持つ魂種だと聞いたことがある。でも燐が自分の荒魂を感じるのは、戦っている時より、こうして黙って動いている時の方が多い。前に出ること。止まらないこと。この感覚がある限り、まだ動ける。


 霧が少しずつ薄くなってきた。


 遠くで足音がした。


 巡回路の先から来る、規則的な足音。燐は素振りの手を止めなかった。律の歩き方だ。音の間隔で分かる。律が訓練場の端を通り過ぎる。視線が一瞬だけこちらに向いたかもしれない。でも何も言わなかった。燐も何も言わなかった。


 それで十分だった。


---


 六時前に訓練場を出た。


 今日は巡回担当の日だ。番員たちはすでに番所の前に集まっていた。燐が来ると、誰も何も言わずに動き始めた。この動き方は、繰り返しの中で育ったものだ。


 朝の巡回は、担当区画を一周する。大きな変化はない。地脈の流れは昨日と同じだ。結界の張り具合を確かめながら歩く。霧が晴れてきて、学院の屋根が見え始めた。空気が少しずつ温度を持ち始める。九月の終わりかけの朝は、霧が晴れると金木犀の香りが来る。今日もそうだった。


 北側の路地に差し掛かった時、気配があった。


 壁のそばに滲んでいる。薄い。でも確かにある。


 燐は無言で手を上げた。番員が止まる。燐が前に出た。


 「穢影(えかげ)


 第四等。人型の輪郭が、路地の壁際でゆっくりと揺れていた。輪郭線が陽炎のように揺らいでいる。大きさは人間と同程度か、少し大きい。色は暗い灰色——影に近い色だ。顔の位置に鈍い光の点がある。目とは呼べない。同じ場所を行ったり来たりしている。生前の習慣的な動作が残っているのだ、と燐は思った。


 古いにおいがした。寒気ではなく、においとして来る。悲しみか、怒りか。まだ決まっていない感情の澱みだ。誰かがここにいたのだろう。長い時間を、この場所で過ごした誰かが。こういう感覚があるから、浄化は「消す」ことではなく「送る」ことだと燐は思っている。


 懐刀を腰から外した。念じると大太刀が顕現する。


 踏み込んだ。一振り。


 大太刀の緋色が穢影の核に触れた瞬間、輪郭が一瞬だけ鮮明になった。——ここに居た、という証のように。それから金の光が滲んで、消えた。


 終わった。


 燐は大太刀を懐刀に戻した。手の中に収まる重さを確かめた。


 少し、軽い気がした。


 気のせいかもしれない。毎朝の素振りの後だ。腕が疲れているだけだ。燐はそう処理して、番員に向き直った。「行くぞ」と言って、路地を出た。


---


 番所に戻って、千燈へ式紙を送った。


 「武蔵北区画・北側路地・第四等一体・処理済み。依代の消耗は通常範囲内。問題ない。」


 式紙が光に包まれて消えていくのを見届けた。


 番員が朝食に向かった。燐は一人残った。


 右肩に手を当てた。


 昨日の任務で受けた古傷が、朝の冷気に反応している。大した傷ではない。治りかけている。次の任務に出るまでには戻る。だから「問題ない」は本当のことだ。燐はそう判断している。「問題がない」とは「次の任務に支障が出ない」という意味であって、「何もない」という意味ではない。


 ただ、式紙に書く言葉が毎回同じになる。


 「消耗は通常範囲内」「問題ない」「問題ない」「問題ない」——書けることを書いている。書けないことがあるとしたら、それは「正確に書く言葉が見つからない」からだ。腕が少し重い、という感覚を数値にする方法を、燐は持っていない。


 昨日、今日と同じ言葉を送った。先週も同じ言葉を送った。榊教官なら、この不器用な波長から「削れた後の質感」を正確に読み取っているはずだ。あの人はそういう人だ。見透かされていると分かっていても、燐の口から出せる言葉はこれしかなかった。


 肩から手を離した。


 朝食の時間だ。食堂に向かった。


---


 昼休み、噴水のベンチに朔がいた。


 廊下の窓から見えた。今日もあそこにいる。毎日来ている。「なんとなく落ち着く」と言っていた。理由を聞いたことはない。


 食堂でパンを買って、中庭に出た。


 「ここにいると思った」


 朔が顔を上げた。燐はその隣に腰を下ろした。朔が昼にどこにいるかは、もう大体分かっている。


 鋒継(ほうつぎ)の話になった。朔が先に言い出した。この話題だと朔のテンポが変わる。「BGMが変わるタイミングが一秒も早くない」と言い始めて、燐には気づかなかったことを次々と出してくる。「そんなとこ見てたの」と言うと「全部見てる」と返ってきた。


 細かいところをよく見る。でも自分のことになると、いつも一手遅れる。朔はそういうやつだ、と燐は思った。


 昼休みが終わって、二人で教室へ向かった。


---


 放課後、食堂で朔と向かい合わせになった。


 「委員会のやつ」と切り出すと、朔が「あ、えっと、進行の——」と言いかけた。燐はもう決めていた。「私がやる。お前、記録でいいか?」と言って、パンを齧った。


 委員会の発表のことは、朝から分かっていた。燐は朔の肘が机から少し浮いているのを見ていた。先週とは違う。今日は挙げようとしていた。でも、また間に合わなかった。


 「今日の委員会、さっさと終わったな」と言うと、朔が「そう、だね」と返した。「お前も手挙げようとしてたか?」と聞くと、「……うーん」と言った。


 「まあそういう日もある」


 朔のことはよく見える。ただそれだけだ。


---


 食堂を出ると、廊下は夕方の光だった。


 朔と別れてから、寮へ向かう廊下を一人で歩いた。


---


 自室に戻った。


 ドアを開けると、ベッドの上にクマのぬいぐるみがいた。中くらいのサイズで、ずっとそこにいる。気づいたらあった、としか言いようがない。誰かにもらったわけでも、欲しくて買ったわけでもない。ただずっとそこにいる。気まずいのは、誰かに見られる時だけだ。


 制服を着たまま、ベッドに腰を下ろした。


 体を動かしていないと、朝の感覚が戻ってくる。古傷の疼き。式紙に「問題ない」と書いた後の、言葉では埋まらない感覚。それらが、静かに戻ってくる。


 気づいたら、ぬいぐるみが膝の上にあった。いつ手が伸びたのか分からなかった。燐は少し気まずくなって、ベッドの端に置いた。また手が伸びた。今度は気づいたが、そのままにした。


 端末を取り出した。「明日の朝、走りに行かないか」と打って、送信した。考えてから打ったわけではない。体が先に動いた。


 立ち上がった。シャドーを始めた。


 部屋の中で素手のシャドーをするのは、考えを止めるためだ。体が動いている間は、余計なことが後ろに下がる。リズムがある。体が自然に動く。窓の外を一度見た。中庭の噴水が、夕暮れの中で動いていた。また動き始めた。


 ひとしきり動いてから、懐刀を机から取り出した。


 緋色の縁を指でなぞった。朝に「少し軽い気がした」という感触の答え合わせだ。少し薄い。やはり、少し薄かった。「問題ない」の範囲内だ。今日も。懐刀をもう一度、握り直した。この重さが変わらない限り、動ける。それが燐の基準だ。


 端末が光っていた。返信が来ていた。「行く」とだけ書いてあった。短い。でも来た。


 「じゃあ明日六時、正門前で」と返した。


 明日は走る。朝の訓練場と同じ時間に、同じ場所で、今度は朔がいる。


 悪くなかった。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第三話は燐視点。「問題ない」という言葉が、この人の中でどういう意味を持っているのか、を書きたかった話です。嘘ではない。でも、全部でもない。


次話は視点が変わります。第三話と同じ日を、別の視点から。どうぞお付き合いください。

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