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第2話 「踏み出せない子には、踏み出せない理由がある」

踏み出せない人間には、踏み出せない理由がある。

でも、「理由があること」と「動けること」は、別の話だ。


視点は結城朔(ゆうきさく)。桜暁女学院の高校二年生。

委員会でも、廊下でも、ゲームの中でも——準備だけは完璧な子の話です。

目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。


 朝の光がカーテンの端から滲んでいた。九月の終わりが近い。窓の外から、金木犀の香りがかすかに来た。昨日まではなかった香りだ。一日で変わった、と思うくらい、今朝は確かにある。


 洗面台の鏡に自分が映った。黒髪を低く束ねて、前髪を眉上でまとめた。「なんとなく落ち着く」顔だ、といつも思う。目立とうとしていない——ただ、ちゃんとそこにある顔。制服のボタンをきちんと留めながら、首元に小さな勾玉(まがたま)のお守りを下げた。いつだったか、「なんとなく好きで」買ったお守りだ。なんとなく、というのが正確で、理由を聞かれたら困る。でもつけないと、何かが足りない気がする朝がある。


 部屋を出た。


 寮の廊下はまだ静かだった。食堂の換気扇の低い振動が、壁越しに足元まで伝わってくる。


 頭の中で、今日の予定を三回なぞった。午前の委員会、昼休みのベンチ、放課後の自習。今日の委員会では進行担当を決める。誰が手を挙げるか。誰も挙げなかったらどうするか。もし自分がやるとしたら、最初の言葉は——。


 中庭の大きな桜の木が、朝の光を受けていた。今日こそは、と思った。


 毎週そう思う。委員会が始まる前に「今日は手を挙げよう」と決める。やってみたいという気持ちがある。それは確かだ。問題は、その気持ちが行動になるまでの間に、別のことが来ることだ。段取りを考え始めて、次に「失敗したら」が来て、その前に「そもそも今の自分にできるのか」が来て——


 考えている間に、刈谷燐(かりやりん)が手を挙げていた。


 「じゃあ私が」という声が響いた。司会が「刈谷さん、ありがとう」と応じた。


 朔の右肘は、机から二センチか三センチ、浮いていた。


 浮いていた。それに気づいた時には、もう燐の声が教室に響いていた。


「また迷った」というのは、正確ではない。迷ったのではなく、考えている間に終わった——いつもそうだ。「迷った」と言えたら、まだ自分に言い訳ができる。でも実際は、迷ってすらいない。頭が整理を終える前に、世界が先へ進んでいる。


それでも、今日は肘が浮いた。机に張り付いていた先週とは違う。頭の中で、その数センチの事実だけを静かに書き留めた。


 隣で燐が進行の資料を開いている。当たり前のことをしている顔だ。


---


 昼休みに入ると、廊下を歩いていた。


 今日は迷わずにここへ来た。でも噴水の前のベンチに座ると、いつもより呼吸が深くなる気がする——その理由は、まだよく分からない。昼の光が噴水の水を散らして、本館の壁に揺れる反射を作っていた。


 首元のお守りに、気づいたら手が触れていた。


 「ここにいると思った」


 声がして顔を上げると、燐が立っていた。焦げ茶のベリーショートが昼の光の中にある。すっきりした首周り、引き締まった体格。急いで来たわけでもなく、でも最短で来た、という感じの立ち方をしている。


 「分かるの」


 「なんとなく。お前、昼ここにいること多いから」


 隣に腰を下ろした。「なんとなく」と言う時、それは観察の積み重ねから来ている。透明ではなかった——ちゃんと見えていた、ということだ。


 しばらく並んで購買のパンを食べた。金木犀の香りが今日は廊下の端まで来ている。


 「今週の『鋒継(ほうつぎ)』、見た?」


 先に言ったのは朔だった。この話題だけは、先に言える。


 「見た。三十二話の継承シーンが良かった」


 「あそこ、BGMが変わるタイミングが一秒も早くないんだよ。三十一話の朝練シーンで主人公の呼吸が一瞬乱れるの、覚えてる?あれを積み上げてからじゃないと三十二話の重さが半分になる」


 「そんなとこ見てたの」


 「全部見てる」


 燐が「……ちゃんと仕事してんだな」という顔をした。感心した、という顔だ。


 それがなぜか少し嬉しかった。嬉しい、とは思わないようにした。でも確かにあった。


---


 午後の授業が始まる前の廊下で、正面から知らない人とすれ違った。


 前髪が長くて、目がほとんど隠れていた。背が低くて、歩き方が少し内向きだった。普通にすれ違う——はずだったが、その人の目がこちらに向いた。「見た」ではなく、「見ようとした」。こちらの内側の何かを確認しようとするような、静かな目だった。


 すれ違って、廊下の先に消えた。


 「変な目をした人がいた」という印象だけが残った。悪い意味ではない。ただ、普通の「見ている」とは少し違う何かがあった。


 廊下の端に、人の気配があった気がした。壁際、自然な立ち位置に誰かいた気がした。次に視線を向けた時にはただの廊下で、誰もいなかった。気のせいかもしれない。


---


 放課後、食堂で燐と向かい合わせになった。


 「委員会のやつ」


 燐がパンの袋を開けながら、唐突に言った。


 「あ、えっと、進行の——」


 「私がやる。お前、記録でいいか?」


 手帳を出すこともなく、燐はもう決めていた。朔が返事をする前に、パンを齧っている。


 そうだった。そう決まっていたのだ。「良かった」という気持ちと「また」という気持ちが、同時に来た。


「今日の委員会、さっさと終わったな」


 「そう、だね」


 「お前も手挙げようとしてたか?」


 「……うーん」


 「まあそういう日もある」


 燐が先にパンを食べ始めた。「そういう日もある」——責めていない。確認もしていない。ただ、「見られていた」という事実だけがある。


 ちゃんと見られていた、と思った。


---


 夜、端末を開いてクロノレイドを起動した。


 先週から同じステージで詰まっている。攻略法は分かっている。敵の行動パターンを三回読んだ。でも本番で手が止まる。最初の判断が一手遅れる。


 また止まった。端末を置いて、攻略サイトを開いた。スマートフォンを画面に近づけて、図解の動画を三回見た。「ここが分岐点か」と小さく言って、別のノートにメモした。矢印と数字で書いた。


 再開した。スムーズに動いた。


 「できた」と声に出てから、少し恥ずかしかった。


 次の話の先行情報が気になって「鋒刃の継ぎ手(ほうじんのつぎて)」の公式ページを開いた。予告を読んだ。知らずに前のめりになっていた。「……っ、この展開」という言葉が口から出た。同じ場面を四回見た。


 昼に燐と話した三十二話のことを思い出した。「燐は斬り込みの角度が好きだ」と言っていた。「そんなとこ見てたの」と驚いていた。燐にとっては「直感で刺さる場面」、朔にとっては「積み重ねの構造として見える場面」。同じ話を見て、届く場所が違う。それが何か面白いと思った。


 明日の帰りに話せるかもしれない。攻略サイトの図解の話も、できるかもしれない。


 誰かに話したい、という気持ちが来た。


 もう寝る時間だ。


 「明日の朝、走りに行かないか」


 燐からのメッセージが届いていた。送信時刻は今日の放課後——さっき食堂で別れた少し後だ。


 行こう、と思った。「行く」と打てばいい。それだけだ。


 でも「何時に」「どこで待つか」「雨だったら」が同時に来て、全部まとめて返そうとして——


 「まあ、考えといてくれ」という追いメッセージが来た。


 先に言われてしまった。


 「……行く」と打った。


 送信してから、少し止まった。今日もまた、一手遅れた。でも今日は、遅れた理由が分かっている。全部を整理してから返そうとした。整理できる前に来た。それだけだ。「迷った」のではなく「整理しようとしていたら先に来た」。


 *今日は理由が見えた。*


 頭の中に書き留めた。昨日より少しだけ、違う。


 燐から「じゃあ明日六時、正門前で」と来た。


 不安より先に、明日を楽しみにしている気持ちが来た。明日の帰りにでも、「鋒継」の話をしよう。攻略サイトで見た図の話も、できるかもしれない。


 目を閉じた。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第二話は朔視点。「また迷った」という言葉、実は正確ではないんです。迷ってすらいない——考えている間に世界が進む。でも今日は、遅れた理由が見えた。


次話は視点が変わります。当たり前のように手を挙げた人の、朝はどんな朝なのか。

どうぞお付き合いください。

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