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第1話 「見えているからといって、全部はわからないでしょ」

見えすぎる人間は、見えすぎるゆえに動けなくなることがある。


東京都府中市。天使たちが今も「武蔵国」と呼ぶその地で、前線教官にして桜暁女学院の教師を務める榊千燈(さかきちとも)。式部からの催促メールを颯爽と五通既読スルーしながら、今日も生徒を観察しています。「全部見えている」はずの彼女が、一枚だけ書けないページを持っているとしたら。


群像劇「倭国天使 現代録」第一話。まず前線の教官側から覗いてみてください。

 スマートフォンの画面に、メールの通知が光った。


 目覚まし代わりにしているアラームを止めた直後のことだった。式部(しきぶ)からだ。今週だけで五通目の催促だった。


 榊千燈(さかきちとも)は画面を三秒見て、布団の端を引き上げた。


 部屋はまだ暗い。九月の朝は遅い光から始まる。机の上に眼鏡がある。肩まで伸びた深緑の髪がシーツに広がったままだ。お団子にするのは眼鏡をかけてからでいい。毎朝そう決めている。制服代わりの白いブラウスと黒のスラックスは、椅子の背もたれにかかっている。今日もあれを着て、手帳を持つ。


 今日も報告書を出す日だ、という感覚が先に来た。


 昨夜のうちに、複数の式紙(しきし)が届いていた。武蔵の現場から、それぞれが短く、それぞれの形で。点は揃っている。ただその点が線に繋がらない。「全体として何が起きているか」という問いに答えが出ないまま、千燈は今週も報告書を書き続けている。


 眼鏡をかけた。深緑の髪を束ね、前髪をまっすぐ眉上で切り揃えた。いつも通りの朝になった。


---


 廊下に出ると、金木犀の香りが薄く来た。


 九月の終わりが近い。残暑の空気がまだ窓ガラスに染みついているが、今朝は少しだけ温度が違う。霊桜(れいおう)の葉が中庭に光の粒を落としていた。食堂の換気扇の低い振動が、壁越しに足元まで届いてくる。


 職員室から廊下に出た瞬間、前から一年生が走ってきた。


 「榊先生! 昨日の課題ってここまでやればいいんですか?」


 教科書を開いて、該当ページを指で示してくる。千燈は一拍置いて、それから手を大きく動かした。


 「そうそう、ここまで! ここが分かれば後は大丈夫!」


 口角が上がる。声が明るくなる。手が大きく動く。廊下の先を歩いていた二年生が、その振りの大きさに振り返った。


 「あと、このページの問三が少し難しいかもしれないけど、前の単元と同じ考え方でいけるから。分からなかったら聞きに来て」


 「ありがとうございます!」


 生徒が走っていく。背中が角を曲がるまで、千燈は笑顔のまま手を振った。


 扉が閉まった。


 眼鏡を指で一度押し上げた。誰もいない部屋の壁に向けて、千燈はどこも見ていない目をした。


---


 昼休みに入ってすぐ、デスクに座って窓から中庭を見ると、噴水の前のベンチに結城朔(ゆうきさく)が座っていた。


 十七歳、高校二年。黒髪を低く一つに束ね、前髪を眉上でまとめた、どこにでもいそうな生徒だ。制服をきちんと着こなしていて、背筋が少しだけ内側に傾いている。目立とうとしていないのに、千燈の目にはよく止まる。


 今日もあのベンチに来ている。理由を本人は分からないだろう。でも千燈には分かる。意識が気づくより前に、魂がもうその場所を知っている。そういう引力がある。


 首元の小さな勾玉(まがたま)のお守りに手が触れた。遠目でもそれが分かる。


 (朔:要観察)


 手帳に書いた。新しい日付の下に同じ言葉を書くことが千燈の記録の仕方だ。変化がないことも、変化である。


 そこへ式紙が届いた。律だ。送り主の波長を受け取った瞬間に分かる。温度を持つ前に処理されている質の冷たさ。


 「九月五日から九日、武蔵北区画の穢れ発生頻度:前週比プラス十二パーセント。発生位置の重複:三地点。周期性あり・精査中。以上。」


 「以上」で終わる。律らしい。式紙は開封後、静かに燃えて消えた。


 続いてスマートフォンに通知が来た。神崎冴(かんざきさえ)からだ。「護衛対象、本日も行動ルート異常なし」とだけ書いてある。冴は百桁番(ひゃくけたばん)——倭国天使(わこくてんし)の組織に協力する人間の諜報員だ。式紙は使えない。代わりにこういう形で届く。


 朔に護衛を付けたのは千燈の判断だ。組織への正式な申請より前に、千燈はすでに動いていた。覚醒候補に近づく前兆は、教官の目には見える。見えているから、何かが起きる前に手を打っておく——ただし介入はしない。それが規則だ。だから冴がいる。


 澄から式紙が届いた。幸魂(さきみたま)らしく、波長に感情の揺らぎがある。温かくて、でも少し遠ざかろうとしている。


 「浄化時における感情流入量が増加傾向にあります。引き続き経過観察とします。……気になる、とだけ書いておきます。」


 末尾の一行が滲んでいた。


 凪沙から式紙が届いた。薄い光がすうっと広がって、手の中に収まった。


 「担当区画の結界に内圧の揺れ×三回。」


 その後の「地脈変化の可能性」は、千燈が波長から読み取って補った解釈だ。凪沙が体で感じたのは「守っている結界への変な圧力」であって、地脈という言葉は凪沙の中にない。和魂(にぎみたま)の守護感覚はそういうものだ。数字が正確だった。


 最後に、燐から式紙が届いた。


 荒魂(あらみたま)らしい熱量のある波長だが、今日は縁が薄い。「削れた後」の質感がある。文面は短く、折り目正しかった。


 「武蔵北・第四等一体・処理済み。依代の消耗は通常範囲内。問題ない。」


 千燈はその波長を読む。「削れた後」の質感が今日は少し強かった。でも「問題ない」の範囲の中に収まっている。式紙が燃えて消えた。


 燐。律。澄。凪沙。冴。誰も怠けていない。誰も嘘をついていない。だから点が揃っている。


 (点として上がっている。でも線に繋がっていない。)


 手帳の余白にそう書いた。答えが出ないまま動き続けている。今週もそうだ。


---


 午後、式部への定期報告書を送った。


 律の観測データ、澄の感情流入量の変化、凪沙の内圧の揺れ、冴の護衛記録、燐の処理報告——奇魂(くしみたま)として感じ取った違和感も含め、書けることは全部書いた。


 しばらくして、式部から返信が来た。


 件名は「武蔵国府 定期報告書 提出期限について(第三回確認)」。


 三回目だ。式部は丁寧だ。必ず「確認」という言葉を使う。「催促」と書いてきたことは一度もない。一度もないのに、これは催促だ。


 今週届いた催促の五通とは別に、定期報告書の督促が三回目になっていた。千燈の日課の報告と、決まった書式で出す定期報告書は別物だ。後者の返信を、千燈は今週すでに六回書いて、六回全部消した。


 七回目を書き始めた。


 現場の報告は届いている。異常の点も全部上げた。それでも返ってくるのは「経過観察」という指示だけだ。ただ送るたびに、「これで本当に伝わっているのか」というざらつきが残る。


 画面を見た。「問題ありません」という四文字が、カーソルの前に並んでいた。


 千燈はもう一度、今週届いた報告の内容を頭の中で並べた。律の周期性。凪沙の内圧の揺れ。複数地点・繰り返す・一定の間隔。自然発生の穢れはこういう動き方をしない。まるで、誰かが意図を持って配置しているような——


 その考えが形になりかけた瞬間、千燈は画面に向き直った。


 送った。七回目だった。


 数日、同じことが続いた。


---


 ある夕方、橘かをり(たちばなかをり)が湯のみを持って現れた。


 学院の食堂を取り仕切っている人だ。四十代の入りかけに見える、と千燈はいつも思っている。白い割烹着をきちんと着ていて、動きに無駄がない。この人の前では、言い訳がひとつも通らない気がする。


 「千燈さん、その返信、昨日も書いてましたね」


 窓の外を見ながら言った。千燈が顔を上げると、かをりさんはすでに別の方向を見ていた。


 「一度お茶を飲んだらどうでしょう」


 湯のみをデスクの端に置いて、去っていった。


 千燈は画面から目を離して、湯のみを見た。


---


 深夜、食堂に来た。


 照明は落とされていて、窓際の小さな灯りだけが点いている。木のテーブルが並んでいて、窓の向こうに中庭の噴水が見える。昼間と同じ噴水だが、夜に見ると別の場所のような気がする。


 眼鏡を外した。今夜は少し、気が緩んでいた。上層部への報告を出して、かをりさんのお茶を飲んで、それでも「経過観察」という言葉が頭の中に残っている。そういう夜に、千燈はここに来る。


 かをりさんが湯のみを二つ持ってきた。向かいに座った。


 「明らけく(あきらけく)


 「明らけく」


 「穢れなく在れ」という意味の、倭国天使たちが交わす古い挨拶だ。かをりさんが先に返した。


 式部からの催促のこと、複数の現場から上がってくる同じ方向の違和感、それに対して上から来るのが「経過観察」だけであることを話した。


 「見えているからといって、全部はわからないでしょ」


 静かな一言だった。「でしょ」という確認の語尾。千燈が受け取る余地を残した形だった。


 手帳を手に取った。ページをめくった。今日の記録を確認するつもりだった。


 手が途中で止まった。


 びっしりと記録が続いている。その中の、一枚だけが白紙だった。前後はどちらも文字で埋まっている。その一枚だけが空白のまま。いつからそうなのか、もう分からない。


 白紙のページを見た瞬間、言葉が口をついて出た。


 「あの時みたいにしたくない」


 口に出すつもりがなかった。


 かをりさんは何も言わなかった。湯のみを置くだけだった。


 かをりさんの言葉を、手帳が証明していた。「全部記録している」千燈に、記録できない一枚がある。


 千燈は手帳を閉じた。


 かをりさんは湯のみを持ち上げて、窓の外を見ていた。


 中庭の噴水が、暗い中で鳴り続けていた。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


第一話は千燈視点。現場のデータを正しく揃えて、正しく報告して、それでも「経過観察」で返ってくる日々の、やりきれなさを書きたかった話です。白紙のページが何なのかは、まだ教えられません。


次話は視点が変わります。見えている側から、見えていない側へ。どうぞお付き合いください。

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