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第0話「日本列島の下に、傷がある」

日本列島の下に、傷がある。


古事記はその傷を「黄泉平坂(よもつひらさか)」と呼んだ。書物の中で神々が言い争い、岩を転がし、誓いを立てた場所。けれど実際のところ、そこで起きたことは、もっとずっと静かで、救いようのないことだった。


この話には語り手がいない。最初だけ、高いところから見てください。

 傷から、漏れている。


 何が漏れているかを言葉にするのは難しい。温度がない。重さがない。でも確かに何かが、日本列島の地下深くから、じわじわと滲み出している。


 古い時代にその傷は穿たれた。


 神が黄泉(よみ)の国から逃げ帰り、大岩で坂を塞いで、もう二度と戻らないと誓った。それがどれほど強い誓いだったとしても、傷は傷のまま残る。塞いだだけで、消えたわけではないのだから。


 岩の向こうから何かが滲んでくる。


 停滞。腐敗。あるいは、終わりへの引力。


 人はそれを死と呼ぶ。黄泉と呼ぶ。呪いと呼ぶ。呼び方はどうでもよかった。本当のことを言えば、それは名前をつけて遠ざけられるようなものではなかった。


 毎日、誰かが死んでいる。毎日、誰かの念が残されている。供養されないまま澱んだ念は、傷から漏れてくる負のエネルギーを吸って、形を持ち始める。それが穢れ(けがれ)というものだ。


 時代は変わった。


 馬が走る道が、舗装された道路になった。文を運ぶ飛脚が、電波に変わった。光のない夜が、街灯に変わった。それでも傷は変わらない。黄泉平坂(よもつひらさか)の亀裂は今も日本列島の地下に在り続け、止まることなく滲み続けている。


 人の悪意がSNSを流れ、ビルの谷間に溜まり、誰にも届かない部屋で静かに積み重なる。(よど)の発生源は、古代より遥かに増えた。


 ある夜のことを、誰も知らない。


 都市の外れにあるアパートの一室で、一人の老人が死んだ。


 家族はいなかった。友人も、もうほとんどいなかった。仕事を辞めてから何年も経っていた。隣の部屋に誰かが住んでいることは分かっていたが、名前を聞いたことはなかった。老人も、聞かれたことはなかった。


 死んだのは真夜中だった。布団の中で、静かに、誰にも気づかれないまま。


 苦しくはなかった、と思う。ただ何かがすうっと抜けていくような感覚があって、それからは何もなかった。


 問題は、その後だった。


 念というものは、残る。供養されれば浄化されて地脈へ還る。けれどこの老人の念を、誰も供養しなかった。遺体が発見されたのは三日後だった。通報したのは郵便局員で、郵便物が溜まっているのを不審に思ったからだった。葬儀は区が手配した。参列者は担当者一人だった。


 念はそのまま残った。


 行き場のない念は部屋に澱んだ。壁に染みた。廊下に滲んだ。階段を伝って外へ出た。外には似たような念がすでにいくつも漂っていて、老人の念はその中に溶け込んだ。そして傷から漏れてくる負のエネルギーを吸って、少しずつ、形を持ち始めた。


 老人の名前は、もう誰も覚えていない。


 深夜、都市の路地に澱が溜まることがある。


 形はない。光を吸う。近づくと体温が下がる。息が白くなる。通りかかった人間はただ「嫌な場所だ」と感じて足を早める。そのまま何事もなければ、それで終わる。でも澱が重なり、念が積み重なり、誰も供養しないまま時間が経つと、形を持ち始める。輪郭のない黒い影。顔はない。でも動く。


 それが近づいてきた夜のことを、ある女性はずっと覚えている。


 帰り道だった。終電を逃して、いつもとは違う路地を歩いていた。街灯が一本だけ切れていた。その暗がりの中に、人の形をした何かが立っていた。人ではないと分かった。どうして分かったのかは説明できない。ただ、見た瞬間に全身が凍った。声が出なかった。足が動かなかった。それが近づいてくる間、彼女にできたのは、ただ立ち尽くすことだけだった。


 翌朝、彼女は路地に倒れているところを発見された。体に傷はなかった。


 発見した男性は、後になってぼんやりと思い出す。倒れていた女性のそばに、白い羽が一枚落ちていた気がする、と。鳥の羽にしては大きかった。でもそれ以上は思い出せなかった。その時にはもう、羽は風に飛ばされて消えていた。


 ただ、一週間経っても夢の中でそれが来る。半年経っても、暗い路地を歩けない。一年経っても、あの夜の体温の感覚だけが消えない。


 事件として処理されることはなかった。


 原因不明。異常なし。そういうことになった。


 穢れに目的はない。ただ動く。ただ喰らおうとする。名前のなかった誰かの怒りが、名前のなかった誰かの恐怖が、夜の街を彷徨う。衝動だけがある。形が生まれ、密度が上がり、より大きな力を持った者に引き寄せられていく。


 だからこそ、誰かが守らなければならない。


 日本列島の上には見えない網がある。全国の神社の鳥居が、注連縄(しめなわ)が、磐座(いわくら)が、巨大な(あみ)の目を編んでいる。神代の時代に刻み込まれた呪術の痕跡が、現代においても生きている。地脈は今も流れている。清浄な生命力が列島の下を巡り、魂の大河として、ここに生まれ死んでいく無数の命を乗せている。


 誰にもその網は見えない。


 ただ、守っている者たちがいる。


 彼女たちは何度も死んで、何度も生まれ直している。過去生(かこせい)の記憶を魂の奥底に積み重ねながら、気づかないまま大人になって、ある日突然、翼が開く。白い羽が背中から現れる瞬間に、彼女たちはようやく思い出す。ああ、またここに生まれてきたのか、と。


 それが幸福なことかどうかは、分からない。


 ただ、今日も誰かが翼を広げている。


 今夜も誰かが街を歩いている。依代(よりしろ)を手に、式紙(しきし)を折りながら、報告書の言葉を選びながら。穢れが澱んだ路地を抜けて、鳥居の前で一瞬立ち止まって、また歩き出す。誰にも見えない戦いが、今夜もどこかで続いている。


 深夜。都市のビルが連なる場所に、一人の少女が立っている。


 屋上だ。


 風がある。髪が揺れる。でも少女は動かない。ただそこに立って、はるか眼下の光の群れを見下ろしている。街の光が一面に広がっている。コンビニの白い光、信号の赤と青、マンションの窓から漏れる橙色。その光のひとつひとつの下に人がいて、それぞれの命が今夜も続いている。


 少女の背中に、翼がある。


 一枚だけ。


 右の翼は白く広がっている。羽が風にゆっくりと揺れている。左側には何もない。翼の付け根があるべき肩甲骨のあたりに、何か在りかけて止まったような痕だけがある。折れたのではない。引きちぎられたのでもない。そこだけが、最初から空白のままだ。ただ、その空白のすぐ傍らで、白い羽根が一枚だけ宙に浮いていた。落ちていくわけでもなく、風に流されるわけでもない。ただそこに、最初からそうであったように留まっている。


 少女は振り返らない。


 街を見ている。


 守っている者たちが今夜もどこかで戦っているのを、ここから感じている。式紙(しきし)が飛び交い、依代(よりしろ)が光り、誰かの翼が夜の路地を白く照らしている。少女にはそれが見える。全部見える。でも少女はどこにも行けない。


 声がした。


 少女の声だった。街の騒音にもみ消されるような、小さな声。でもその声は確かに響いた。


「まだ、繋がっている」


 それだけだった。

 少女の姿が、夜の輪郭に溶けて消えた。


 残るのは風だけだ。屋上のフェンスが軋む音。遠くで救急車のサイレンが鳴っている。東京の夜はどこも明るく、誰かが今も眠れずにいて、誰かがまた生まれかけていて、どこかの路地では今夜も何かが澱んでいる。


 傷から、漏れている。


 今夜も。


 明日も。


 これが続く限り、誰かが守り続けなければならない。そしてその誰かは、何度生まれ直しても、また守ろうとするのだ。それが使命だからではなく、それ以外の生き方を、彼女たちは知らないから。


 日本列島の下に、傷がある。


 その傷の上に、今夜も光の網が張られている。

最初なので、世界全体を少し高いところから見てもらいました。


次の第1話から、地上に降ります。ごく普通の女学院に、ちょっと変わった教官がいます。彼女の手帳には今日も「要観察」の名前が増えています。


お読みいただきありがとうございました。

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