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第18話 「沈静化。ただし、問いは残る」

全員、生きている。

でも報告書の一行目が、書けなかった。


榊千燈(さかきちとも)視点。Xデーの沈静化から、夜明け前の司令室まで。


問いが残ったまま、手帳を開いた夜の話です。

西の細い流れを、感じた。


 千燈は奥の小さな部屋を出て、武蔵国府の司令室に戻っていた。司令室の蛍光灯は二日間つけっぱなしで、天井の隅で薄く震えている。窓の外はまだ暗い。十月二十一日の夜明け前で、空気が一段冷えていた。窓ガラスに霜の気配が滲んでいた。換気扇の振動だけが、変わらず続いている。


 千燈は椅子に座り直した。お団子から流れた後れ毛が、こめかみにかかったままだった。直す余裕は、まだなかった。


 位置は武蔵の南西。地脈の主流路から外れた細い分流。千燈の奇魂が感知する地脈の形状は普段から把握している。かをりさんが示した「西の細い流れ」は、確かにある。今まで引き出した場所ではなかった。


 千燈は静かに息を吐いた。白い息が、机の上の式紙の束の前で薄く広がった。


 地脈に触れる時の作法がある。力で引き出すのではない。流れを感じて、その流れが来やすい方向に、少し道を作る。今夜は主流路ではなく、この細い分流を使う。かをりさんが「今は空いている」と言った。奇魂の感知でもそれは確かだった。今夜だけは余白がある。


 接続した。


 依代である懐中鏡の縁が、少し熱を持った。


 熱という感覚が近いが、正確には違う。体の表面が温まるわけではない。懐中鏡という存在のどこかで、流れが通ったという信号が来る。それが熱に似た感触として届く。過去に体験した地脈接続とは質が違う。細い分流からの供給は、主流路より流量が少ないが、その分流れが滑らかだった。


 「繋がった。干渉の感覚はない」


 内側で確認した。地脈が通っている。かをりさんが「干渉の感覚はない」と先に言った。千燈も体感として、確かにそう感じた。


 供給を始めた。


---


 変化は、最初に式紙の波長に出た。


 燐からの報告が来た。


 波長が違う。昨夜より、三時間前より確かに違う。燐の式紙はいつも少し荒い。情報量より温度が先に届く。それが今夜のXデーを通じて、じわじわと薄まっていた。縁から削れるように、熱が落ちていった。緋色の輪郭の縁が、夕暮れの色のように薄くなっていく感触だった。光の揺れも、波打つように緩く長く伸びていた。


 それが——少し、戻っていた。


 全快ではない。それは分かる。でも「少し、楽になった」という感触が波長に乗っていた。台詞にはならない変化だった。言葉を使うより先に、体が報告してくる波長だった。千燈は式紙を受け取るたびに温度感を確認する。今夜初めて「回復方向」を示した。


 正確に言えば、燐の式紙の波長は「回復している」というより、削れが止まった、という感触に近い。刃の刃こぼれが続く状態と止まった状態では意味が全く違う。これ以上削れなければ、今夜は持ちこたえられる。光の揺れも、緩く長く伸びていたのが、少しだけ短く戻っていた。元のリズムに戻りきってはいない。でも回復方向への一歩を、波長が示していた。千燈はその波長を手帳の端に「熱、少し戻り」と書いた。


 律の六番隊からも式紙が来た。整然のまま、いつもより温度が低い。指先で受け取った時の冷たさが、いつもより明確だった。間隔が縮まっていた。余裕が戻ってきている。


 綾乃からの報告も来た。揺れの幅が、今夜は少し落ち着いていた。「東側、落ち着いてきています。北側もあと少し」という短い式紙。断片だったが確かな情報だった。綾乃が「あと少し」と言う時、その見積もりは外れない。今夜のXデーを通じて確認したことだ。


 千燈は地脈の流れを維持しながら、各隊の式紙の到達時間を手帳の端に記録した。数値化できないものを数値の代わりに記録する方法だ。かをりさんに教わったやり方ではない。千燈が自分でいつの間にかやるようになっていた。


 懐中鏡の熱が少し変化した。


 変化に気づいた時、地脈の流れを確認した。細い分流の通り具合。供給量の安定。変化はなかった。懐中鏡の変化は、地脈側ではなく——千燈の側の変化だった。地脈に接続した状態で長時間持続する時、依代が「慣れていく」感触がある。最初は異物のように感じる流れが、少しずつ馴染んでいく。今夜のこの流れも、少しずつ千燈の中に通り道ができていた。


 それが正しいことなのかは分からない。かをりさんは「使える」と言った。使えるということと、使っていいこととは、同じではないかもしれない。


 ただ——今夜の全員の式紙の波長が、少し回復方向を向いていた。それは事実だった。


 沈静化が、見えてきた。


---


 懐中鏡の熱が一段落ちた瞬間、千燈は地脈が変化したことを感じた。


 西の細い流れが——少し、閉じかけていた。流量の限界ではない。流れそのものの余白が、夜が深まるにつれて減っていく。かをりさんが「今夜だけは使える」と言った意味が、体感として分かった。常に使える流れではない。今夜だけ通れた道だった。


 各隊の状況を確認した。燐の隊が撤退圏内に入っていた。律の六番隊が最後の処理を終えつつあった。綾乃が北側の最終観測を完了した報告を送ってきた。


 間に合った。


 その判断は感覚ではなく、全隊の式紙の到達パターンから出た。全員が「終わりに向かっている」方向の式紙を送ってきている。消耗の累積から後退した時の波長を千燈は知っている。それとは違う。前に向かいながら止まっていく波長だった。


 千燈は一度、手帳を確認した。


 式紙の到達時間の記録が並んでいた。燐の波長が回復に転じた時刻。律の六番隊の式紙間隔が縮まった時刻。綾乃が「落ち着いてきています」と送ってきた時刻。三者の変化が、地脈接続を始めてから約十七分後に集中していた。


 偶然の重なりとも言える。でも、重なりとしては揃いすぎている。


 その問いは、今夜の千燈には答えを出す材料がなかった。だから手帳を閉じた。今は確認することよりも、今夜に必要なことを続ける。


---


 夜明け前に、判断した。


 窓の外の空が、少しだけ色を変え始めていた。武蔵の東の空に、まだ青に届かない、灰色を一段薄めたような色が滲んでいる。十月の夜明け前の空だった。空気の冷たさが、窓ガラス越しに伝わってきた。司令室の蛍光灯の白さと、外の薄明りの色が、まだ混ざりきらずに窓辺で分かれていた。


 窓のすぐ下にある桜の木の枝が、薄明りの中で黒く影になっていた。葉が半分落ちている。今夜の風で、もう少し落ちたかもしれない。学院の桜が落葉を終えるのは、十一月の半ばだった。それまでに、まだ少し時間がある。


 「今夜のXデーは沈静化した。各隊に撤収を通知する」


 式紙を送った。全隊に同時に。送ってから、懐中鏡の熱が少し引いていくのを感じた。供給を止めた。地脈が戻っていく。細い流れが閉じる感触があった。


 千燈は二日間ほとんど座ったままだった。立ち上がろうとして、ふくらはぎに鈍い反応があった。普段の自分ではない。眠れていない。食事は半分しか入れていない。それでも判断は澱まずに来た。来たから、ここまでやれた。


 机の上の冷めたお茶を、少しだけ口に含んだ。冷たかった。でも飲めた。飲めるということは、まだ体が機能しているということだった。


 手帳を開いた。


 今日の日付の下に、全員の名前を書いた。燐。律。綾乃。澪。澄。それから、今夜動いた全員の隊員の名前を、一人ずつ書いた。順番に書く間、それぞれの式紙の波長が指先に残っていた。全員、生きている。それを確認するための作業だった。眠ることでも食事でもなく、千燈がXデー後に必ず最初にする作業だった。


 名前を書きながら、それぞれの隊員の今夜の動きを思い出した。燐がXデー初日の朝に最初に異常型を確認した時の波長。律が「人工穢れと確信した」と送ってきた時の整然とした文字。綾乃が「武蔵だけじゃないかもしれません」と送ってきた時の、いつもより少しだけ前に出た揺れ。澪が筑前から運んできた断片。澄の鈴が一度乱れた音。それぞれが、全員生きているという事実の中に含まれていた。


 全員の名前を書き終えた時、式部から式紙が届いた。


 「状況報告書を提出せよ」


 書式通りの文面だった。送信者の波長に温度はなかった。ただの通知だった。


 千燈は手帳を開いたまま、報告書の紙を取り出した。ペンを持った。


---


 一行目で止まった。


 「今回の地脈操作の根拠をどう書くか」という問いが先に来た。


 「元老院の観測補助のもと」という書き方はできる。それは事実だ。でも——もしXデー当日に【地】が地脈の手動制御に全力を注いでいたとしたら。もし千燈が引き出した西の細い流れが、その制御域に隣接していたとしたら。


 「干渉はなかったか」


 内側で言った。


 「分からない」


 かをりさんが「干渉の感覚はない」と観測した。千燈も体感としてそう感じた。でも感じなかったことと、なかったこととは、違う場合がある。


 報告書の一行目が書けなかった。


 手帳を見た。全員の名前が並んでいた。全員、生きている。それは事実だ。でも「どうやって生きたか」の記録が、一行目から止まっている。


 もし手動制御が行われていたとしたら、千燈は知らなかったことになる。知らないまま動いた。その判断が正しかったかどうかは——今夜の千燈には答えが出ない。


 「元老院の観測補助のもと、地脈の細分流を一時的に引き出した」


 そう書けば事実だ。嘘ではない。でも書けなかった。書けなかった理由は、この一文が正確かどうか分からないからではない。この一文が、問いを隠す形になってしまうからだ。「干渉の感覚はなかった」は千燈の観測結果として書ける。でも「干渉がなかった」は書けない。千燈には証明できない。


 今夜の千燈には、この問いを開いたまま閉じる方法が見つからなかった。


 手帳を閉じなかった。


 全員の名前が書かれたページを開いたまま、千燈は夜明けを待った。この問いへの答えは、自分の外から来るかもしれない。来ないかもしれない。でも今夜は、ここまでだ。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


榊千燈視点です。沈静化できた。全員、生きている。でも報告書の一行目が書けなかった。「干渉はなかったか、分からない」という問いを千燈が初めて持った夜でした。この問いへの答えは、後で式部から届きます。


幕間インターミッション②へ続きます。どうぞお付き合いください。

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