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第17話 「奥の手を、使う」

手帳の最後のページに、事前に書いておいたことがある。

使うことになる、か。


榊千燈(さかきちとも)視点。Xデー二日目の夜。司令室から奥の院まで。


正規手順が使えない夜に、奥の手を開いた話です。

Xデーから二日が経っていた。


 武蔵国府の司令室は、深夜になっても明かりが落ちていない。蛍光灯が天井で薄く震えながら、机の上の手帳と式紙の束に光を落としていた。換気扇の音は、二日間ずっと同じ振動で続いている。窓の外は十月二十日の真夜中の空気で、冷えていた。窓ガラスに当たる夜風が時折、低く鳴った。


 千燈は丸眼鏡を指で押し上げて、また式紙を一枚取った。お団子から流れた後れ毛が、こめかみにかかったまま戻していなかった。直す余裕がなかった。


 各隊からの報告が来るたびに手帳に書き入れて、状況を更新し続ける作業が二日間続いていた。式紙の束は積み上がり、その横に空のままの茶碗があった。かをりさんが置いていったお茶だ。冷えていた。手をつけていなかった。眠れていない。眠れないことを問題だとは思っていなかった。今それを考える必要がない。


 手帳を開いた。各隊の波長を確認する。


 燐の式紙は、波長の縁が薄くなっていた。燐の波長は熱が単位だ。今夜の燐は、熱の山がほとんど立っていなかった。緋色の依代が削れている。律の式紙は、整然のまま間隔が短くなっていた。律の波長は密度が単位だ。密度の芯はまだある。でも芯の周りの厚みが落ちていた。綾乃の式紙は、揺れの幅が変わっていた。揺れが鋭くなっている。確信に近い断片を送るようになった綾乃の、新しい揺れ方だった。


 全員、消耗している。


 でも全員、まだ動いている。


 問題は別のところにある。


 地脈だ。


---


 Xデーが始まってから、武蔵全域の穢れ密度が上がり続けている。各隊が処理しても追いつかない。追いつかない理由は処理能力の問題ではなく、投下量の問題だ。つまり——地脈から供給できる浄化のエネルギーが、現在の消費に追いついていない。


 このままでは沈静化できない。


 千燈は手帳を開いた。今日の日付のページを開いた。数値が並んでいる。律からの報告。燐からの報告。綾乃からの報告。それぞれの式紙の波長が語ることを、書き留めた数値として手帳に並べてきた。


 正規の手順では上層部への申請が必要だ。地脈の増幅出力を要請する。上層部が判断して、承認が下りれば現場に届く。それが手順だ。


 繋がらない。


 四十八時間、繋がらない。


 千燈は手帳を最後のページへめくった。


---


 最後のページには、千燈自身が事前に書いておいた手順があった。


 万年筆の細い字で、五項目に分けて並んでいた。日付は半年前。式部から武蔵国府の教官に着任した直後に、自分のためだけに書いたものだった。


 一、引き出し可能な地脈の候補。


 武蔵北の主流は不可。出力が大きすぎる。地脈の幹そのものに触れることになり、引き出した瞬間に依代が焼き切れる。中央の合流点も不可。複数の流れが重なる場所は、一本だけ抜くことができない。引けるのは細い枝の流れだけだ。西の細い流れ。北東の細い流れ。南の枝分かれ。それぞれに「天候・時刻・季節」によって安定性が変わる条件をメモしてある。今夜の条件で安定して引けるのは、西の細い流れ一本だけだった。


 二、接続時の身体反応。


 依代が熱を持つ。最初は心地よい温度。三十秒で皮膚の表面が熱くなる。一分で内側に熱が回る。二分を超えたら依代が異常反応を起こす可能性がある。撤退の判断は二分を上限とする。


 三、退避ライン。


 依代の温度が「熱い」を超えて「痛い」に変わったら即離脱。引き出した地脈の量に関わらず、痛みが来たら止める。引いている途中で意識が遠のく感覚が来たら、それは依代が限界を超えた合図。立っていられなくなる前に座る位置を確保する。


 四、元老院筆頭への確認事項。


 一人で動かないこと。必ず元老院筆頭の観測補助のもとで行うこと。後ろ盾を取ること。これは私一人の判断で動いたことにしてはならない。後で「教官が独断で地脈に手を出した」という結論にされない構造を作ってから動くこと。


 五、失敗時の処理。


 依代切替の手順は別ページ。後続の判断者は——


 ここで字が止まっていた。


 千燈は半年前、ここで筆を置いた。後続の判断者が誰なのか、決められなかった。決められないまま、白紙のスペースが残っていた。書こうとして書けなかった一行が、今も白紙のまま手帳に残っている。


 もう一つ、書ききれなかった項目があった。


 最後のページの隅、五項目の枠外に、千燈は小さな字で「干渉の有無の確認」とだけ書いて、その先を書かなかった。地脈に手動で干渉している痕跡があった場合の処理を、千燈は半年前、書こうとして書けなかった。元老院筆頭が観測してくれていれば干渉の痕跡は分かる。分かるはずだ。でも、もし——という仮定の先に、千燈は半年前、足を踏み入れなかった。


 もし誰かが地脈に干渉していたら。


 その「もし」は、書かないままで残っている。


 千燈は手帳を閉じなかった。最後のページを開いたまま、椅子から立ち上がった。


---


 「使うことになる、か」


 内側だけで言った。声には出なかった。


---


 かをりさんがいる場所は、この時間なら分かっていた。


 学院の奥にある、人が来ない場所だ。食堂でも職員室でもない。内庭の石畳をさらに奥へ入った先、本来なら管理区画として封じられている通路の突き当たりに、小さな部屋がある。かをりさんはそこに来ることがある。深夜に何かが動いている夜は、特に。


 司令室を出て、廊下を歩いた。スリッパの音が遠かった。学院の廊下はこの時間帯、誰も歩いていない。換気扇の振動だけが、天井からずっと続いていた。寮棟の方へ続く分岐を通り過ぎた。生徒たちは寝ているはずだ。Xデーのことは、生徒には知らせていない。武蔵北の戦闘は街の中で起きていて、観測フィルターで一般人にも生徒にも見えない。届くのは式紙の波長だけで、それを読み取れるのは奇魂の千燈と、ごく一部の上級生だけだった。


 内庭の石畳に出た。十月の夜気が、頬を冷やした。霊桜の枝が、月のない夜に黒く広がっている。葉のほとんどは落ちていた。石造の噴水は止まっていた。冬に向けて水を抜いてある時期だ。乾いた石の縁に、霊桜の枯葉が一枚載っていた。


 石畳をさらに奥へ歩いた。普段は誰も通らない通路。学院の正規の地図には載っていない通路だ。床の石が一段沈んでいる場所がある。そこを過ぎると空気が変わる。人が立ち入らない場所特有の、少し冷たくて少し重い空気だった。


 突き当たりの扉が、少し開いていた。中に明かりがあった。


 かをりさんが中にいた。


 小さな部屋だった。窓はない。天井が低い。棚には古い器や、用途の分からない石が並んでいた。中央の卓に、地脈図が広げてある。武蔵全域の地脈の流れを薄墨で描いた、骨董の巻軸だった。観測室にあるものより古い。江戸期のものより、もう一段古い。


 かをりさんは普段の白い割烹着ではなく、深い藍色の作務衣を着ていた。袖口を肘までまくり上げ、髪は後ろで一つにまとめていた。普段の食堂のかをりさんとは別の、元老院筆頭としてのかをりさんがそこにいた。卓の地脈図の上に手をかざしていた。霊力を読み取っている時の姿勢だ。


 千燈の足音を聞いて顔を上げた。驚かなかった。来ることが分かっていた、という顔をしていた。


 「奥の手を使います、かをりさん」


 千燈が言った。


 かをりさんは地脈図から手を離した。千燈の顔を見た。急かさなかった。


 「正規手順が通じない。上層部との通信が四十八時間、不達です。このままでは地脈の出力が供給限界を超える。沈静化できません」


 「分かっています」


 かをりさんは静かに答えた。「この部屋にいるのも、それが理由です」


---


 「元老院の立場から、地脈を直接観測できますか」


 「できます。今もしています」


 千燈は少し止まった。「今もしている」という言葉の意味を、受け取り直した。かをりさんはこの二日間、ここで地脈を観測し続けていた。千燈が知らない場所で、千燈が動けるための準備をしていた。


 「では」と千燈は続けた。「正規手順を経ずに、地脈の引き出し先を示してもらえますか。私が引き出します」


 かをりさんは少し間を置いた。


 急いではいなかった。検討している様子でもなかった。ただ、言葉を選んでいた。


 「西の細い流れ。今は空いている。そこから引きなさい」


 千燈の手帳に書いてある通りだった。安心したわけではない。半年前の判断が、今夜の状況に合致していたという確認だけだった。


 「干渉の痕跡は」


 千燈は聞いた。声がほんの少しだけ、いつもより固くなった。


 かをりさんは地脈図に視線を戻した。


 「西の流れには、ありません。今夜の時点では」


 「他の流れには」


 「分かりません。私が観測している範囲では、干渉の痕跡は見つかっていません。でも見つかっていないことと、ないことは、別です」


 千燈は手帳の最後のページを思った。書ききれなかった一行。「干渉の有無の確認」。半年前、書こうとして書けなかった。今夜、その答えが返ってきた。「ない」ではなく「見つかっていない」だった。


 その違いを、千燈は受け取った。


 「今夜は西の流れだけを引きます」


 「それでいい」


 「他の流れに何か起きていたら——」


 「今夜は考えなくていい」とかをりさんが遮った。「今夜は西だけ。他は明日以降の問いです」


 千燈はうなずいた。


 「それと」とかをりさんが続けた。「今回の対応については、後で私が書き添えます。あなたが一人で動いたことにはしません」


 千燈は少し止まった。


 「……それは」


 「必要なことです。後のために」


 かをりさんが棚の石に視線を戻した。それ以上は言わなかった。言葉ではなく、この場所にいること自体が、千燈への答えだった。


 千燈は手帳を開いた。今日の日付のページに、一行書いた。「西の細い流れ。かをりさんによる観測。元老院後ろ盾を得て行動」。書き終えて、手帳を閉じた。


 「行きます」


 短く言った。かをりさんは地脈図の方を向いたまま、軽く顎を引いた。


 部屋を出た。廊下が暗かった。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


榊千燈視点です。「手帳の最後のページ」には、千燈が半年前に自分のために書いた手順がありました。書ききれなかった一行と、書こうとして書けなかった「干渉の有無の確認」。その答えが今夜、かをりさんから「ない、ではなく見つかっていない」という形で返ってきました。準備していたのに、来てみると重さは別物でした。「行きます」という一言が、千燈にとっての断定の形です。


次話も千燈視点です。どうぞお付き合いください。

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