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第16話 「これは、意図して作られた」

計算の外に、なりつつある。

それが分かった時、懐中時計を握っていた。


御堂律(みどうりつ)視点。Xデーから二日後。消耗戦の中盤。


「人工穢れ」という確信が固まった夜の話です。

Xデーから四十八時間が経過していた。


 武蔵北の路地は、夜になっても人がいなかった。観測フィルターが働いている。一般人にはこの戦闘が見えていない。それでも、街の空気は変わっていた。コンビニの自動ドアが二日前から閉まっている。商店街のシャッターも下りていた。表向きは「都市ガスの大規模点検」と発表されている。観測フィルターの上に、それらしい説明を被せて街を一時的に空にする。武蔵八番隊の協力を得て、今朝から区画ごとに人を退避させていた。退避させた区画には警察庁の人員が立っていて、形式的な交通規制をかけている。本当の理由を知っている警察官は、ごく一部の協力者だけだった。


 律は北側の路地を歩いていた。


 時刻は二十二時を回っていた。十月二十日の夜気は冷えていて、白い息が出るかどうかの境界線を、今夜は越えていた。律のジャケットは、肘のあたりが擦れて汚れていた。袖口も同じ。指揮刀を翳す動作を二日間続けた結果だった。指先の感覚が少し鈍くなっている。それも数値として把握していた。睡眠時間ゼロ。仮眠は十分が二回。栄養補給は固形食三食、水分は確認済みの量を摂取。体は動く。判断は澱まずに来る。


 ただ、計算は速くなっていた。


 速くなっているということは、回転が上がっているということだ。回転が上がっている時の人間は、消耗を自覚しにくい。律はそれも知っていた。だから定期的に、自分の数値を確認する。今のところ、ぎりぎり計算値の範囲に収まっている。あと十二時間は持つ。十二時間を超えたら、判断の精度が落ちる可能性がある。それまでに沈静化が必要だった。


 律は手帳の数値を見ながら確認した。六番隊の出力が初日比七十から八十パーセント。隊員の消耗の蓄積が計算値の上限に近づいている。これは撤退判断に入る水準だ。戦闘が四十八時間を超えている。これは当初の想定を超えている。


 「東を潰した。次は北」


 式紙を六番隊に送った。移動した。


---


 発生点の規則性は、今も続いていた。


 東。北。中央。南東。北西。順番に跳ねていく。予測通りだ。


 律は手帳に、四十八時間の発生点を時系列に並べた紙を挟んでいた。一日目の朝から始まって、夜、二日目の朝、午後、夕方、そして今。発生時刻と座標と等級と種別。一行ごとに整然と並んでいる。並べてみると、一定のリズムが見える。約一時間半ごとに新しい発生点が現れ、平均三体ずつの穢れが投下される。穢れの種別の割合も、ばらつきがあるように見えて、長期で見ると一定の比率に収束していた。通常型と異常型の比率は、四対一から三対一の範囲に収まっている。乱数では作れない比率だ。


 最初にXデーと判断した時、律は「組織的な投下」という可能性として報告した。「可能性が高い」という形で留めていた。四十八時間のデータが出た今夜は、違う。確信として来た。


 「これは、意図して作られた穢れだ」


 声に出ていた。路地の向こうに他の誰もいなかった。声が落ちた。反響がなかった。でも言葉が来たから出した。可能性ではなく確信として来た。その違いは、数値の量ではなかった。数値の「方向」が一定であり続けた時間の長さが、確信を生んだ。


 天然の穢れは予測できない。でも今夜の発生点は、律の予測と一致し続けた。四十八時間。一度も外れなかった。外れない、ということは——外れないように作られている、ということだ。


 誰が作っているのか、までは分からない。何のために、も分からない。でも「作られている」という事実は、もう確定として手帳に書ける段階に来ていた。


 路地の向こうの空気が、また少し重くなった。


 息を吸うと鼻の奥が反応する。穢れが濃い場所に入る前の、いつもの感触だ。今夜のこの感触は、二日前より明らかに頻度が上がっていた。武蔵北の空気そのものが、穢れを含んだままの状態で滞留している。地脈の浄化が追いついていない証拠だった。


---


 式部への送信を試みた。


 不達。


 再度試みた。


 不達。


 手帳の端に「式部への送信:不達継続。四十八時間超。これは通信障害ではない」と書いた。通信障害は数時間で解決する。四十八時間を超える不達は、別の何かを示している。判断を下せる権限者が、今この瞬間にはいない状態だ。


 千燈教官への式紙は通じる。でも千燈教官も、式部からの応答なしに動いている。全員が現場判断だけで動いている夜が、二日続いた。


 懐中時計をポケットから出した。


 開いた。数字のない文字盤が見えた。十月の夜気の中で、白い文字盤に街の光が薄く映った。秒針だけが動いていた。それが今、いつもより少しゆっくりに見えた。


 閉じた。


 何を確認したかったのかは、整理できなかった。


---


 式紙の波長で、燐の状態を確認した。


 縁が薄い。今朝より薄くなっている。普段の燐の波長は、熱の山が真っ直ぐに立つ。芯のある熱だ。今夜の波長は、熱の縁が削れていた。中心の温度はまだあるが、周囲が冷たくなっていく感触。光の揺れ方も変わっていた。一瞬で切り替わるはずの熱の山が、波打つように緩く、長く揺れている。消耗が依代の輪郭から削っていく時の、典型的な揺れ方だった。


 律はこの揺れ方を、燐の式紙で何度か見たことがあった。任務の終盤、燐が依代の限界に近づいた時の波長の揺れ。普段はそこから一晩眠れば回復する。でも今回は、その揺れが二日続いている。回復の時間が取れていない。揺れが揺れの上に重なっていく。回復しないままの揺れは、輪郭そのものを削っていく。


 五番隊の消耗は計算値の上限に近づいている。中央を維持し続けながら異常型の処理もこなしていた。燐の出力は今朝の式紙の波長から推算すると、初日比の五十から六十パーセントに落ちている。


 これは計算の外になりつつある。


 燐が「問題ない」と言い続けているのは知っている。でも「問題ない」が何を意味しているのかは、経験上分かっている。「次の任務に支障が出るレベルではない」という燐の自己判断だ。その判断基準が、今夜は正確に機能していない可能性がある。


 律は一拍止まった。


 止まった。


 合理的な判断として、燐に撤退ラインを設定すること——それは分かる。では、なぜ「一拍止まった」のか。それが整理できなかった。燐に式紙を書くべきかどうか、迷った。「迷う」という状態が来た。その状態に律は慣れていなかった。


 燐は「問題ない」と言い続けるタイプだ。撤退ラインを律が設定することは、燐の判断に介入することだった。「あなたの自己判断は信頼していない」と伝えることに近い。律と燐の関係性の中で、律が燐の自己判断に介入したことは、今までなかった。今夜、初めて介入することになる。


 迷っている間に、判断が遅れる。判断が遅れれば状況が変わる。


 書いた。


---


 「燐。撤退ラインを設定する。依代の緋色が三割を下回った時点で、支援要請を出すこと。これは命令ではなく確認事項だ」


 送った。


 律は撤退ラインの数値を、自分の手帳の中で再確認した。三割。それが律の計算した「燐の依代がまだ復元可能な最低ライン」だった。二割を切ると依代の修復に時間がかかる。一割は損傷が残る可能性がある。三割は、安全側に振った数字だ。燐の自己判断より一段早く支援を呼ばせるための、安全側の数値設計だった。


 四十秒後、式紙が来た。


 「了解」


 一文字だった。「問題ない」ではなく「了解」だった。波長は普段より熱が薄く、でも芯の部分だけは消えていなかった。それだけで、届いたことが分かった。


 胸の中で、何かが静まった。


 懐中時計を握った。


 また握っていた。なぜ今握ったのかは、整理できなかった。


 「計算の外になりつつある」


 声には出さなかった。頭の中で来た言葉だった。でもその言葉の指すものが、今夜は「戦況の数値」だけではなかった。燐への送信前後の自分の状態が、計算の中に収まらない種類のものだった。


---


 次の発生点の予測を計算し始めた。


 北西だ。先ほどの発生パターンから、次は北西に跳ねる。律はそう計算して、六番隊への式紙を書いた。「北西に移動。次の発生点と予測」。送った。


 千燈教官への式紙も書いた。


 「人工穢れと確信した。天然の発生には存在しない規則性が四十八時間継続している。発生点は予測通りに推移中。燐の出力を要確認。上層部通信は不達継続」


 送った。


 千燈教官から返信が来た。「確認した。現場判断を続けなさい。燐の件は把握している」。波長は整然としていた。揺れがなかった。整然のまま、いつもより温度が低かった。指先で受け取った時の冷たさが、いつもより明確だった。千燈教官も、今夜は計算の外にいる。たぶん律と同じ種類の何かを、千燈教官も処理している。


 この状況で揺れないのが千燈教官だ、と律は思った。思った後で、「思った」という行為に気づいた。千燈教官の状態を評価した。「揺れない」という形容詞を使った。それは感情に近い観察だった。


 懐中時計に手が触れた。


 握らなかった。触れただけで、ポケットに戻した。


 北西から、気配が来た。予測通りだった。動き始めた。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


御堂律視点です。「計算の外になりつつある」という認識が、律にとって感情の萌芽が出てくる瞬間です。燐に撤退ラインを送ったのは合理的な判断ですが、その一拍前の「迷い」がある。「了解」が返ってきた時に何かが静まった。懐中時計を三回握った理由が分からない。数値として整理できないものが、この夜は増え続けていました。


次話は榊千燈視点に変わります。どうぞお付き合いください。

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