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第15話 「消耗戦」

見えていた。全部、見えていた。

でも全部見えるから、出せなかった。


朔間綾乃(さくまあやの)視点。Xデーの消耗戦の中、後方観測ポジションから。


初めて、確認前に式紙を飛ばした話です。

武蔵国府の一階・観測室は、ふだんは静かな部屋だった。


 今朝はそうではなかった。


 南壁にずらりと並ぶ結界護術(けっかいごじゅつ)スクリーンが、武蔵北区画の地図を四面同時に映し出している。穢れの発生点を示す赤い光が、地図上で点滅しながら数を増やしていた。点滅の間隔が短くなるたびに、部屋全体の空気が一段ずつ重くなる気がした。スクリーンは古い和紙に呪句を縫い込んだもので、霊力の流れを光として可視化する。電気仕掛けではない。穢れが濃くなると紙の縁が薄く焦げる匂いを出す。それが朝から、絶えず漂っていた。


 長机の中央に、骨董製の観測巻軸(かんそくまきじく)が広げてあった。江戸期から伝わる地脈図で、薄墨で武蔵全域の地脈の流れが描かれている。霊力に反応して所々が明るくなったり暗くなったりする。今朝は地脈図の北側が、昨日より明らかに濃く光っていた。地脈に何かが流れている。穢れが運ばれている。それが目で見える形で、巻軸の上に出ていた。スクリーンと巻軸を交互に見比べるのが、後方観測の基本動作だった。


 十月の朝は冷えていた。観測室の高窓から斜めに入る朝陽が、長机の端を白く切り取っていた。窓の外にある銀杏の木が、半分ほど黄色く染まっていた。朝陽の角度がまだ低いのは、まだ午前八時を過ぎたばかりだからだ。換気扇の低い振動が、天井の隅でずっと続いている。墨と紙の匂いに、霊力で熱を帯びたスクリーンの薄い焦げのような匂いが混じっていた。


 部屋の隅にある火鉢には炭がまだ熾きていた。寒い朝のために烏丸(からすま)かをりさんが用意してくれたものだった。でも誰も近づいていない。スクリーンの前に張り付いていると、その火鉢の暖かさを思い出す余裕がなかった。


 綾乃は長机の自分の位置から、四面のスクリーンを順に見回した。


 見えていた。


 全部、見えていた。


 東側の路地に穢れが三体。中央の交差点に五体。北側の倉庫街に少なくとも八体、密集している。燐の五番隊が中央に張り付いていた。律の六番隊が東と北を行き来している。消耗している。分かる。式紙の波長が届く前に、気配で分かる。


 後方観測ポジションの綾乃には、全部が見えていた。


 だから出せなかった。


 全部が見えすぎると、どの情報を先に出すべきかが決まらない。東か。北か。中央か。燐さんに送るべきか、律さんに送るべきか、千燈先生に送るべきか。考えている間に状況が変わる。変わった状況でまた考え始める。


 綾乃の頭の中で、シミュレーションが止まらない。地図上の赤い点が動くたびに、数十通りの未来が瞬時に枝分かれする。「東に三体が動いた場合、律の六番隊は十二分で対応できる。ただし中央への支援が三分遅れる。中央が三分遅れた場合、燐の依代消耗が一・四倍に上がる」——その全パターンが頭の中で同時に走る。一つひとつは確認できるのに、どれを「今」出すかが決まらない。


 手帳の白紙のページに指を置いた。手が止まる。


---


 澪が隣にいた。


 筑前からこの二日前に来た。千燈先生が「宗形澪。筑前から来てもらった」と紹介した。澪は「あ、分かった。よろしくです」と言って、すぐ手帳に何かを書き始めた。少し目が遠かった。綾乃はその時すぐに分かった。——この人も、見えすぎている。でも見え方が少し違う。


 澪は「多すぎて整理が追いつかない」。


 綾乃は「見えているが動けない」。


 今日の消耗戦を隣で見ていて、その違いが体感として届いた。


 澪はずっと書いていた。手帳のページを次々めくっていく。書いては消し、消しては書く。ペンの動きが速すぎて、字の半分は読めなかった。それでも書く手が止まらない。書きながら、ときどき「あ」と小さく声を出した。何かが繋がった瞬間の声に聞こえた。でもすぐにまた次のページに移って、書いているうちに何が繋がったか自分でも忘れてしまう、という感じだった。


 澪の右手が震えていた。寒さではない。書きすぎだ。指先の感覚が遅れて届いている。でも本人は気づいていないようだった。書く手が止まらない以上、止まるという選択肢が頭に来ない。


 綾乃は逆だった。


 手は動かない。頭だけが回り続けている。シミュレーションが走り続けるたびに、肩のあたりが固くなっていくのが分かった。固くなるのに気づいても、緩める方法が分からなかった。


 二人とも、見えすぎていた。


 でも見え方の処理の仕方が、根本から違っていた。


---


 「東側、今すぐ動かせますか」


 澪が言った。


 式紙を書こうとする手を止めて、綾乃は澪を見た。澪はメモ帳を持ちながら東側のスクリーンを見ていた。目が少し揺れていた。整理できていない時の目だ。


 「見えているんですが、整理できていなくて。でも東側、今すぐが大事な気がして」


 「どんな状況で」


 「穢れが三体。でも移動方向が……ちょっと待って、ここに来てる気がする。今書く」


 澪がメモ帳に何かを走り書きして、綾乃に見せた。簡単な配置図だった。穢れ三体の位置と、それが移動してきた場合の律の六番隊との交差点が書いてあった。


 綾乃は受け取った。


 シミュレーションが始まった。この情報が正確なら、律の六番隊の東ルートと衝突する可能性がある。衝突した場合の消耗量の増加。それが中央の燐に影響するまでの時間。北側の密集地帯との連動があった場合の最悪ケース。一通り、三回で計算できた。


 でも三回回す前に、澪の言った「今すぐ」という言葉がある。


 「今この断片だけ」


 声が出ていた。


 「今この断片だけ。確認する前に、送ります」


 式紙に書いた。「東側・今すぐ。穢れ三体、南に移動中。律さんの東ルートと交差の可能性」。整理できていない。確認が終わっていない。でも書いて、送った。


 今この断片だけを出す、と決めた。それだけだった。


---


 律から返信が来たのは、四十秒後だった。


 「確認した。東ルート変更する。五番隊との連携で東を押さえる」


 それだけだった。


 少しして、東側の気配が動いた。律の六番隊が東を押さえた。穢れが散らされた。スクリーンの赤い点が、東側だけ三つ消えた。燐の五番隊が中央から東に圧力をかけた。中央が少し楽になった。


 使われた。


 整理できていない断片が、使われた。


 「送った方がよかったんですね」と澪が言った。言いながら手帳に何かを書いていた。「私のが合ってたんですね」と続けた。どちらも疑問文のトーンではなかった。ただ確認している声だった。


 「……私も、確認前に送ったのは初めてでした」


 綾乃が言うと、澪は少し目を細めた。


 「そうなんですね。先輩なのに」


 「先輩でも、苦手なことはあります」


 澪は「あ、そっか」と言って、また手帳に書き始めた。話が続く感じではなかった。


---


 後方から見ていると、前線の消耗が分かりすぎた。


 燐さんは中央を押さえ続けている。式紙の波長で、依代の状態が伝わってくる。緋色の輪郭が滲んでいた。いつもより温度が低い。普段の燐の波長は、熱が真っ直ぐに届く。芯のある熱だ。今日は、その熱の縁が薄くなっていた。光の揺れも長くなっていた。一瞬で切り替わるはずの熱の山が、波打つように緩く揺れている。


 地図上の中央の交差点では、赤い点が消えては新しく現れる。燐の指揮刀が一体を倒すたびに、二体目が出てくる。それを倒すと、また三体目。燐の依代が削れていく速度は、点の消える速度より明らかに速かった。それでも動きは止まらない。


 燐の式紙が一通届いた。「中央、まだ持つ」。たった四文字だった。普段の燐の式紙はもう少し言葉が乗っている。今朝の四文字は、その短さ自体が消耗の証拠だった。「持つ」と書けたのは、まだ持っているからだ。「持たない」と書く時は、もう持っていない時だ。燐はそういう書き方をする人だった。


 律の六番隊は東と北を行き来しながら、配置を整え続けていた。律の式紙の波長は、整然のままだった。整然のまま、間隔が縮まっていた。律の式紙の到達間隔が短くなる時は、現場の処理速度が上がっている時だ。律は計算で動いているはずなのに、その計算の速度自体が速くなっている。それは消耗が速いということでもあった。


 地図の東側で、律の指揮刀の軌跡を表す細い銀色の線が走った。スクリーンに表示される線は、指揮刀の振り抜きを残光として捉えたものだ。律の線は、いつもなら真っ直ぐに引かれる。今朝の線は、わずかに揺れていた。律本人は気づいていないだろう。でも観測室から見ていると、その揺れが消耗の蓄積として読めた。


 七番隊の後方で、鈴の音が一度だけ乱れた。


 ほんの一瞬だった。遠かった。でも綾乃には届いた。澄さんだ、と思った。鈴の音が乱れる時は、幸魂に何かが流れ込んでいる時だ。誰かの依代の消耗を、澄が引き受けた音だった。澄の鈴は、普段はやわらかく一定のリズムで響く。今聞こえた音は、リズムが半拍ずれて、最後に一音だけ高く跳ねた。誰かを助けた直後の鈴の音だ。引き受ける側の依代に負担が乗った瞬間、鈴は普段とは違う響き方をする。澄は今朝、もう何度かそれをやっているのかもしれない。一度だけ乱れた、と聞こえたのは、たまたま綾乃の耳に届いたのが一度だっただけかもしれない。


 これも式紙に書いた方がいいのか、と考えた。


 でも今は書かなかった。「鈴の音が一度乱れた」という断片は、今すぐ動ける情報ではない。千燈先生は知っているかもしれない。知らなくても、今すぐ対応できる人員がいない。保留した。これは保留が正しい、と判断した。


 綾乃はまた式紙に手を置いた。北側のスクリーンで、赤い点が二つ動いていた。シミュレーションが始まった。今度は三回を待たずに、二回目の終わりで止めた。


 「北側、密集地帯から二体が西に分岐」


 書いて、送った。


 澪が隣でメモ帳を閉じた。閉じてから、また開いた。「あ、合ってる」と小さく声を出した。澪のメモ帳にも、同じ動きが書いてあったのかもしれない。


 観測室の窓の外で、十月の朝陽が少しだけ高くなっていた。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


朔間綾乃視点です。「全部見えているから出せない」という欠落が、「今この断片だけ」という一歩を踏み出した話でした。澪との並走が、綾乃にとって「先輩でも苦手なことはある」という言葉を引き出した。小さな変化が積み重なっていく消耗戦の日でした。


次話は御堂律視点に戻ります。どうぞお付き合いください。

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