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第14話 「投下」

計算は、していた。

でも来た重さは、計算とは別物だった。


御堂律(みどうりつ)視点。

数値が「指数」として跳ねた夜の話です。

 夜明け前の武蔵北部は静かだった。


 五時十五分。街灯がまだ白い光を落としている時間帯、律は担当区画の南端に立った。気温は一桁前半。呼気が白くなる境界線より少し手前だ。先週より三度低い。体感ではなく、巡回前に確認した気象データとの一致として記録した。


 低温下では穢れの拡散速度が上がる。理由は解明されていない。ただ、過去七年の巡回記録が一定の相関を示している。相関係数は〇・七一。因果ではなく、統計的な関係として扱っている。


 巡回を開始した。


 路地は細い。昨夜の雨の跡が石畳の継ぎ目に残っている。足音が少し変わる。把握した。靴底の感触と音で路面状態を読むのは習慣に近い。習慣というより、巡回精度を保つための入力だ。


 この時間帯の武蔵北部を歩く人間はほとんどいない。いたとしても、観測フィルターが働いている。律が路地を読んでも、指揮刀を手の内で握り直しても、通行人には見えていない。見えていないのではなく、「それとして認識されない」。正確にはそちらだ。


 記録用の手帳を開いた。各地点の穢れ密度を書き入れながら進む。ペンの重さ、紙の抵抗、数値の並び方。これも入力の一部だった。五時十五分時点の数値は、基準値の〇・八倍。低温補正込みで許容範囲に収まっている。問題ない。


 六時十七分。最初の変化があった。


 記録用の手帳を見返した。先週の同じ時間帯の数値と比較した。先週より一・三倍。ただし低温補正を加えると、純粋な増加量はその半分以下になる。許容範囲だ。続行した。


 六時四十一分。


 また数値が上がった。低温補正を入れても、先週比一・七倍になっていた。


 律は立ち止まった。


 懐中時計を取り出した。文字盤を開いた。六時四十一分。時間を確認したわけではない。確認する必要のない時間に、確認する必要のない動作をした。それが何を意味しているのかは、分からなかった。


 次の路地へ向かいながら、頭の中で数列を並べた。先週が一、先々週の同時間が〇・九。その前が〇・七五。さらに前が〇・六二。等差数列に近い。天然の穢れは乱数になるはずだ。密度が上がることもあれば下がることもある。複数の地点でこれほど整然と増え続ける理由が、天然の穢れには存在しない。


 「天然ではない可能性がある」という判断を、頭の中に置いた。断定ではない。データが少ない。可能性として保留した。


---


 七時二十二分。


 路地の奥で気配が跳ねた。


 通常型が三体。それと——輪郭が明滅する、あの質のものが一体。異常型だ。先月から発生頻度が上がっている。感情成分がない。近づいても何も来ない。浄化した時の手応えが通常型と違う。消耗量だけが増える。


 指揮刀を顕現させた。翼が開いた。


 刀身の感触はいつもと同じだ。握る位置、重心の位置、翼の開き方。全て計算値の通り。律は三体の通常型との距離を四メートルに保ちながら、最初の一手を決めた。連続で処理する。消耗を最小化するために、動線を一筆書きで設計した。


 動いた。


 通常型三体は、計画値通りの時間で終わった。体の動き方、刀を振る角度、踏み込みのタイミング。全てが事前の計算と一致した。異常型だけが残った。


 近づいた。


 手応えが違う。それが最初の認識だった。同じ等級のはずだ。先月の異常型と比較しても、見た目の規模に差はない。だが刀が接触した瞬間、消耗の引き込まれ方が先月の一・四倍になった。数値として把握したわけではない。「多い」という感触が先に来て、後から換算した。


 処理した。


 懐中時計を一度だけ握った。


 同じ等級のはずだ。なぜ削れ方が違う。異常型の処理後に依代の消耗量を確認した。先月の同等級の処理後より確実に増えている。単純な等級の差ではない。何かが変わっている。


 千燈への式紙(しきし)を書いた。


 「穢れの発生パターンに規則性あり。発生密度は先週比等差増加が継続。本日の変化について精査中。続報を」


 送った。しばらくして返信が来た。波長は整然としていた。整然の奥に、いつもより温度が低い芯があった。


 「確認した。他の班から同様の報告が複数来ている。続報を待つ」


 他の班も、か。


 律は懐中時計を再び握った。自分の観測ミスではない。そこだけは確認できた。複数の観測者が同じ変化を報告している。つまりこれは現場の問題ではなく、穢れそのものの問題だ。


---


 八時五十分。


 数値が跳ねた。


 「跳ねた」という言葉が浮かんだのは、後から振り返ればそういう言葉が正確だったからだ。等差数列の延長では説明がつかない数値になった。先週比の三倍を超えた。三倍は想定内に入れていた。五倍は入れていなかった。


 発生点が、複数だった。


 同時だった。


 等間隔だった。


 律は手帳に素早く数値を書き入れながら、頭の中で計算した。発生点の間隔。発生のタイミング。穢れの種別と規模。どれも、偶然が積み重なる確率では説明できない値だった。


 街の空気が変わった。


 変わった、という認識は後からついてきた。先に来たのは鼻の奥の変化だった。穢れが濃い場所は空気が少し重くなる。湿度の変化と似ているが、湿度ではない。乾燥しているのに重い。先週の同じ場所でこの質はなかった。記録と照合して確認した。


 路地の奥の空気が、三箇所同時に変質した。


 距離は約百メートル間隔。東西に等間隔に並んでいる。偶然にはなれない配置だった。律は三点を結ぶ直線を頭の中に引いた。延長線上に次の発生点があるとすれば、どこになるか。計算した。武蔵北区画の重心に近い位置が出た。


 手帳を閉じた。


 「計算はしていた。少し重いな」


 声に出ていた。声に出すつもりではなかった。でも出た言葉がそれだった。シミュレーション済みの事態だった。Xデーの規模として想定していた数値に、ほぼ合致している。「少し重い」のは数値ではなく、現実として来た感触だ。


 もう迷わなかった。指揮刀が顕現していた。周囲の気配を確認した。


 六番隊への配置指示を式紙で送った。東側を優先する。中央を押さえる。北側は次の判断を待て。三点セットで同時に送った。返信を待たない。現場判断の速度で動ける隊長を選んで送信先にしている。そういう設計にしてある。


 同時に、千燈への式紙を書いた。


 「武蔵北区画。Xデーと判断。穢れの一斉投下を確認。発生点が複数・同時・等間隔。人為的な意図の可能性が高い。上層部への通信を要請する」


 送った。


 返信が来るまでの間に、二体を処理した。異常型が一体混じっていた。消耗が速い。計算値を超えている。懐中時計を握る余裕すらなかった。


 千燈から返信が来た。


 「確認した。上層部への通信、現在不達。各隊は現場判断で対応。持ちこたえなさい」


 不達か。


 懐中時計を、一度だけ握った。


 上層部への通信が繋がらない理由は複数考えられる。通信回路の飽和。意図的な遮断。あるいは——上層部自身が何らかの対応に追われている。どれが正しいかは、今この場では判断できない。


 指揮刀を再び顕現させた。


 翼の展開と同時に、また別の気配が跳ねた。北東、七時の方向。五体。うち異常型が二体の割合だ。先月の比率は二十体に一体だった。それが五体に二体になっている。変化の速度が、想定を超えている。


 律は計算した。六番隊の現在位置と残存体力。自分の消耗量と残余キャパシティ。異常型を処理し続けた場合の消耗累積値と、持続可能な時間の上限。


 六番隊から式紙が来た。「東側、制圧完了。中央に向かいます」。想定より十二分早い。良い。だが消耗量は確認できていない。消耗が速すぎて「完了」を報告できる余裕がない場合、現場は判断を誤る方向に報告を整形することがある。人間は数値より「大丈夫に見える報告」を書きたがる。だからこそ自分が数値で確認する。


 次の式紙を送った。「完了確認。現在の依代消耗量を報告せよ」。返信が来るまでの間に、異常型一体を処理した。消耗引き込みが今日最大値だった。計算値の一・七倍。


 数値は出た。


 出たが、懐中時計に手が伸びた。


 取り出した。文字盤を開いた。八時五十七分。確認する必要のある時間に、確認する必要のない動作をした。七時の方向に動き始めながら、懐中時計を外套の内ポケットへ戻した。戻す動作だけで、何かが少し整った。何が整ったのかは、分からなかった。


 数値は出ているのに、感触として来ているものは数値の中に収まらなかった。異常型の消耗引き込みが予測上限を超えるたびに、計算の外側に何かが積み重なっていく。名前のつけられない何かが。


 それが何かは、分からなかった。分からないまま、動き始めた。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


御堂律視点です。「計算はしていた」という言葉が、律にとって最もフラットな現実の受け取り方です。シミュレーション済みの事態が来た。それでも重さは別物だった。懐中時計を握る回数が増えていく夜の始まりです。


次話は朔間綾乃視点に変わります。どうぞお付き合いください。

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