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第13話 「見えている。でも出せない」

見えている。全部、見えている。

でも全部見えるから、出せない。


朔間綾乃視点。武蔵国府・番所から、受け入れ室まで。


今日だけは、口より先に式紙が動いた。

 番所の自席は、午後になると窓側からの光がまっすぐ入る。十月の薄い陽射しが、デスクに広げた観測記録の余白を白く照らしていた。空調の低い音が、天井の隅でずっと続いている。


 朔間綾乃(さくまあやの)は、先週の記録を地図と並べていた手を止めた。


 穢れの「変質パターン」がいくつか確認されていた。通常の天然穢れとは感触が違う個体が、先月から少しずつ増えている。天然の穢れには感情の熱がある。怒りや悲しみや後悔が、輪郭の揺れ方に滲んでいる。でも最近確認している個体の一部は、その熱が薄い。輪郭が鮮明すぎる。近づいても感情が流れ込んでこない。


 感触として分かる。でも「だから何か」という結論が出ない。


 頭の中で可能性の枝が伸びていく。「感情成分の欠如→人工的な関与の可能性」「発生位置の規則性→地脈への意図的な干渉」。確認すべきことが増えていく。全部確認してから言葉にしようとすると、本数が追いつかない速さで広がっていった。


 手帳の白紙のページを開いた。何か書こうとした。手が止まった。


 書けるものを書こうとすると、全部「可能性がある」で終わる。


 「整理中です」と千燈教官に送ったのが、今週で三度目になる。


 千燈教官からは「分かった。引き続き」という返信が来た。波長は整然としていた。急かしている感じはない。でも「三度目」という事実だけが、手帳の余白に残っていた。


---


 その日の午後、千燈教官から「受け入れ室に来なさい」という式紙が届いた。


 受け入れ室は、番所の奥にある六畳ほどの部屋だった。パイプ椅子が四脚、折り畳みの長机が一つ。窓が一枚あって、外は曇りだった。廊下を通りながら、綾乃は「誰かが外から来た」という可能性の枝を頭の中で広げ始めた。式部からの使者か、他の国府か——途中で止めた。行けば分かる。


 「筑前から来てもらいました。宗形澪(そがたみお)さんです」


 千燈教官がそう言った。


 部屋の奥の椅子に、深みのある緑色の制服を着た人が座っていた。武蔵のネイビーとは明確に違う、濃い緑に白のラインが入ったセーラー服。紫みがかった黒髪のショートボブが、前髪のあたりで少し乱れていた。机の上にメモ帳が広げてあって、すでに何行か書いてある。


 「あ、分かった。よろしくです」


 宗形澪が言った。顔を上げた。深い紫色の目が綾乃を見た——というより、綾乃の後ろの何かを見ていた。遠い目だった。すぐにまた手元のメモ帳に視線を落として、ペンが動いた。


 その瞬間、綾乃の視界の端で、薄い靄が揺れた。


 気のせいではない。奇魂の感覚として来る、あの薄紫の揺らぎだった。澪のいる空間の端が、わずかに位相がずれていた。知覚の処理がオーバーフローしている奇魂が、周囲の空気をわずかに歪ませる感触——それを綾乃は今まで自分の内側でしか感じたことがなかった。外から来たのは初めてだった。


 同じ波長だ。


 形は違う。綾乃は「全部見えてしまうことへの恐れ」で止まる。澪は「多すぎて整理できない」で流されながら動いている。でも根っこにある揺らぎの質が、同じ奇魂の感触だった。千燈教官が奇魂であることは知っていた。でも千燈教官の波長はずっと安定していて、この揺らぎとは違う。澪の揺らぎは——今の綾乃に似た感触だった。


 近い、と思った。話しやすいかもしれない、とも思った。「同じ場所で止まったことがある人」なのか、「ここから先で動いている人」なのかは、まだ分からなかった。


---


 「筑前でも変化があって。でも整理が……待って、今書く」


 澪がそう言いながら、もうメモ帳にペンを走らせていた。「待って」と言ったのに、口と手が別々に動いていた。


 「霊石の感触が変わってきてる。先月くらいから。温かいはずの石が、少しずつ冷えてる感じ。リズムも乱れてる。そっちも何か変なことありますか?」


 千燈教官が綾乃の方を向いた。


 綾乃は椅子に腰を下ろしたまま、言葉を選んだ。「似たような感じ」が何を指しているのか確認したかった。霊石の感触なのか、穢れの変質パターンなのか。問い返して、確認してから、それから答える。そう思っていたのに、口から出てきたのは「整理中です」ではなかった。


 「……変質パターンは確認しています。霊石は直接ではないですが、感触として何か変わっているとは思っていて」


 「変だって分かってるんだ」


 「……はい、たぶん」


 澪がメモ帳に何かを付け足した。「分かった」と言った。


 また「分かった」だった。でも今度は、綾乃にはその言葉が澪の中に着地するのが分かった。言葉の処理とは別の場所で、澪の奇魂に届いていた。空間の薄い靄が、一瞬だけ静まった。


---


 報告が続いた。澪が話す。千燈教官が確認する。綾乃は聞きながら、自分の観測データと重ねた。


 「筑前だけじゃなくて、近隣からも霊石の接続量が落ちてるって聞いてる。全部が同じ方向に動いてる感じがする。でも全体像は、まだ」


 澪の言葉が途切れた。メモ帳に視線が落ちた。ペンが動いている。


 綾乃の頭の中で、可能性の枝が一斉に伸び始めた。


 霊石の接続量の低下。変質パターンの増加。発生位置の規則性——律から千燈教官への報告の波長に、そういう内容が乗っていたことを綾乃は感じ取っていた。全部が繋がっているとしたら。武蔵だけじゃないとしたら。可能性が靄のように広がって、視界を曇らせる。


 全部確認してから、全部確認してから。


 いつもその言葉で止まる。今日も、また止まりそうだった。澪の「全体像は、まだ」という言葉が頭の中で繰り返された。自分もそれを言おうとしていた。「まだ整理できていません」「全体像は、まだ」。それは本当のことだ。嘘にはならない。


 でも今日の澪の話を聞いてしまった後で、それを言うのは——何かを閉じる言葉になる気がした。今日ここで澪が話してくれたことと、自分が感じていたことが、重なっているかもしれない。その「かもしれない」を持ったまま、「整理中です」と言って部屋を出ていくのは、何かを取り逃がす感覚がした。


 口を開けば何が出るか、分かっていた。「整理中です」だ。


 声に出して断定するのが怖かった。「武蔵だけじゃないかもしれない」と声で言ったら、その言葉の責任を引き受けることになる。間違えていたら——また「見えていたのに間違えた」になる。


 気づいたら、手が式紙を取り出していた。


 「武蔵だけじゃないかもしれません」


 書いた。「たぶん、ですが」と後ろにつけた。千燈教官に向けて送った。


 送った後で、自分が何をしたのか気づいた。


 確認の枝を辿る前に、送ってしまっていた。確信はない。証拠もない。でも手が動いた。


 「たぶん、ですが」


 声に出た。式紙に書いた言葉と同じものが、送ってから口から出た。後から来た言葉だった。式紙はもう届いていた。


---


 千燈教官が式紙を開いた。


 「確認しました」


 それだけ言った。波長の密度が、わずかに高まった。奇魂として感じ取れる範囲で言えば、千燈教官の式紙の波長に、新しい情報が加わった時の微かな変化があった。受け取ったもので、何かが動いた。「整理中です」では動かなかった何かが、今日は動いた。


 澪がメモ帳から顔を上げた。


 「そっちも同じ感触あったんだ」


 「……同じかどうかはまだ分からなくて。ただ、可能性が、今日の話を聞いて、少し大きくなった感じで」


 「うん、そういうことだと思う」


 澪がまたメモ帳に向かった。今度は書く速さが落ちていた。書きながら考えている時の、あの少し遅くなるペンの動き。処理が追いついている時間だと、綾乃には分かった。


 部屋の薄い靄が、少し落ち着いていた。


 使われた、とは少し違う。「断片が、届いた」という感触だった。全部揃えてから渡そうとしていたら、今日はまた何も言えなかった。でも荒い断片のまま渡しても、千燈教官の手に届いた。澪の話と重なった。「武蔵だけじゃないかもしれない」という言葉が、この六畳の部屋の空気の中で少し実体を持った。


 綾乃は自分の手を見た。式紙はもう消えていた。でもさっきここで光っていた、という感触だけが残っていた。


 窓の外で、風が木の葉を揺らした。十月の音だった。雨が来そうな空だった。

ここまで読んでいただきありがとうございます。


朔間綾乃の視点でした。「見えているが動けない」綾乃が、口より先に式紙に手を伸ばした話でした。確信はなかったけれど、今日の澪の話と自分の感触が重なった瞬間、確認の枝を辿る前に手が動いた。


次は第二幕本編へ続きます。どうぞお付き合いください。

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