第8章 編むと願いが叶う毛糸
「編むと願いが叶うという毛糸を、手に入れたい」
依頼人は、爵位を継いだばかりだという若い貴族だった。緊張した面持ちで、まっすぐにこちらを見ている。
「果物を寄越せ」
アズラエルが、空気を読まずにいつもの調子で言った。貴族が戸惑ったようにこちらを見る。
「今日はやめておいて」
「腹が減っては、願いも聞けん」
「あなたが願いを叶える側じゃないでしょう」
「腹が満たされておらぬ我に、まともな判断ができると思うてか」
「毛玉のくせに、判断してる風なだけでしょう」
貴族は困惑した様子だったが、それ以上は気にしないことにしたらしい。背筋を伸ばした姿勢には、まだ板についていない誠実さがあった。
「願いというのは?」
「領地を、もっと豊かにしたいのです。爵位を継いでから日が浅く、至らないところばかりで」
決して欲深い願いには聞こえなかった。むしろ、生真面目すぎるくらいの態度だった。膝の上で、拳が固く握りしめられている。
「毛糸の在り処に、心当たりが?」
「古い言い伝えのある屋敷にあると聞きました。ただ、一年ほど前、噂を聞きつけた冒険者が単身で挑んで、そのまま戻ってこなかったそうです。その後も何人か帰ってこないことが続いてしまい、村の者たちは誰も近づこうとしません。でも、村の者が近づかなくなったところで、噂を聞きつけてやって来る者までいなくなるわけではありません――先日、屋敷の周りで、見知らぬ探索者を見かけたと、使用人から報告がありました。」
一人で挑むには、荷が重すぎる場所らしい。厄介なことに、競合までいるという。
アズラエルは、話を聞きながら、珍しく難しい顔をしていた。
「やめておけ」
「なぜです?」
「願いを叶える力など、ろくなものではない」
貴族は困ったように微笑んだ。
「それでも、試させていただきたいのです。領民のために」
その真剣さに押される形で、私たちは依頼を受けることになった。
◇
屋敷は古く、ほとんど人の出入りがなかったらしい。門をくぐろうとしたところで、先客の気配に気づいた。
「誰かいる」
物陰から、粗末な身なりの男が二人、こちらを窺っていた。
「野盗崩れの、素人探索者ね」
「相手にするな。時間の無駄だ」
私たちが屋敷に踏み込むと、男たちも後を追ってきた。廊下のあちこちに、古い罠の痕跡がある。
床板の継ぎ目に、うっすらと擦れた跡があるのに気づいた。何度も踏み外しかけた誰かの痕跡か、あるいは踏み抜けないよう避けてきた誰かの痕跡か。
「この床、怪しい。継ぎ目のところ、擦れてる」
「……お前も、目が利くようになったな」
アズラエルが意外そうに言った。素直な称賛らしきものが、いつもより少しだけ嬉しかった。
踏み抜けば崩れる床板、糸を引けば落ちてくる天井――二人で見つけたものを、アズラエルの指示で一つずつ避けながら奥へと進む。
「そこの敷石、色が違う。避けろ」
「見分けつかないんだけど」
「見ろとは言っていない。避けろと言っている」
背後で、床の踏み抜きに気づかなかった男たちの片方が、盛大な音を立てて床を踏み抜いた。悲鳴が廊下に響き渡る。
「あんたら、慣れてるな……。なあ、コツを教えてくれても罰は当たらないだろう」
もう一人の男が、床から抜け出そうと足掻きながら、図々しくも交渉を持ちかけてきた。
「教えるわけないでしょう。競合相手なんだから」
「じゃあ、せめてこの足、引っ張り出すの手伝ってくれよ」
「それとこれとは話が別だ」
アズラエルが素っ気なく言い放つと、男は心底情けなさそうな声を上げた。
「鬼だ……毛玉のくせに鬼だ……」
「毛玉で悪いか」
「悪いとは言ってないだろ! 助けてくれって言ってるんだよ!」
床にはまったまま喚く男を尻目に、私たちは先へと進んだ。振り返ると、もう一人がなんとか引っ張り上げようと悪戦苦闘しているのが見えた。
「……ちょっとだけ、気の毒になってきた」
「同情するなら、先に依頼を終わらせろ」
罠を抜けた先には、いくつもの部屋が並ぶ長い廊下が続いていた。どの部屋も似たような造りで、目的の品がどこにあるのか、一目では見当もつかない。
「手当たり次第に見て回るしかなさそうね」
「無駄なことを。この屋敷の主は、大事なものほど、日の当たらない場所に隠す性分だったようだ」
アズラエルは迷いのない足取りで、廊下の一番奥、明かり取りの窓もない小部屋へと向かった。扉には、古い閂がかかっている。力を込めて開けると、蝶番が軋んだ音を立てた。
奥の部屋、埃を被った箱の中に、銀色に光る毛糸が眠っていた。薄闇の中で、それだけがやけに鮮やかに見えた。
◇
貴族はそれを手にした途端、待ちきれない様子で編み始めた。
「領地を、豊かに」
呟くように願いを込めながら、彼は無心に手を動かした。編み針の動きは、最初、ぎこちなくも一途だった。
異変に気づいたのは、しばらくしてからだった。貴族の呟きが、少しずつ変わっていく。
「豊かに……そういえば、今年は隣領より収穫が少なかったな」
「隣領には負けたくない。あそこの領主は、いつも私を見下している」
編み目が進むごとに、貴族は独り言のように、次から次へと理由を見つけていった。まるで、誰かに問い詰められて答えを絞り出すように。部屋の空気が、じわじわと重くなっていくのが分かった。
「そうだ、税収さえ増やせば、王宮でも一目置かれる」
「私を馬鹿にした連中を、見返してやらなければ」
貴族自身の言葉のはずなのに、まるで何かに急かされているようだった。
「誰にも、負けないくらいに」
「誰にも、逆らわせないくらいに」
もはや、最初の願いとはかけ離れていた。私が止めようと近づくと、貴族は毛糸を抱え込むようにして睨みつけてきた。その目には、さっきまでの生真面目さの欠片も残っていなかった。
「もっとよこせ! 私の願いを叶えろ!」
背筋が、ぞっと冷たくなった。
◇
「身の程を知れ」
アズラエルの声が、部屋に響いた。普段の皮肉めいた口調とはまるで違う、静かで重い声だった。
「……アズラエル?」
戸惑う私をよそに、アズラエルは貴族の手にある毛糸に触れた。
編み上がったばかりの布地が、音もなくほどけていく。糸が一目ずつ、時を巻き戻すように解けていく様は、どこか恐ろしいほど美しかった。
その一瞬、ほどけていく毛糸の隙間に、私は何かを見た気がした。私の知っているどんな編み方にも似ていない、奇妙な編み目。けれど、なぜか――編み図の一部だと、直感的に思った。
「……今、何か見えた?」
「何もない」
アズラエルは短くそう言うと、静かに息を吐いた。その横顔は、いつになく強張って見えた。
「……今のは忘れろ」
◇
正気に戻った貴族は、しばらく呆然としたあと、深く頭を下げた。
「……お恥ずかしいところを」
「願いを叶える力なんて、最初から信じないほうがいいですよ」
私が言うと、貴族は力なく笑って頷いた。大きな騒ぎにはならず、その日はそれで幕を引いた。
◇
屋敷を出て、私はアズラエルに尋ねた。夕闇が、屋敷の輪郭をゆっくりと呑み込んでいく。
「さっき、あなたが見せたの……何だったの?」
「知らんと言っただろう」
「今のは忘れろ、とも言ったわね」
「忘れろと言ったら忘れろ」
取り付く島もない返事だった。それでも、いつもの軽口とは違う、どこか張り詰めた声だったのが気にかかった。
「腹が減った」
いつも通りの調子に戻ったアズラエルに、私は小さく息を吐いた。今のは忘れろ、と言われても、そう簡単に忘れられるものではない。それでも、彼がそう言うなら、しばらくは黙って見過ごしておくことにした。




