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第9章 紡ぎ手の遺跡

 その依頼状は、これまでのどれとも違う紙質だった。厚手の上質な紙に、几帳面な文字がびっしりと綴られている。読み進めるうち、私は思わず身を乗り出していた。


「かつて『紡ぎ手』と呼ばれる者たちが暮らしていたという遺跡が見つかりました。調査のお手伝いをお願いできますか」


 依頼人は、旅装の研究者だった。眼鏡の奥の目が、隠しきれない興奮で輝いている。長旅の埃を落とす間も惜しむように、言葉が次々と溢れ出てきた。


「紡ぎ手、ですか」


「古い編み物の技術体系を持っていたとされる、伝説的な一族です。長らく実在を疑われていましたが、ようやく手がかりが」


「実在を疑われていた、というのは?」


「文献にしか残っていなかったんです。まるで、意図的に痕跡を消されたかのように」


 その言葉に、私はなんとなく胸騒ぎを覚えた。


 アズラエルは何も言わなかった。ただ、いつもより口数が少ないことに、私は気づいていた。窓の外を見るでもなく見ている、その横顔が気にかかった。


「行くの?」


「行かないという選択肢があるのか」


 その言い方には、諦めにも似た響きがあった。まるで、避けられない何かに向き合う覚悟を、静かに固めているかのようだった。


 ◇


 遺跡の入り口は、崩れた石段の先、蔦に覆われた石扉だった。表面には、複雑に絡み合う編み目の紋様が彫り込まれている。押しても引いても、扉はびくともしなかった。


「壊れているのでしょうか」


 研究者が困り顔で扉を叩く。私は紋様に指を這わせた。規則正しく見えて、ところどころ意図的に途切れている部分がある――編み物で言えば、目を落として模様を作る技法だ。


「これ、鍵じゃなくて、編み図なんだと思います。この途切れている部分を、順番になぞれば」


 指摘された箇所を、上から下へなぞっていく。三箇所目をなぞったところで、重い音とともに石扉がわずかに沈み込み、そのままゆっくりと横にずれていった。


「……こんな場所でも、編み物の知識が役に立つとはな」


 アズラエルが、意外そうに呟いた。


「馬鹿にしないでよ。伊達に長くやってないんだから」


 遺跡は、地中深くに埋もれた石造りの回廊だった。ランタンの明かりが届く範囲だけが、ぼんやりと闇に浮かんでいる。壁一面に、見たこともない編み目の模様が刻まれていた。指先で触れると、石はひんやりと冷たかった。


 床に積もった埃の乱れ方が、妙に気になった。長年人の出入りがない場所にしては、通路の中央だけ、埃の積もり方が薄い。誰か、あるいは何かが、定期的にここを通っていた跡だ。


「この通路、最近も誰か使ってますね」


 私が指摘すると、研究者は驚いたように足元を見た。


「……本当だ。私は気づきませんでした」


 研究者はしばらく埃の跡を見つめ、誰か先客がいるのだろうかと呟いたが、すぐに気を取り直したように壁の方へ向き直った。学者らしく、目の前の謎よりも、目の前の発見に気持ちが向いてしまうたちらしい。


「それより、これほど精緻な技術が、なぜ失われてしまったのか。本当に、惜しいことです」


 研究者は興奮した様子で、壁の模様を一つずつ書き写していく。


 その言葉に、アズラエルがぴくりと反応したのを、私は見逃さなかった。


 奥へと進む途中、崩れかけた祭壇の前で、それは待っていたかのように現れた。


 古びた編みぐるみの猫。


「……セラフィナ」


 思わず名前が口をついて出た。猫は静かに頷いた。


「お久しぶりです」


 律儀に一礼までする仕草は、猫というより、どこかの侍従を思わせた。それでいて、尻尾らしき毛糸の房が、落ち着かなげにゆらゆらと揺れている。感情と仕草が、どうにも噛み合っていない。


「もう会うことはない、って言ってたのに」


「……そうですね。私も、驚いています」


「さっき、通路の埃の積もり方が薄いところがあって。あなた、時々ここに来てたの?」


 セラフィナは少し間を置いてから、小さく頷いた。


「……ここは、静かなので」


 それだけの返事だったが、なんとなく腑に落ちた。出会った時から、彼女は多くを語らず、騒がしさを避けるような素振りを見せていた。静かな場所を選ぶというのは、彼女らしい理由だった。


 再会の戸惑いを隠すように、私は肩に提げていた鞄から、あるものを取り出した。小さな、猫の編みぐるみ。あの日、特に何も考えずに編んでしまったものだ。指先が、少しだけ緊張していた。


「これ、あなたに似てるでしょう?」


 セラフィナは、しばらく黙ってそれを見つめていた。祭壇の薄暗い光の中で、その表情はよく読み取れなかった。


「……私です」


 短い返事だったが、頭の中がすぐには追いつかなかった。


「……どうして、猫なの?」


 やっと絞り出した問いは、我ながら間の抜けたものに聞こえた。それでも、聞かずにはいられなかった。


「私が選んだ姿ではありません」


 それ以上は、何も語られなかった。沈黙の重さだけが、じわりと空気に残った。


 ◇


 研究者は祭壇の奥、崩れかけた石板の文字を読み解いていた。ランタンの光の下、書き写す手が興奮を隠しきれずに震えている。


「これは……興味深い」


「何か分かったんですか?」


「『器には、器に適した形が与えられる』とあります」


 私は、鞄の中の編みぐるみを思い出した。手のひらの中の、小さな重みを確かめるように、無意識に指を動かす。


「じゃあ、セラフィナの猫の姿も……」


「封印されたときに決まったものです」


 セラフィナは静かにそう答えた。誰が決めたのか、なぜ猫だったのか、それ以上のことは語らない。


 私は、鞄の編みぐるみを、なんとなくアズラエルに見せた。


「ほら、セラフィナそっくり」


 アズラエルは一目見るなり、顔をしかめた。


「……捨てろ」


 その声の強さに、思わず手が止まった。


「なんでよ」


「似ていない」


「……似ています」


 セラフィナが横から静かに口を挟む。


「お前は黙れ」


 アズラエルの声には、いつもの憎まれ口とは違う、微かな険があった。祭壇の冷たい空気が、さらに重くなった気がした。研究者は、そんな三人のやり取りに気づく様子もなく、夢中で石板を書き写し続けている。


 ◇


 研究者は、別の石板の前でしゃがみ込んでいた。ランタンの灯りが、その横顔に長い影を落としている。


「……妙ですね」


「何がです?」


「この記述です。『原初の編み図』とあります」


 その言葉を耳にした瞬間、アズラエルの動きが止まった。ほんの一瞬だったが、確かに止まった。石造りの回廊に、しばしの静寂が落ちる。


「……くだらん」


「知ってるの?」


「知らん」


「またそれ?」


 いつもの調子で返されて、私は笑いかけた。けれど、その言葉を聞いた瞬間、私はふと、あの願いを叶える毛糸がほどけていったときに見えた、奇妙な編み目のことを思い出した。あれも、この「原初の編み図」と同じものだったのだろうか。


「セラフィナ、知ってる?」


 セラフィナは、少し沈黙したあとに答えた。


「……名前だけです」


「どんなもの?」


「知りません」


 研究者は石板の文字を書き写しながら、独り言のようにつぶやいた。


「『原初の編み図は、編むための図ではない。編まれたものが、世界の形を定める』……どういう意味でしょうね」


 誰も、それには答えなかった。ランタンの炎が、小さく揺れた。


 ◇


 遺跡を出る前、私は崩れかけた資料室で、古い記録の束を見つけた。積もった埃が、めくるたびに舞い上がる。何気なくめくっていると、ある一文が目に留まった。


「『二つの器』……?」


 読み上げた瞬間、頭の中で何かが繋がりかけた。「一匹ではなかった」「二つの封印」「誰かに似た編み目」――これまで聞いてきた欠片が、偶然にしては出来すぎている気がした。


「もしかして、これって……」


 私が言い終える前に、研究者が眉を寄せてこちらに近づいてきた。


「その記述だけなら、そう珍しくありません。ですが……」


 研究者は別の資料を開いた。


「この『二つ』という数が、別の記録にも出てくるんです」


 私が感じていた違和感を、研究者の言葉が裏付ける形になった。そう言われて、私はふと思い出した。盗賊団の一件のあと、街の老人が何気なく口にした一言。


 ――悪魔は一匹ではなかった。


 王城の書庫で見つけた、古い走り書き。


 ――かつて、二つの封印がこの地に置かれた、と伝わる。


 辺境の村で、老編み師がぽつりと漏らした言葉。


 ――その編み目、あの見本に似ている。


 ばらばらだったはずの断片が、頭の中で静かに繋がっていく。指先が、無意識に冷たくなっていた。


「二つの器って……誰と誰なの?」


 誰も答えなかった。


 研究者は資料をめくり直しながら、小さく首を振った。


「そこまでは、私の手元の記録では分かりません。数が一致する、というだけで……」


 自分の発見の先に、答えを持ち合わせていないことが、もどかしいらしかった。


 セラフィナは古文書を見つめたまま、黙り込んでいる。


 アズラエルだけが、いつものように欠伸をした。


「くだらん」


 けれど、その声には、いつもの軽さがなかった。


 遺跡を出て、地上に戻ると、すでに日が暮れかけていた。研究者は興奮冷めやらぬ様子で、今後の調査計画について何やら熱心に語っていたが、リディアには、その話がどこか遠くに聞こえていた。

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