第10章 器
遺跡から戻る道中、私はずっと考えていた。馬車の窓に映る景色が、後ろへ後ろへと流れていく。同乗した研究者は、興奮した様子で何かを話し続けていたが、その声はほとんど頭に入ってこなかった。
「二つの器」
「原初の編み図」
「悪魔は一匹ではなかった」
ばらばらの言葉が、頭の中で音を立てずにかき混ぜられている。窓に映る自分の顔が、いつもより青ざめて見えた。
宿に着いて、荷物を下ろすなり、私はアズラエルに向き直った。
「果物、買ってこようか?」
「……今はいい」
その返事に、かえって不穏なものを感じた。彼が果物を断るのは、珍しいを通り越して、ほとんど前例がなかった。ここで聞かなければ、もう二度と聞けない気がしていた。窓の外では、街の灯りがぽつぽつと点り始めている。
「アズラエル。あなたは『二つの器』の片方なの?」
アズラエルは、しばらく何も言わなかった。窓の外を見るふりをして、視線を逸らしている。長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「原初の編み図は存在する」
「……」
「我は、それを知っている」
短い認め方だった。それでも、初めて聞く言葉だった。喉がからからに渇いているのに気づいた。
「じゃあ、あなたは何なの?」
もう一度、長い間があった。ランプの灯りが、じじ、と小さく音を立てる。
「……器だ」
たった一文字のその言葉が、部屋の空気を一変させた。私は、しばらく言葉を発することができなかった。
◇
「何を入れてるの?」
「知りたいか?」
「知りたい」
「ならば、聞かなかったことにしろ」
いつもの逃げ方だった。でも、今回は引けなかった。手のひらが、じわりと汗ばむ。ここで引いてしまったら、きっともう一生、この距離のまま終わってしまう。そんな予感があった。
「私はもう、知らないままではいられない」
自分でも驚くくらい、はっきりとした声が出た。アズラエルは、初めて少し驚いたような顔をした。その表情を見て、私は自分の言葉が、彼にとって何か特別なものだったのかもしれない、と思った。
「なぜ、そこまで知りたがる」
「あなたと、ずっと一緒にいたから。それだけじゃ、理由にならない?」
アズラエルは何も答えなかった。ただ、その沈黙は、さっきまでとは少し違う質のものに感じられた。
◇
「アズラエル。まだ話すべきではありません」
部屋の隅から、セラフィナの声がした。いつの間にか、そこにいた。
「お前に決める権利はない」
アズラエルの声は鋭かった。セラフィナは、それ以上何も言わず、ただ静かに目を伏せた。
「……そうですね」
短いやり取りだったが、二人の間に流れる空気は、いつもと違っていた。セラフィナがアズラエルを守ろうとしているのか、それとも何か別の理由があるのか、私には分からなかった。二人の間には、私の知らない長い時間が横たわっているのだと、その沈黙が教えてくれた。
セラフィナは、それ以上何も言わず、部屋の隅で静かに佇んでいた。
◇
「器だ」と言ったきり、アズラエルはそれ以上何も語ろうとしなかった。
ただ、その一言を口にしたときの声は、いつもの皮肉や憎まれ口とはまるで違っていた。願いを叶える毛糸をほどいたときに見せた、あの張り詰めた「……今のは忘れろ」。遺跡の古文書を前にして、ふと止まった動き。そのどれもが、彼が何かをずっと押し殺してきたことを物語っているように、私には思えた。
私は、これまでの依頼を一つずつ思い返した。マフラーに触れようとしなかったこと。老編み師の言葉に、いつもより低い声で返したこと。
「もしかして、それを抱えているのが、辛いの? だったら、どうすればいいの?」
私が尋ねると、アズラエルはしばらく黙り込んだ。窓の外はもう暗く、部屋の灯りだけが二人の顔を照らしていた。時計の針の音だけが、やけに大きく響いている。
「ほどけばいい」
「……何を?」
「俺を」
その一言に、私は思わず彼の顔を見た。いつもの「我」ではなかった。それだけ言うと、アズラエルは窓の外に視線を戻した。私は、その言葉の意味を、まだ半分も理解できていなかった。
ただ、部屋の空気が、今までにないほど重くなっていることだけは、はっきりと分かった。




