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第11章 ほどく

「俺を」


 その言葉の意味を、私はまだ受け止めきれずにいた。頭では理解しようとしているのに、心のどこかが、それを拒んでいるような感覚があった。


「……ほどけば、あなたは自由になるの?」


 私が尋ねると、アズラエルは何も答えなかった。代わりに、それまで黙っていたセラフィナが口を開いた。


「ほどけば、アズラエルだけが自由になるわけではありません」


「どういうこと?」


「彼の中には、原初の編み図に由来する力が編み込まれています」


 セラフィナの声は、いつになく硬かった。


「彼をほどくということは……その力を、世界に解き放つということでもあるのです」


 部屋の空気が、一段と重くなった気がした。ランプの炎が、わずかに揺れる。私は、自分の呼吸の音さえ、やけに大きく感じられた。


 ◇


「だから、俺をほどけ」


 アズラエルが静かに言った。


「世界がどうなるか分からないのに?」


「俺が知る限り、それしかない」


 その声に、迷いは感じられなかった。だからこそ、私は余計に恐ろしくなった。この毛玉は、自分がどうなるかより、世界がどうなるかを先に案じている。それが、なんだか無性に腹立たしかった。


 ――あいつは、自分自身を一番信用していないからです。


 森でセラフィナと初めて会ったとき、彼女が最後に残した言葉が蘇る。アズラエル自身、解放された後に何が起きるのか、確信を持っているわけではない。それでも、「ほどけ」と言っている。


「あなたも、どうなるか分からないの?」


「分からん」


 あっさりとした返事だった。手のひらの中で、爪が皮膚に食い込んでいるのに気づいた。


「それでも、いいの?」


「知ったことか。俺が背負ったものだ。俺が終わらせる」


 その言い方には、これまでのどんな軽口とも違う、静かな覚悟があった。まるで、もうずっと前から、一人でその答えに辿り着いていたかのような。


「一人で全部背負おうとしないでよ」


 思わず声が大きくなった。アズラエルは、少し驚いたように私を見た。


「お前に何が分かる」


「分からないから、聞いてるの」


 その言葉に、アズラエルは何も言い返さなかった。ただ、いつもより少しだけ長く、私の顔を見つめていた。


「……腹が減った」


「今、それを言う?」


「言ってはいけない決まりでもあるのか」


 いつも通りの調子に、思わず力が抜けそうになった。それでも、彼の目はまだ、どこか遠くを見ているようだった。


 ◇


「アズラエル」


 セラフィナが小さく呼びかけた。それ以上、何も続けなかった。ただ、その声には、止めたいのに止められない、というような響きがあった。


 私は、二人の間に流れる沈黙の重さに、圧されるように黙り込んだ。


 長い沈黙のあと、セラフィナが、これまでとは違う声で、ぽつりと話し始めた。


「……一つだけ、話していないことがあります」


「セラフィナ」


 アズラエルが遮ろうとしたが、彼女は続けた。


「三百年前、私たちが追い詰められた夜のことです」


 その言葉に、私は思わず息を止めた。北の山で読んだ、あの古い記録が頭をよぎる。


「私はまだ、今よりずっと小さな姿でした。声も出せず、逃げる力もなかった。彼は、追手の足音が近づいてくる中で、森の外れにあった古い壁の隙間――崩れた小屋か何かの跡だったと思います――に、私を押し込みました」


「……」


「『動くな。息もするな』と、それだけ言って」


 セラフィナの声は、感情を抑えているというより、ただ静かに、事実だけをなぞっているように聞こえた。


「彼は、抵抗しませんでした。追手に囲まれても、逃げようとも、戦おうともしなかった。ただ、私が隠れた場所から、絶対に目を逸らさなかった。もし追手がそちらに気づけば、すぐに気を逸らせるように」


「……それで、あなたは無事だったのね」


「はい。彼が連れて行かれる間、私はずっと隙間から見ていました。振り返ることもなく、抵抗することもなく、ただ大人しく捕まっていく背中を」


「それから、あなたは……」


「あの森で、ずっと待っていました。彼がどこに連れて行かれたのかも、生きているのかどうかも、分かりませんでしたから」


 セラフィナの声が、初めてわずかに揺れた。


「捜しに出る力もありませんでした。だから、ただ、あの森で待つことしかできなかった。……あなたたちが、あの毛糸を見つけるまで」


「その森って、あの毛糸があった森のこと?」


「はい。あの毛糸があった、あの森です」


「じゃあ、彼を連れて行った先の砦は……」


「あそこではありません。彼が連れて行かれたのは、もっと遠い場所だったはずです」


 三百年。あの森での再会が、彼女にとってどれほど長い時間の果てにあったものだったのか、私はようやく実感として理解した。彼のそばにいるための存在だったはずなのに、その役目を果たすことすら、三百年もの間、許されなかったのだ。


 私は、北の山の記録の一文を思い出していた。


 ――彼の者、最後まで抵抗せず。何かを庇うような素振りあり。詳細不明。


 詳細不明、とされていたその答えが、今、目の前にあった。


「……なんで、今まで黙ってたの」


 私が尋ねると、セラフィナは少し困ったように、アズラエルの方を見た。


「言うなと、言われていましたから」


「くだらん昔話だ」


 アズラエルが低く吐き捨てるように言った。それでも、いつものような突き放す響きはなかった。


「私はずっと、自分は彼を止めるための存在だと思っていました。何かあったときに、彼を封じ直す役目を負わされたのだと」


 セラフィナは、そこで一度言葉を切った。しばらく黙り込んでから、また続けた。


「でも、あの夜、彼は私を止めようとはしませんでした。むしろ、隠して、守ろうとした。役目を果たすべき相手を、あんなふうに庇うでしょうか」


 セラフィナは、それ以上をうまく言葉にできないというように、視線を落とした。


「……あの夜、彼が守ったのは、世界でも、任務でもなく、ただ、私だっただけなのかもしれません」


 その言葉に、部屋の空気が、また少し変わった気がした。


 ◇


「じゃあ、どうすればいいの……」


 その問いは、誰に向けたものでもなく、ただ部屋の中に落ちていった。


 誰も、答えなかった。


 窓の外はすっかり暗く、遠くで夜鳥が鳴いていた。私はしばらくの間、その鳴き声だけを、ただじっと聞いていた。答えの出ない問いを抱えたまま、夜だけが静かに更けていった。

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