第12章 編み直す
一晩、考え続けた。窓の外が白み始めても、目は冴えたままだった。隣の部屋からは、物音一つ聞こえてこない。アズラエルも、きっと眠れていないのだろう。
ほどけば、アズラエルは自由になる。でも、彼の中にある原初の編み図由来の力も、同時に世界へ解き放たれる。ほどかなければ、アズラエルは器のまま、これから先もずっと、何かを抱え続けなければならない。
どちらを選んでも、何かが犠牲になる。そんな二択を、私はずっと押しつけられている気がしていた。掛け布団を握りしめる手に、無意識に力がこもる。
編み針を手に取り、意味もなく毛糸を絡めては、ほどく。それを何度も繰り返しているうちに、ふと、指先の動きに引っかかるものがあった。
「……待って」
朝、編み針を手にしたまま、私はふと声を上げた。
「編み図って、ほどいたら終わりじゃないよね?」
◇
編み物では、間違えたところまでほどいて、そこから編み直すことができる。ほどく、というのは終わりではなく、やり直すための手段でしかない。何度も失敗を重ねながら編み物を覚えてきた私にとって、それはあまりに当たり前すぎて、今の今まで気づかなかった発想だった。
そして、私はふと、遺跡で聞いた言葉を思い出した。
――器には、器に適した形が与えられる。
同じ毛糸、同じ編み図を使っても、力の込め方や編み手の意図によって、出来上がるものの表情は変わる。きつく編めば硬く縮こまった形になるし、緩やかに編めば伸びやかな形になる。編み図そのものが結果を決めているのではなく、どう編むかが結果を決めているのだ。
だとすれば、原初の編み図も同じではないか。あの時、誰かがある意図を込めて編んだから、アズラエルには「器」という、閉じ込めるための形が与えられた。編み図そのものの性質ではなく、編み方の問題だったのだとしたら。
だったら――同じ編み図でも、編み方を変えれば、与えられる形も変わるはずだ。指先が、勝手に興奮で震え出すのが分かった。
隣の部屋の扉を叩き、アズラエルとセラフィナを呼んだ。二人が揃うのを待つ間、私は自分の考えを頭の中で何度も整理し直した。まだ半分も固まっていない考えだったが、それでも、今すぐ伝えなければならない気がした。
「アズラエルに編み込まれたものを、一度ほどく。そのあとで、同じ編み図を、今度は『器』ではない形になるように、編み直す」
自分で言いながら、少しずつ言葉が形になっていくのが分かった。力を取り除くのではない。どこか別の場所に移すのでもない。同じ糸を、無理に押し込めた結び目としてではなく、彼自身の一部として自然に馴染む模様に、編み直す。それだけの違いだった。
「器のまま置いておくんじゃない。全部を解き放つんでもない。アズラエルを、『器』じゃない別の形に、編み直せばいいんじゃないの?」
部屋の中が、しんと静まり返った。壁の時計の音だけが、やけに大きく聞こえた。
◇
「……無茶を言う」
アズラエルが低く呟いた。
「無茶かもしれない。でも、やってみないと分からないでしょう」
「原初の編み図を読み替えるなど、誰にもできたことがない」
「誰もやったことがないなら、私が最初にやればいい」
我ながら大それたことを言っている自覚はあった。喉の奥が乾いていたが、それでも、他に道があるとは思えなかった。
「失敗したら、どうなる」
「分からない。でも、何もしないままでいるよりは、ましだと思う」
アズラエルは、しばらく私の顔をじっと見つめていた。その視線の中に、これまで見たことのない何かが浮かんでいる気がした。
◇
セラフィナが、静かに口を開いた。
「私は、封印を維持するべきだと思っていました」
「でも?」
私が続きを促すと、セラフィナは少し間を置いてから答えた。
「……あなたの言うことが、正しいのかどうかは分かりません。ただ」
セラフィナは、アズラエルをまっすぐに見た。
「彼が、このままでいいとも、思えないのです」
セラフィナの存在について、私はまだ何も本当のことを知らない。ただ一つだけ、分かったことがあった。セラフィナは、アズラエルを止めるために作られた存在ではない。
彼が一人で全部を背負い込まないように、そばにいるために――そういう存在だったのではないか。
そう思うと、遺跡で聞いた「二つの器」という言葉の意味が、少しだけ違って見えてきた。二つ必要だったのではなく、そもそも、一人に背負わせるべきではなかったのだ。
「ねえ、セラフィナ。あなたも、同じように縛られているの?」
私が尋ねると、セラフィナは静かに首を振った。
「私が背負っているのは、危険なものではありません。ただ、この姿と、この役目に縛られているだけです」
「じゃあ、あなたも編み直せば――」
「……いいえ」
セラフィナは、少し困ったような顔をした。猫の顔で、そんな表情ができるのが不思議だった。
「今は、まだ。それは、私自身で決めたいのです」
セラフィナは、少しだけ迷うように付け加えた。
「……いつか、自分の手で、答えを出したいとは思っています」
それ以上は、聞かなかった。彼女にも、彼女自身のペースがあるのだろう。誰かに決めてもらうのではなく、自分で選びたい。その気持ちは、なんとなく分かる気がした。
◇
「俺は、自分が正しいと思ったことしかしない」
アズラエルが言った。
「だから、信用するな」
「分かってる。あなたを信じる、とは言わない」
私はまっすぐにアズラエルを見返した。心臓が、耳の奥で鳴っているのが分かる。
「あなたの言う通りにもしない。でも」
一呼吸置いて、続けた。
「あなたを、一人にはしない」
アズラエルは、しばらく何も言わなかった。ただ、いつもの憎まれ口も、皮肉も出てこなかった。窓から差し込む朝の光が、その丸い輪郭を静かに照らしていた。
◇
編み直しは、想像していたよりずっと長い時間を要した。一度に全部をほどいてしまうわけにはいかない。少しずつ、端から一目ずつほどいては、その場で編み直す。ほどけていない部分は、そのままアズラエルの形を保っている。だからこそ、作業の間じゅう、彼はいつも通りの姿で、いつも通りに軽口を叩き続けていられた。
セラフィナが静かに手伝ってくれた。垂れ下がった毛糸の端が揺れるたび、彼女の視線がそちらへ一瞬だけ吸い寄せられる。本人は毎回、はっと我に返ったように咳払いをして、何事もなかったかのように作業に戻った。アズラエル自身も、渋々といった様子で、時折口を出した。
「そこの目は、そう詰めるな」
「うるさいわね、初めてやることなんだから」
「初めてでも、下手は下手だ」
言い合いながらも、編み目は少しずつ、これまで誰も見たことのない形を取っていった。指先の感覚が、次第に研ぎ澄まされていくのが分かった。
途中、私の手が止まった。編み目が、それまでとは違う密度の場所に差し掛かり、次にどう進めればいいのか分からなくなったのだ。焦りで、指先から力が抜けていく。
「……行き詰まりましたか?」
セラフィナがそっと尋ねた。私が頷くと、彼女は少し考えるように、編み目全体を眺め回した。
「ここ、二本の糸が交差するはずの場所が、まだ交わっていません。あなたの手元からは見えにくい位置だと思います」
言われて見返すと、確かに、少し離れた場所に、繋がるはずの糸端が残っていた。近くで手を動かしているだけでは、気づけない位置だった。
「……よく分かったね」
「私は、そばで見ているだけですから。近すぎると、逆に見えないものもあります」
その一言に、思わず手を止めた。ずっと編んでいる私にも、ずっと器として生きてきたアズラエルにも、見えていなかったもの。少し離れた場所にいたセラフィナだからこそ、拾い上げられたものだった。
指示された通りに糸を繋ぐと、編み目がすっと素直に形を取り戻した。
「……すごい」
「私にできることが、これくらいしかなかっただけです」
セラフィナはそう言って、また静かに手元に視線を落とした。それでも、その一言が、この作業を支えていたことに変わりはなかった。
三人でこんなふうに、一つのものに向き合う時間が、不思議と心地よかった。作業の合間、セラフィナが淹れてくれた茶を飲みながら、私たちは何度も休憩を挟んだ。誰も焦らず、誰も急かさず、ただ一つの模様が完成していくのを見守った。
◇
最後の一目――それまでほどけずに残っていた、ほんの一部分――を編み終えたとき、何かが静かに解けて、そして、静かに結ばれるのを感じた。
言葉では説明できない感覚だった。ただ、アズラエルを包んでいた重い気配が、少しだけ軽くなったような気がした。指先に残る、糸の余韻だけが、その証だった。
「……終わったの?」
「知らん」
いつも通りの返事だった。それでも、その声には、これまでにない穏やかさがあった。
◇
ふと、気になっていたことを聞いてみた。
「ねえ。もう、器じゃなくなったんでしょう。だったら、私のところにいる理由も、もうないんじゃない?」
アズラエルは、しばらく黙っていた。窓の外で、鳥が一声鳴いた。
「……そうだな」
あっさりとした肯定に、少しだけ寂しさを覚えた。けれど、続きがあった。
「理由がないなら、好きにしていいということだろう」
「それで?」
「面倒だが、ここにいてやる」
素っ気ない言い方だったが、それが彼なりの選び方なのだと、なんとなく分かった。縛られていたからではない。ただ、そうすることを、自分で選んだだけだった。
「誰も『いてくれ』なんて頼んでないけど」
「口が減らんな」
言い合いながらも、私は少しだけ笑ってしまった。目の奥が、少しだけ熱くなった。
◇
それから数日、私は編み直しの余韻の中で、ふと気になっていたことを思い出した。私は、道具箱の奥にしまい込んでいたものを取り出した。深い紫と金の糸が絡み合う、あの意匠のストール。三百年間、アズラエルを封じていた、封印の証そのものだ。
何も知らずに編み始めた、あの日から、ずいぶん遠くまで来たものだと思う。
アズラエルを編み直せたことは、もう分かっている。あの時、確かに何かが変わった。それでも、本当に彼が「器」ではなくなったのか、確かめる方法は一つしかなかった。
もう一度、同じ図案を編んでみること。もし編み直しが本当に成功しているなら、この文様はもう、彼に対して何の力も持たないはずだ。もし、まだ何かが残っているなら――同じ図案が、また彼を縛ってしまうかもしれない。
「何をする気だ」
私の手元を見て、アズラエルの声が低くなった。
「確かめたいの。あなたが、もう自由になったのか」
「危険だとは思わないのか」
「思う。だから、あなたに聞いてる」
アズラエルは、しばらく黙って私を見ていた。
「……好きにしろ」
短い許しだった。セラフィナが心配そうにこちらを見ていたが、何も言わなかった。
私は編み針を手に取り、最初の一目を編み始めた。
◇
指先は迷わなかった。あの日、何も知らずに無我夢中で編んだ、あの複雑な文様。今は、一目一目の意味が分かる。何が、誰を、どんな形に縛るための図案だったのかも。
編み上がったストールを、そっと膝の上に広げる。手が震えているのに気づいた。
紫と金の糸が、光を受けてわずかに揺れる。
何も、起きなかった。
アズラエルは、いつもと変わらない姿で、退屈そうに欠伸をしている。空気も、部屋の温度も、何一つ変わらない。
詰めていた息が、ゆっくりと抜けていった。
「……何ともないの?」
「見ての通りだ」
「良かった」
思わず声が漏れた。膝の上のストールを、私はそっと畳んだ。もう誰も縛らない、ただの美しい布として。
「……できた」
呟くと、アズラエルが片目だけ開けてこちらを見た。
「当然だろう」
「当然かどうかは、やってみるまで分からなかったの」
言い返しながら、私は、自分の指先が確かに何かを掴んだのだという実感を、静かに噛みしめていた。
セラフィナが、静かに私の隣に座っている。
三人分の影が、夕暮れの部屋に長く伸びていた。一人と、二匹。誰に縛られたわけでもない、それぞれの選択で、ここにいる。
窓の外では、いつも通りの街の喧騒が続いていた。




