終章 セラフィナの選択
編み直しの一件から、十日ほど経った朝のことだった。
事務所の扉が控えめに叩かれた。開けると、そこに立っていたのは、あの空き家の依頼をくれた老婆だった。
「近くまで来たものだから、ちょっと寄ってみたのよ」
老婆は、包みを一つ差し出してきた。開けてみると、焼き菓子が数個、丁寧に並んでいる。
「孫にあの話をしたらね、大層喜んでくれてねえ。お礼のつもりだよ」
「わざわざ、ありがとうございます」
老婆は、隣にいるアズラエルにちらりと目をやり、目を細めた。
「あら、相変わらず可愛い毛玉ちゃんだこと」
「毛玉ではない」
「はいはい」
軽くあしらわれたアズラエルが、不満げに鼻を鳴らす。それを見て、老婆はころころと笑いながら帰っていった。
◇
事務所で帳簿をつけていると、珍しくセラフィナが一人でやってきた。アズラエルはいない。いつも二匹揃って現れるので、これは珍しいことだった。
「アズラエルは?」
「果物屋の前で、珍しい南国の果物が入荷したとかで、夢中になっています。しばらく戻らないと思います」
「相変わらずね」
軽口を挟みながらも、セラフィナの様子がいつもと違うことに、私はすぐ気づいた。何か言いたいことがあって、それを切り出せずにいる。そんな顔だった。
「どうかした?」
「……お願いが、あります」
セラフィナは、しばらく言葉を選ぶように黙っていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「編み物を、教えていただけませんか」
思いがけない申し出だった。
「あなたが? 編み物を?」
「おかしいでしょうか。私は、編まれる側でしたから」
その一言に、いろいろな意味が込められている気がした。
◇
「なぜ、急に?」
尋ねると、セラフィナは少し考えてから答えた。
「あなたが、あのストールを編み直すのを見ていました。指先一つで、何かの形を変えてしまう。私はずっと、編まれることしか知りませんでした。編むことがどういうものなのか、知らないままでいるのが、なんだか――」
言葉を探すように、セラフィナは間を置いた。
「悔しかったんです」
意外なほど率直な言葉だった。彼女がこんなふうに、自分の感情をはっきり口にするのは、初めてかもしれない。
「悔しいって、あなたが?」
「私にも、感情くらいあります」
むっとしたような返事に、私は思わず笑ってしまった。
「分かった。教える」
◇
最初の授業は、散々な結果に終わった。
「……力を入れすぎです」
「あなたが力の抜き方を教えてくれないからだと思います」
「私、こんなに不器用でしたっけ」
セラフィナの毛糸の房のような前脚は、お世辞にも器用とは言えなかった。何度も編み目を落とし、何度もやり直す。それでも、彼女は投げ出そうとしなかった。
「あなたが編んでいるところを見せてくれれば、それが一番助かります」
「え、私が?」
いつの間にか戻ってきたアズラエルが、呆れたように壁にもたれて見ていた。
「珍しいこともあるものだ」
「あなたに言われたくありません」
セラフィナが即座に言い返す。その素早さに、私は少し驚いた。いつもの控えめな彼女とは、少し違って見えた。
「猫が編み物とは、笑わせる」
「あなたは何もできないでしょう」
「我は監督だ」
「都合のいい役職ですね」
言い合う二匹を見ながら、私はふと思った。二人の掛け合いに、以前より遠慮がなくなっている気がする。
◇
数週間、セラフィナは根気強く練習を続けた。手先の不器用さは相変わらずだったが、編み目は少しずつ、それらしい形を取るようになっていった。
「これは……マフラー、でしょうか」
出来上がったのは、お世辞にも均一とは言えない、ところどころ歪んだ編み目のマフラーだった。それでも、彼女は満足げにそれを見つめていた。
「初めてにしては上出来よ」
「本当ですか?」
「本当」
セラフィナは、そのマフラーを大事そうに抱えた。誰かに贈るためでも、何かの役に立てるためでもない。ただ、自分の手で何かを完成させた、という事実だけのために。
「これで、少しは分かった気がします」
「何が」
セラフィナは、それには答えず、ただマフラーを撫でるように見つめていた。三百年間、誰かに決められた姿で、誰かに決められた役目を果たしてきた彼女が、今、初めて自分だけの何かを手にしている。それだけで、十分な気がした。
◇
「猫のままでいるの?」
私が尋ねると、セラフィナは自分の前脚を見下ろした。
「……分かりません。でも、今は」
彼女は少し考えて、続けた。
「今は、この姿が嫌いではありません。誰かに決められたからではなく、自分で選んだと思えるようになったので」
それは、答えのようで、答えではなかった。でも、彼女にとっては、それで十分なのだろう。
「セラフィナ」
不意にアズラエルが呼びかけた。
「その不格好なマフラー、我にくれてやってもいいぞ」
「これは、私が編んだものです。あなたにあげるとは言っていません」
「くれてやってもいい、と言っている」
「もらってくれ、の間違いでは?」
売り言葉に買い言葉のやり取りに、私は思わず吹き出した。セラフィナは、少し不満げな顔をしながらも、結局、そのマフラーをアズラエルの首に――正確には、毛玉の周りに、ぐるりと巻きつけてやっていた。
「……悪くない」
「そうですか」
そっけない返事だったが、セラフィナの声には、隠しきれない満足感が滲んでいた。
◇
その日の午後、事務所に手紙が届いた。差出人は、几帳面な、けれどまだあどけなさの残る筆跡で綴っていた。
「また来い、と言っただろう。この間、また少し上手くなった。今度は靴下も編めるようになった。父上には、まだ内緒だ」
差出人の名前はなかったが、誰からの手紙かは、考えるまでもなかった。
実を言うと、似たような手紙は、これで二通目だった。先週届いた手紙を、私は引き出しの奥から取り出す。丁寧な女性らしい文字だった。
「祖母は、あれから毎日、あのセーターを眺めて過ごしています。先日、久しぶりに笑った祖母を見て、家族みんなで泣いてしまいました。本当にありがとうございました」
二通の手紙を並べて読み返しながら、私は少し温かい気持ちになった。依頼が終わっても、繋がりは案外、簡単には切れないものらしい。
「何を読んでいる」
アズラエルが、マフラーを巻いたまま覗き込んでくる。
「大したことじゃないわ。ちょっとした、お礼状」
「くだらん」
「くだらなくないわよ」
言い合いながらも、私はその二通の手紙を、大切に引き出しの奥へとしまった。
窓の外では、いつも通りの街の喧騒が続いていた。三人分――いや、正確には一人と二匹分の、賑やかな一日が、また始まろうとしていた。
(Fin)
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
短編「伝説の編み図を編んだら、偉そうな毛玉が出てきた」の続編として、リディアとアズラエルのその後を書きました。
宝探しと編み物、そして偉そうな毛玉との日々を楽しんでいただけたなら嬉しいです。
ひとまず、物語はここで一区切りです。
お付き合いいただき、ありがとうございました!




