第6章 魔物の毛から作られた毛糸
朝から妙に肌寒い日だった。事務所の暖炉に薪をくべながら、私はふと隣を見た。アズラエルは窓辺で丸くなったまま、いつになく静かだった。
「今日はやけに大人しいのね」
「うるさい」
そっけない返事だったが、機嫌が悪いというより、どこか気もそぞろな様子だった。理由を尋ねようとしたところで、扉が叩かれた。
「魔物の毛から紡いだ毛糸だ。一本だけでいい。どうしても欲しい」
依頼人は恰幅のいい男だった。名を名乗るより先に、毛糸の値段の話をしたがるあたりが、いかにも商人らしい。指先が、まるで金貨でも数えるように、絶えず擦り合わされている。
「そんなに珍しいものなんですか?」
私が尋ねると、商人は指を擦り合わせながら目を輝かせた。
「珍しい。市場に出せば目の玉が飛び出るほどの値がつく。どこぞの森に落ちているという噂を聞きつけてね」
「ご自分で採りに行かれないんですか?」
「私は商人ですからね。危険な場所には行きません。絶対に」
商人はきっぱりと言い切った。危険は他人に任せて、利益だけをいただく。そういう主義らしい。あまりに堂々とした物言いに、こちらの方が呆気に取られてしまう。
「では、報酬に果物を積んでもらおう。高級品でなければ話にならん」
いつも通りの調子でアズラエルが割り込む。商人が渋い顔をしながらも渋々頷いた。
「具体的に、どのあたりの森ですか?」
「街の南、古い大木が何本も並んでいる、あの森だと聞いている」
その一言を聞いた瞬間、アズラエルの気配が変わった。さっきまでの軽口が、ぴたりと止まる。
「……断れ」
さっきまでとは違う、低い声だった。アズラエルはさっきまでの軽口が嘘のように、腕を組んでこちらを見ていた。空気の温度が、一段下がったような気がした。
「え?」
「なぜです」商人が眉をひそめる。
「面倒そうだからだ」
それだけ言って、アズラエルはふいと視線を逸らした。理由になっていない。でも、こういうことは前にもあった。虫の居所が悪いだけかもしれない。
「また始まった」私は肩をすくめて、依頼を受けることにした。こういうときは、理由を詮索しても仕方がないと分かっている。
商人は落ち着かない様子で何度も礼を言い、そそくさと事務所を後にした。私はその背中を見送りながら、隣のアズラエルにもう一度目をやった。彼は何も言わず、窓の外を見つめていた。
◇
森までは、街から半日ほどの道のりだった。道中、アズラエルはずっと口数が少なく、私はそれ以上何も聞かずに歩いた。ようやく木々の間に分け入る頃には、日はすでに高く昇っていた。
魔物の気配はあるはずなのに、拍子抜けするほど静かだった。木々の隙間から差し込む光だけが、やけに白々しく地面を照らしている。
いつもなら先に立って進むところを、今日は私の後ろをついてくる。アズラエルの歩調は、森に入ってからずっと重かった。
「なんだか、様子見されてる気分ね」
「……気のせいだろう」
アズラエルの返事はどこか上の空だった。私はちらりとその横顔を窺ったが、いつも通りの、つんとした表情が返ってくるだけだった。それでも、いつもと何かが違う。うまく言葉にできない違和感が、胸の奥にひっかかっていた。
木の根に足を取られそうになった私を、アズラエルが咄嗟に支えた。
「気をつけろ。転ばれて足止めを食っては、我の手を煩わせる」
「ありがと。……なんだか、今日は妙に過保護ね」
「気のせいだ」
さっきと同じ台詞を繰り返す彼の声に、私はそれ以上突っ込むのをやめた。
目的の毛糸は、古い木の根元にひっそりと絡まっていた。銀色がかった灰色で、触れるとひやりと冷たい。妙な手触りだ。切れ端を一本取ろうと手を伸ばした瞬間、
「……セラフィナか」
アズラエルが呟いた。声にどこか、聞いたことのない色が混じっている気がした。
「え?」
答える前に、毛糸がふわりと浮き上がり、小さな影を結んだ。現れたのは、古びた編みぐるみの猫だった。丁寧に編まれた毛並みが、こちらをじっと見つめている。それから、こちらの様子を確かめるように、ゆっくりと瞬きを一つした。妙に礼儀正しい仕草だった。
「……猫?」
「猫ではない。面倒な奴だ」
「あなたにだけは言われたくありません」
猫は静かに、しかしはっきりとそう言った。
「面倒同士、気が合いそうね」
「合わん」「合いません」
二人(?)の声が、見事に重なった。私は二人の間に流れる、明らかに「初対面ではない」空気に戸惑った。木々のざわめきさえ、一瞬止まったように感じた。
「知り合いなの?」
「知らん」
「……嘘ですね」
猫がぼそりと訂正する。私は、これは只事ではないと悟った。この場に流れる空気には、これまで見てきたどんな依頼とも違う、ひりついた緊張感があった。
◇
「その毛糸を、渡してはもらえませんか」
猫――名乗らないので、ひとまずそう呼ぶことにした――は、私が手にした毛糸をじっと見つめて言った。その目には、懇願とも警戒ともつかない色が浮かんでいた。
「これがないと困るの?」
「私は、これを媒介にしてしか、ここに留まれません」
「留まれないって……」
「持ち去れば、私は消えます」
さらりと告げられた言葉に、私は毛糸を握った手を思わず離しそうになった。指先がひやりと冷たくなる。命に関わることを、こんなにも淡々と語れるものだろうか。
「じゃあ、持って帰れないじゃない!」
「依頼を受けた以上、依頼主に渡せ」
アズラエルが淡々と言う。その声の平坦さが、かえって不自然に響いた。
言い返そうと口を開きかけて、ふと、名前を呼ぶべきだと思い直した。さっき、アズラエルが確かにそう呟いていたのを、私は聞き逃していなかった。名乗られたわけではないけれど、他に呼びようもない。
「セラフィナが消えるのに?」
猫が――セラフィナが、わずかに目を見開く。アズラエルは何も言わない。長い沈黙のあと、
「……ならば、別の方法を考えろ」
とだけ言った。その一言に、私は少しだけ安堵した。
「じゃあ、少しだけ切ればいいんじゃない?」
「……切る?」セラフィナが小さく繰り返す。
「うん。全部持っていく必要はないでしょう? あなたがここにいられる分だけ残して」
セラフィナは戸惑ったように、自分の足元――毛糸が絡みついていた木の根元――に目を落とした。
「……つまり、残した分は、この森に置いておく、ということですね」
長くこの場所から動けずにいた者らしい、当然のような口ぶりだった。他の在り方を、考えたこともなかったのかもしれない。
「そんなことないと思うけど。持ち歩けばいいんじゃない? 切り分けた分を懐にでも入れておけば」
セラフィナは、その考えに触れたことがなかったというように、少し驚いた顔をした。
「……そうすれば、この森を離れられる、ということですか」
「たぶんね」
セラフィナは毛糸を見つめた。長い睫毛のような糸が、風もないのに小さく揺れる。その目が、糸の動きを追ってわずかに左右に動いたのを、私は見逃さなかった。本人は気づいていないようだった。
「……できるかもしれません」
しばらくの沈黙のあと、セラフィナは短く頷いた。
「……ありがとうございます」
そう言ったきり、セラフィナはしばらく黙り込んでいた。その視線が、少し離れた場所に立つアズラエルへと、ゆっくりと移っていく。何かを迷っているような、確かめているような目だった。
「あいつは、私たちを封じた」
やがて、絞り出すように、セラフィナがそう言った。
「え?」
「……そして、私たちを守ったのも、あいつです」
「余計なことを言うな」
アズラエルが鋭く遮る。セラフィナはそれ以上続けなかった。私は聞きたいことが山ほどあったが、今はその時ではない気がして、飲み込んだ。喉の奥に、言葉にならない問いが小さく渦を巻いていた。
◇
毛糸を丁寧に切り分ける間、私たちの間には奇妙な沈黙が流れていた。セラフィナは私の手元をじっと見つめ、アズラエルは少し離れた場所で、木の幹にもたれるように座っていた。
「あなたたち、長い付き合いなの?」
私が思い切って尋ねると、セラフィナは少し困ったように視線を彷徨わせた。
「……長い、といえば長いです」
「詳しくは話せない?」
「今は、まだ」
その言い方には、隠しているというより、まだ言葉にできない、というような響きがあった。私はそれ以上聞くのをやめた。
◇
セラフィナとは、森の入り口で別れた。夕暮れの光が、木々の間から斜めに差し込んでいる。
「もう会うことはないでしょう」
「そんなこと言わずに、街まで訪ねてくればいいじゃない。毛糸さえ持っていれば、来られるんでしょう?」
「……そうですね」
その返事は、どこか寂しさを含んでいるように聞こえた。セラフィナは少しの間、黙ってこちらを見ていたが、やがて静かに口を開いた。
「リディア。もしアズラエルが『自分を信じろ』と言ったら、信じないでください」
「……どうして?」
「……あいつは、自分自身を一番信用していないからです」
それだけ言うと、セラフィナは背を向けた。小さな背中が、森の奥へと溶けるように消えていく。私はしばらく、その場から動けなかった。
◇
商人は、短く切り分けられた毛糸を見て顔をしかめた。
「……短くないか?」
「一本です」
「屁理屈じゃないか!」
「屁理屈を言っているのは、どちらだろうな」
アズラエルが横から茶々を入れる。商人はしばらく唸っていたが、ふと何かを思いついたように身を乗り出した。
「では、こうしよう。あの森には、加工前の魔物の毛がもっと落ちているのだろう? それを全部持ってきてくれれば――」
最初は一本でいいと言っていたはずだ。都合よく話が広がっていく。呆れながらも、この商魂の逞しさには、いっそ感心してしまう。
「今回の依頼は、もう果たしました。追加分まで請け負う約束はしていません。ただ、場所だけなら、地図に描いてお渡しできますよ」
商人の目が輝いた。
「地図さえあれば、案内していただけると?」
「いいえ。地図をお渡しするだけです。採るのはご自分で」
私が言うと、商人の顔が固まった。
「……自分で?」
「よかったな。自分で取りに行けるではないか」
アズラエルが愉快そうに混ぜっ返す。
「そういえば、危険な場所には行かない、絶対に、とおっしゃっていましたよね」
私も便乗した。
「あなた方に頼んだ意味は!?」
商人の悲鳴じみた声を背に、私たちは依頼料を受け取って店を出た。表通りの喧騒が、やけに遠くに聞こえた。
「ねえ、アズラエル。セラフィナって何者なの?」
「知らん」
「またそれ?」
「腹が減った」
「話をそらさないで」
「果物を食わせろ」
いつも通りの調子に戻ったアズラエルに、私は思わず笑ってしまった。でも、頭の片隅には、さっきの言葉だけが残っている。
――あいつは、自分自身を一番信用していないからです。
意味はまだ、分からなかった。それでも、その言葉の重さだけは、はっきりと感じ取れた。
◇
数日後、手元に残った毛糸の切れ端を、なんとなく編んでみた。特に何を作ろうと考えていたわけではない。窓の外は、しとしとと雨が降っていた。
編み針を動かしているうち、妙な感覚があった。自分で形を決めているはずなのに、次にどこへ針を入れるのか、最初から知っているような感覚。気味が悪いというほどではなかった。ただ、少しだけ不思議だった。指先が、まるで誰かに導かれているように動いていく。
出来上がったのは、小さな猫の編みぐるみだった。
「……これ、猫?」
答える相手は、そこにいなかった。雨音だけが、静かに部屋を満たしていた。




