第5章 失われた編み方
「もう誰も編めなくなった編み方があるんです。それを、もう一度」
依頼人は、辺境の村から出てきたという若い女だった。手には、古びた一枚の布切れを大事そうに抱えている。長旅の疲れが顔に滲んでいたが、その目だけは、はっきりとした強さを保っていた。
「これは、私の祖母が編んだものです。でも、どうやって編んだのか、誰にも分からなくて。村の言い伝えでは、技法の断片が、いくつかの場所に散らばっているそうなんです」
「散らばっている、というのは?」
「村の祠、古い家に伝わる織物の切れ端――それと、村外れの崖の上に建つ、古い見張り塔に、最後の一片があるという言い伝えがあります。ただ、あそこには巨大な鳥が巣を作っていて、村の男たちも何人か怪我をして、誰も近づかなくなってしまって」
村人だけでは手が出せない場所がある、というのが、リディアたちに依頼する理由らしかった。
「それで、専門の方に」
「行ってみましょう」
アズラエルは何も言わず、ただ黙って布切れを見つめていた。いつもの憎まれ口すら出てこない。その横顔に、私は少しだけ違和感を覚えたが、口には出さなかった。
◇
辺境の村は、山あいの小さな集落だった。まず案内されたのは、村外れの小さな祠だった。祠の裏手に回ると、崩れかけた石壁に、風化した模様が刻まれていた。土埃を払い、目を凝らしてようやく、それが編み目を模した文様だと分かる。
「上半分だけだ。右側は欠けている」
写し取った文様を手に、次の場所へ向かう。
二箇所目は、村で一番の古株だという老人の家だった。彼が持ち出してきた古い織物の切れ端に、祠で見た文様の続きらしきものがあった。左右で対になる形が、ぴたりと合わさる。
「繋がった!」
思わず声が弾んだ。しかし、まだ全体の半分にも満たない。残る一片は、崖の上の見張り塔にあるという。
◇
見張り塔へ続く崖道には、村人が立てたと思しき警告の杭が何本も刺さっていた。
「本当に、あなたたちで大丈夫なんですか」
案内の村人が、不安げに尋ねた。
「任せてください」
崖を登り始めてすぐ、頭上で耳障りな鳴き声が響いた。見上げると、翼を広げれば人の背丈ほどもありそうな鳥が、崩れかけた塔の上で羽ばたいている。
「巣を守っているだけの、臆病な生き物だ。我らに敵う相手ではない。近づかなければ、向こうも仕掛けてくる度胸もなかろう」
鳥の旋回を、しばらく観察する。同じ軌道を繰り返し飛んでいるのに気づいた。獲物を探す時の飛び方ではない。縄張りを見回っているだけの、警戒飛行だ。
「あの子、今は威嚇してるだけ。旋回が北側に向いた隙に登れば、視界に入りにくいはず」
「……鳥の生態にも詳しいのか」
「昔、似たような依頼をこなしたことがあるの。少しは見直した?」
「当然だ。三百年の経験を、そこいらの小娘の勘と一緒にするでない――と言いたいところだが、認めてやる。悪くない目だ」
思いがけない一言に、私は少し面食らった。
鳥が北側へ旋回するのを見計らって、私たちは一気に高度を稼いだ。岩肌の陰を選びながら少しずつ登っていく。指先が汗ばみ、風が吹くたびに体が強張った。
足を滑らせかけた私の手を、アズラエルが素早く掴んで支えた。
「よそ見をするな。我の手を煩わせるでない」
「……ありがと」
塔の頂上に近づいたところで、鳥が痺れを切らしたように急降下してきた。鋭い鉤爪が私の頭上をかすめる。
「伏せろ!」
言われるがまま身を屈めると、頭上を低い唸り声とともに何かが通り過ぎた。振り返ると、鳥は妙な悲鳴を上げながら、塔の反対側へと飛び去っていくところだった。何をされたのかは、私にもよく見えなかった。心臓がまだ、激しく脈打っている。
「……行くぞ。これしきの鳥に、我らがいつまでも付き合ってやる義理はない」
塔の内部、崩れかけた棚の奥に、最後の断片が眠っていた。持ち帰って残る二つと繋ぎ合わせると、パズルのピースが埋まるように、一つの大きな模様が浮かび上がった。
◇
すべての断片を持って、私たちは老編み師の小屋を訪ねた。しわだらけの手が、扉の陰から用心深くこちらを窺っている。断片を並べて見せた途端、その顔つきが変わった。
「……これを、どこで」
「村中を、それに見張り塔の上まで探し回って、集めてきたんです」
老編み師はしばらく黙って断片を見比べていたが、やがて重い口を開いた。
「これは……確かに、全部揃っている。私の師匠が、若い頃にどこかで習ったという編み方だ。断片だけでは、誰も再現できなかったんだよ」
「教えていただけますか」
「時間はかかるよ。でも、これだけ揃っているなら、いいだろう」
◇
老編み師の指導は、想像していたよりずっと厳しかった。何度も編み直しては、その都度、駄目出しをされる。
「違う。もっと、糸に呼吸をさせるように」
「呼吸って言われても……」
苦戦する私の隣で、アズラエルが珍しく口を挟んだ。
「そこの目は、飛ばして構わない。見た目には規則正しく見えるが、実際には一目、意図して抜いてある。そうしないと、模様が閉じてしまう」
老編み師が、驚いたようにアズラエルを見た。囲炉裏の火影が、その顔にちらちらと揺れる。
「……よく分かったね、それ」
「見れば分かる」
素っ気ない返事だったが、その指摘のおかげで、私はようやく編み目を揃えることができた。
「決まった通りに編むだけが、正解とは限らないんですね」
私が呟くと、老編み師はこちらに向き直り、満足そうに頷いた。
「その通りだよ。編み図はあくまで道しるべだ。時には、あえて外すことで、初めて完成する模様もある」
その言葉が、なぜか妙に胸に残った。編み物というのは、指示通りに手を動かすだけの作業だと思っていたけれど、そうではないのかもしれない。
◇
夜、囲炉裏を囲んで、老編み師がぽつぽつと昔語りを始めた。薪がはぜる音だけが、静かな小屋に響いている。
「若い頃、村に伝わる話を聞いたことがあるんだよ。この編み方は、遠い昔、旅の編み手から伝わったものだ、ってね」
「旅の編み手、ですか」
「ああ。名前は残っていない。ただ、妙な連れがいたと聞いたことがある。その連れの体は、不思議な編み目でできていたそうでね。師匠が、その編み目の文様を書き写した、古い見本を一つ持っていてね。私も、若い頃に見せてもらったことがある」
老編み師はふと、アズラエルの方に目をやった。しばらく黙って見つめたあと、小さく呟いた。
「……その編み目、あの見本に似ている」
「何のことだ」
アズラエルの声は、いつもよりわずかに低かった。老編み師は何かを言いかけたが、結局、首を振って口をつぐんだ。
「……いや。年寄りの勘違いだろうね」
それ以上、何も語られなかった。囲炉裏の炎だけが、ぱちりと小さく音を立てた。
◇
数日かけて、私はようやく編み方を習得した。老編み師は満足そうに頷き、私の手を取って握手をした。
「これで、また誰かに残せる」
依頼人の女は、完成した見本を受け取って涙ぐんでいた。
◇
村を出る道すがら、私はアズラエルに尋ねた。山道を下る足元に、落ち葉がかさかさと音を立てる。
「ねえ、さっきの、老編み師の言葉。あなた、本当は何か知ってるんじゃない?」
「年寄りの勘違いだと言っていただろう」
「本人もそう言ってたけど、あなたは信じてないでしょ」
「知らん」
いつもよりほんの少しだけ、間があった気がした。
「腹が減った」
結局、いつもの調子ではぐらかされる。私は小さくため息をついて、村道を歩き続けた。誰かに似ている、という一言。似ているなら、その「誰か」に、いつか会うことがあるのだろうか。そんなことを考えながら、私は帰り道を急いだ。




