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第2章 触ると記憶が蘇るマフラー

 依頼人は、白髪の混じった紳士だった。丁寧な物腰だが、どこか落ち着かない様子で何度も指を組み替えている。膝の上に置かれた帽子の縁を、意味もなく指先でなぞる仕草が、やけに目についた。


「昔、大切な人からもらったマフラーを探しているんです。触れると、もらった頃の記憶が蘇るという、変わった品でしてね」


「記憶が蘇る、ですか」


「若い頃、山越えの道中で落としてしまったんです。谷底へ続く、古い坑道の中に」


 その一言で、依頼の毛色が変わった。ただの家探しではないらしい。


「坑道?」


「三十年前に閉鎖された、鉱山の跡です。今はもう、誰も立ち入らない場所だと聞いています。危険は承知の上です。それでも、もう一度だけ、あの頃の記憶に触れたくて」


 老いた人特有の、静かだけれど深いところにある切実さが、その声にはあった。


「そういうものは嫌いだ」


 ぽつりとそう言ったきり、アズラエルは窓の外に目をやった。いつもなら真っ先に報酬の話をするところなのに、今日は珍しく静かだった。


「嫌いって、坑道が?」


「……そういうものだ」


 理由は聞けなかった。口ぶりだけなら嫌がっているはずなのに、依頼そのものを断ろうとも、渋ろうともしなかった。彼にしては珍しいことだった。何かに触れかけて、そっと手を引いたような、そんな沈黙だった。


 ◇


 坑道までは、街から半日ほどの道のりだった。山道を登りながら、紳士は少しずつ、自分の暮らしについて語った。


「子どもたちはとうに独立しましてね。今は一人で暮らしています」


 その言葉には、諦めとも寂しさとも取れる響きがあった。


 坑道の入り口は、山肌に開いた黒い穴だった。錆びついた案内板に「立入禁止」と辛うじて読み取れる。ランタンを掲げて中に入ると、ひんやりとした空気と、かび臭い匂いが押し寄せてきた。紳士はここで待つことになった。危険な場所に、素人を連れて行くわけにはいかない。


「足元、崩れやすくなっている。転んで死なれても後味が悪い。我の後ろを歩け」


 つれない言い方だったが、それが彼なりの気遣いだということは、もう分かっていた。アズラエルの声が、いつもより低く張り詰めていた。言われた通りについていくと、確かに、床のあちこちに深い亀裂が走っている。


 天井を支える坑木の一本が、黒く変色しているのに気づいた。長年、古い遺構を渡り歩いてきた勘が、そこだけは触れるなと告げている。


「その柱、近づかない方がいいわ。腐食が進んでる」


「素人の勘に従えというのか」


「嫌なら好きにすれば。私はこっちを通るから」


「……お前が言うなら、避けてやらんこともない」


 結局、アズラエルは私の指した道を選んだ。渋々ながらも従うところが、なんとなく彼らしかった。


「あなた、こういう場所に詳しいのね」


「黙って歩け」


 そっけない返事だったが、その足取りに迷いはなかった。


 しばらく進むと、行く手を岩の崩落が塞いでいた。


「これ、通れないんじゃ……」


「隙間がある。我のこの華奢な体躯なら、造作もなく通れそうだ。先に確かめてくる」


「き、華奢⋯?」


 得意げな言い草だったが、確かに毛糸でできた彼の体は、中身が詰まっていない分、人間の私よりよほど小回りが利きそうだった。


 アズラエルは崩落した岩の隙間を器用にすり抜け、向こう側の様子を確かめてから、こちらに合図を送った。狭い隙間を、荷物を先に押し込みながら、体をよじって通り抜ける。埃と冷たい岩肌の感触に、思わず息を止めた。


「見つけた」


 崩落の先、小さな窪みに、色褪せた青いマフラーが引っかかっていた。三十年間、誰にも見つけられずに、そこで待っていたのだ。手に取ると、思っていたよりずっと軽い。私自身には、特に何の感覚も湧いてこなかった。この温もりは、きっと持ち主本人の記憶に応えるものであって、無関係な誰かが触れたところで、何も呼び覚ますものではないのだろう。それでも、その軽さの中に、確かに誰かの想いが編み込まれているような気がした。


 ◇


 マフラーを鞄にしまい、指先に古い布の感触が伝わってきた。慎重に、来た道を戻る。


 依頼人にマフラーを渡すと、紳士はそれを受け取り、そっと頬に当てた。しばらく目を閉じていた。私も、なんとなく息を潜めて見守った。


「……ああ」


 それだけ言って、静かに笑った。


「思い出しました。……そうだ、これをもらった日でした。何でもない日でしたよ。ただ、二人で歩いただけの」


 大した記憶ではなかった、と紳士は言った。それでも、その何でもない記憶のために、崩落の危険がある坑道の奥まで、人を送り込む決断をしたのだ。人の心というのは、こんなにも些細なものを、こんなにも長く抱えていられるものなのか。胸の奥が、じんわりと温かくなった。


「会いに行かれないんですか?」


 私が尋ねると、紳士は困ったように笑った。


「怖いんですよ。今のあの人を知ってしまうのが」


 それ以上は、聞かないことにした。踏み込んでいい場所と、そうでない場所がある。それくらいは、この仕事を続けているうちに分かるようになった。


 ◇


 アズラエルの方を見ると、マフラーから視線をそらしたまま、部屋の隅に立っていた。ふと悪戯心が湧いて、声をかけてみる。


「あなたも触ってみる? 何か思い出すかもよ」


「触らん」


 食い気味の返事に、思わず笑ってしまった。


「そんなに嫌?」


「くだらんものに触れる趣味はない」


 いつもの憎まれ口だ。それなのに、どこか、いつもより硬い声に聞こえた。笑いかけていた口元が、なんとなく元に戻らなくなる。もしかしたら、この毛玉にも、触れたくない記憶というものがあるのかもしれない。そう思うと、不思議な気分になった。


 ◇


 依頼料を受け取り、紳士と別れる。夕暮れの道を歩きながら、ふと尋ねてみた。


「さっきの坑道、随分と手際が良かったけど。慣れてるの?」


「昔、似たような場所に用があった」


「昔って?」


「知らん」


 いつも通り、話をそらされてしまった。仕方なく、次の依頼先へ向かう足を速める。隣を歩くアズラエルの横顔を、もう一度だけ盗み見た。相変わらず、何を考えているのか分からない顔をしている。


 ――そういうものは嫌いだ。


 事務所を出る前に聞いた、あの一言だけが、なぜか耳の奥に残っていた。

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