第1章 世界に一つだけの編み図
朝、事務所の扉を開けると、昨夜編みかけのまま放り出していた毛糸玉が、机の上で行儀よく私を待っていた。今日はあれの続きをやろう、と思いながら椅子に腰を下ろす。窓から差し込む午後の光は、埃っぽい空気の中で細い筋になって揺れていた。こういう静かな時間が、この仕事の中では意外と少ない。
依頼人がやってくるまでの間、カップに紅茶を注ぎ、隣のテーブルに置かれた果物籠から林檎を一つ取って齧った。その途端、当然のようにアズラエルが片目を開ける。
「それを寄越せ」
「まだ何も言ってないのに」
「匂いで分かる」
「鼻だけは無駄に良いのね」
「無駄とは何だ。三百年鍛えた鼻を舐めるな」
呆れながらも半分に割って渡すと、彼は満足げに受け取った。こんなやり取りも、もう何度目だろうか。
「次からは、あなたの分は自分で採ってきてよ」
「我に果物屋へ赴けと? 高貴なる者は、労せずして望むものを得るのが道理であろう」
「その道理、誰が決めたのよ」
「我が決めた。今、この場で」
呆れて言葉も出なかった。それでも、次の依頼までには、また新しい林檎を買いに行かされるのだろう。
扉が控えめに叩かれたのは、それからすぐのことだった。
「一目しか編めない、伝説の編み図があるんだよ」
依頼人の老婆は、皺だらけの手を大きく広げながらそう言った。
「一目、ですか……?」
編み針をひと目だけ動かして完成する図案など、聞いたことがない。首をかしげると、老婆は得意げに頷いた。しわがれた指先が、見えない編み針をなぞるように、宙で小さく円を描く。
「そうそう。おばあちゃんのそのまたおばあちゃんの代から伝わる話でねえ。とてつもない編み図で、世界に一つしかないんだって」
話しているうちに、「一目」なのか「一つ」なのか、本人もよく分かっていないらしいことが伝わってきた。まあ、いつものことだ。私はカップを両手で包みながら、老婆の話にゆっくりと相槌を打った。こういう依頼人の話は、急かさずに聞いてやるのがコツだ。焦って本題に入ろうとすると、かえって話が余計にこんがらがる。
「果物を寄越せ。高級品でなければ食わん」
横から口を挟んだのは、テーブルの隅に座ったアズラエルだった。丸い体を心持ち反らせて、いかにも尊大な態度で言い放つ。
「さっき林檎あげたばかりでしょ」
「あれは林檎だ。果物と言ったら別の話だ」
「まだ依頼も始まってないんだけど」
「腹が減っては、話も聞けん」
理屈になっているようで、なっていない。老婆はそんなアズラエルを気にする様子もなく、「可愛い毛玉ちゃんだこと」と目を細めている。アズラエルは心外そうに鼻を鳴らしたが、それ以上食い下がりはしなかった。本気で拗ねているというより、ひとまず言いたいことは言った、という程度の様子だった。
◇
編み図は、老婆が若い頃に住んでいたという空き家に眠っているらしい。街の外れへ向かう道すがら、老婆の話はどんどん大きくなっていった。
「その編み図でショールを編むとねえ、どんな願いも叶うんだって」
「さっきはそんな話、してませんでしたよね」
「あら、言ってなかったかしら。それとね、編んでいる間、決して振り返ってはいけないんだって」
「振り返り禁止の話、初耳です」
老婆は「そうだったかしらねえ」と、まったく悪びれずに笑った。この調子だと、空き家に着く頃には、伝説の編み図が国を救った話にでもなっていそうだ。杖が石畳を打つ、こつん、こつん、という音だけが、律儀に一定のリズムを刻んでいる。
途中、市場の脇を通りかかると、老婆が急に足を止めた。
「ちょっと、あそこの店で果物を見ていっていいかい。孫に土産を買いたくてねえ」
寄り道を許すと、老婆は嬉々として露店の間を歩き回った。日陰でそれを待ちながら、隣に座り込んだアズラエルに視線を落とす。
「あなた、本当に果物のことしか考えてないの?」
「他に何を考える必要がある」
「もう少し、依頼のこととか」
「依頼なら聞いている。伝説だの願いだの、話半分に聞いておけばいい」
やけに実際的な返事だった。長年こういう仕事をしていると、話のどこまでが真実で、どこからが誇張なのか、勘が働くようになるものらしい。
◇
空き家は、想像していたよりずっと小さな平屋だった。玄関の扉を開けると、埃と湿った木の匂いが押し寄せてきて、思わず顔をしかめる。差し込む光の中で、細かな塵がゆっくりと渦を巻いていた。
棚という棚を探しても、それらしいものは見つからない。引き出しの奥、古びた壺の中、隙間という隙間に手を入れてみるが、出てくるのは埃と、小さな蜘蛛の死骸ばかりだった。手のひらがすっかり黒くなって、私はうんざりしてため息をついた。
「何もないですね……」
肩を落とす私の横で、アズラエルが床の一点を見つめていた。
「そこの床板だ」
「え?」
指し示された場所を見ても、他の床板と何が違うのか、さっぱり分からなかった。半信半疑のまま板を剥がしてみると、小さな空洞が現れる。中には、色褪せた紙切れが一枚、丁寧に折りたたまれて収められていた。思わず、あ、と声が漏れる。
「……なんで分かったの?」
「古い家では、物を隠す場所など限られている。子供でも見当がつく」
「じゃあ最初からそう言ってよ」
「我はお前の助手ではない」
「助手はあなたの方でしょう、普段の態度からして」
「主従が逆だと思ったことは一度もない」
減らず口だ。それでも、見つけたのは間違いなくこの毛玉だった。埃を被った紙切れを、そっと両手で持ち上げる。
紙質は、羊皮紙よりも柔らかく、繊維の織りが粗い。この手の紙は、少なくとも五十年は経っていないと出ない色の褪せ方をする――これまで数えきれない古物を扱ってきた経験が、そう教えてくれた。これだけ年数の経った紙は、たいてい脆くなっている。下手に力を入れれば、そのまま崩れてしまいかねない。そう判断して、紙を開く指先を、いつもより慎重に動かした。
そこにあったのは、見たこともない編み方の記号が並んだ、小さな試し編みの図案だった。
◇
「これは……試し編みの覚え書きですね」
図案をよく見ると、隅に小さく編み手の名前らしき文字がある。かすれてほとんど読めないが、几帳面な筆跡だった。
腕のいい編み手が思いつきで考えた、その場限りの編み方だったのだろう。同じものをもう一度編む必要もなかったのかもしれない。だからこそ、残ったのはこの一枚だけだった。
「世界に一つしかない」という話も、あながち間違いではない。ただ、それは特別な力を持っているからではなく、単に同じものがもう残っていないという意味だった。なんだ、そういうことか。拍子抜けするような、それでいてどこか腑に落ちるような、妙な感じがした。
「願いを叶える力なんて、なさそうですね」
老婆に正直に伝える。がっかりさせてしまうだろうか、と少し身構えたけれど、彼女はしみじみと頷いた。皺の寄った目元が、じんわりと和らぐ。
「なんだ、そういうことだったのかい。でも、世界に一つというのは、本当だったんだねえ」
手の中の紙切れを、老婆は両手でそっと包み込んだ。その仕草を見ていたら、こちらの喉の奥が、なぜだか少しだけ熱くなった。
「昔、祖母がこの話を私にしてくれたときね、目を輝かせて話すもんだから、私もすっかり信じ込んでねえ。孫の顔を見るたびに、この話をしてやろうと思っていたんだよ」
「じゃあ、願いを叶える力がなくても、良かったんですか?」
「良かったんだよ。ちゃんと世界に一つだって、確かめられたんだから」
老婆はそう言って、また笑った。伝説の中身よりも、それを信じてきた時間の方が、きっと大切だったのだろう。
◇
「では、依頼料なんだけど……」
老婆が財布を覗き込みながら、少し渋い顔をする。
「思っていたより地味な話だったし、まけてもらえないかねえ」
「生きたぬいぐるみには、餌代がかかる」
アズラエルが横から、自分を売り込むように言った。真顔でそんなことを言うので、こっちが恥ずかしくなる。
「誰が生きたぬいぐるみよ」
「では何だと言うんだ。動く毛糸玉か」
「せめて相棒って言ってよ」
「対等な相棒だなどと、片腹痛いことを言う」
結局、老婆は笑いながら当初の額を払ってくれた。空き家を出ると、傾き始めた日差しが、通りに長い影を落としている。私は詰めていた息を、ようやく吐き出した。
「これで高級果物が買えるな」
「あなたのせいで、依頼料のほとんどが果物代になるんだけど」
「文句を言うな。役に立っただろう」
言い返す言葉が見つからず、黙って肩をすくめた。悔しいけれど、その通りなのだから仕方ない。
帰り道、市場に寄って果物を買った。アズラエルは選び抜いた末に、一番大きな桃を選んだ。値段を見て私が渋い顔をすると、彼は素知らぬ顔で桃を抱え込んだ。
次の依頼へ向かう道すがら、ふと、老婆の「一目しか編めない」という言い間違いを思い出して、少しだけ笑った。夕暮れの街並みが、いつも通り、そこにあった。




