第3章 毛玉の悪魔を知る男
「村に伝わる古い石板を、調べてもらえないだろうか」
依頼人は、辺境の村の顔役だという初老の男だった。柔らかな物腰で、机の上に古い地図を広げる。地図の端は擦り切れ、何度も広げ直された跡が見て取れた。
「石板、ですか」
「村の外れに、いつからあるのか分からない石板があってな。近頃、若い連中が『何か書かれているらしいが読めない』と騒いでいてね。せっかくだから、ちゃんと記録に残しておきたいんだ」
「危険なものではないんですね」
「ああ、そういう類のものじゃない。ただ古いだけだ。だが、村の歴史に関わることかもしれないから、粗末には扱いたくなくてね」
危険な依頼でも、争いを伴う依頼でもない。ただ、古いものを調べて、記録するだけの、静かな仕事らしかった。こういう依頼も、たまにはあってもいい。
「面白そうな話だ」
アズラエルが、珍しく前のめりな様子を見せた。
「あなたが乗り気なんて、珍しいわね」
「古いものは、嫌いではない」
それだけ言うと、アズラエルはさっさと支度を始めた。理由らしい理由もなく、いつもより機嫌が良さそうに見える。
「何よ、その顔」
私がそう言うと、アズラエルは片眉を上げた。
「いつもは『面倒だ』の一言で終わるのに、って思って」
「調子に乗るな」
そっけない返事だったが、その口ぶりには、いつもの棘がなかった。
◇
村までは、馬車で半日ほどの道のりだった。窓の外を流れる景色は、これまで訪れたどこよりも穏やかだった。畑が広がり、小さな川が流れ、遠くに見える山並みが、絵に描いたように美しい。
「こんなに静かな依頼、久しぶりね」
「静かすぎるのも、それはそれで退屈なものだ」
「私は、悪くないと思うけど」
アズラエルは何も答えず、窓の外を眺めていた。その横顔は、いつもよりどこか穏やかに見えた。
石板は、村外れの小さな丘の上、苔むした木々に囲まれてひっそりと佇んでいた。表面には、風化した文字と、簡単な絵らしきものが刻まれている。指でなぞってみても、輪郭がぼやけていて、すぐには読み取れなかった。
ふと、彫られた線の一つに指先が触れた瞬間、ひやりとしているはずの石が、そこだけ妙に温かい気がした。慌てて手を引っ込める。
「……どうした」
「今、変な感じがして。石なのに、あったかいっていうか」
アズラエルが眉をひそめ、私の指先が触れていた箇所を覗き込んだ。しばらく無言で見つめていたが、やがて「気のせいだろう」とだけ言った。それにしては、彼自身もその場所から目を離さなかった。
「……ずいぶん古そうね」
「見る角度を変えてみろ。屈んだり、横から覗いたりすれば、彫りの深さで、影の出方が違って見えるはずだ」
アズラエルの助言通り、しゃがんだり、横から覗き込んだりしながら観察すると、確かに文字の輪郭が浮かび上がってきた。古い文字と、簡単な図。何かの記録らしい。日が傾くにつれて、光の差し込む角度も変わっていき、隠れていた線が少しずつ姿を現していくのは、不思議な感覚だった。
「これ、村の始まりについての記述みたいね」
書き写していると、案内してくれた村の老人が、懐かしそうに目を細めた。
「その石板にはね、面白い言い伝えもあるんだよ」
「言い伝え、ですか」
老人は、ちらりとアズラエルの方に目をやり、可笑しそうに笑った。
「昔、この辺りには毛玉の悪魔が現れた、という話でね。……いや、あんたの連れを見て、思い出しただけだよ。まさか本物じゃあるまいし」
思わず手を止めた。
「毛玉の悪魔?」
「世界を滅ぼしかけた恐ろしい悪魔が、毛玉の姿に封じられた、という言い伝えだよ。もっとも、悪魔は一匹ではなかった、なんて話も聞いたことがあるがね。真偽のほどは知らんよ」
思わずアズラエルを見た。彼は素知らぬ顔で、石板の文字を書き写す作業を続けている。あまりに自然な仕草だったので、聞き流してしまいそうになった。
「くだらん話だ」
「あなたのことじゃないの?」
「毛玉なんぞ、どこにでもいるだろう」
出会った日、アズラエル自身も似たようなことを言っていた。三百年封印されていた悪魔だ、と。あの時は、いかにも尊大なこの毛玉らしい、話を盛った自己紹介だろうと聞き流していた。でも、赤の他人の口から同じ話が出てくるとなると、話は違ってくる。
「その話、詳しく聞かせてもらえますか?」
「詳しくと言われてもね、私も祖父から聞いた話でしかないんだよ。祖父はよく、日の出のすぐ後に、この丘に登っていたねえ。『この時間でないと、石板は本当の顔を見せてくれない』とか何とか、よく分からないことを言っていたよ」
その一言に、手を止めた。
「日の出の後……」
見比べると、今、写し取っている図は、西日に照らされた影から浮かび上がったものだ。太陽の位置が変われば、影の出方も逆になる。彫りの浅い部分と深い部分、光の当たる向きによって、まったく違う線が浮かび上がってもおかしくない。
「私たちが今見ているのは、もしかしたら、絵の半分でしかないのかも」
アズラエルが、ちらりとこちらを見た。何も言わなかったが、その視線には、続きを促すような色があった。
◇
「今日はここまでにしましょう。日の出の頃、もう一度来ます」
私がそう言うと、老人は驚いた顔をした。
「わざわざ、また朝に?」
「拓本さえ取っておけば、多分――」
言いかけて、はたと気づいた。拓本は、光の当たり方に関係なく、彫られた線の凹凸を、そのまま紙に写し取る。つまり、今この場で拓本さえ完成させてしまえば、朝日の下でどう見えるかを、頭の中で組み立て直すこともできるはずだった。
老人が用意してくれた拓本用の紙を広げ、石板の表面に丁寧に押し当てる。木炭でこすり出すと、彫りの深さの違いが、濃淡となって浮かび上がってきた。
「随分、手際がいいんだね」
老人が感心したように言った。
「昔から、こういう作業は嫌いじゃないので」
拓本を取り終える頃には、辺りはすっかり夕暮れの色に染まっていた。拓本を広げ、木炭の濃淡を、光の向きが逆になった場合を想像しながら、じっと見つめた。
深く彫られた線は、西日でも東の朝日でも、同じように影を作る。でも、浅く彫られた線は違う。西日では影に沈んで見えなかった部分が、朝日なら逆に浮かび上がるはずだ。
拓本の中で、これまで気に留めていなかった、ごく浅い線の群れに気づいた。さっきまで「村を見守る姿」だと思っていた図形――よく見ると、それは一つの大きな影が、二つの丸いものを、両腕で包み込むように抱えている絵だった。
「これ……守ってるんじゃなくて、抱えてる、のかも」
呟くと、アズラエルが石板の方を見たまま、しばらく黙っていた。
「……そうかもしれんな」
いつもの取り合わない態度とは、少し違う声だった。
◇
「何の絵だと思う?」
尋ねると、アズラエルはしばらく黙って拓本を見つめていた。
「知らん」
「即答すぎない?」
「見て分からんものは分からん」
いつもの調子だったが、その横顔は、いつもよりほんの少しだけ、強張って見えた。私はそれ以上、何も聞かなかった。
すっかり暗くなる前に、老人に礼を言って、村を後にする。帰り際、老人が思い出したように付け加えた。
「そういえば、その毛玉の悪魔の話、村では『助けてくれた』という話も伝わっているんだよ。ただの災いだけの話じゃない、ってね」
その一言に、また足を止めた。悪魔なのか、恩人なのか。話を聞けば聞くほど、輪郭がぼやけていく。
「今日は、危ない目に遭わずに済んだわね」
馬車に揺られながら、アズラエルに言った。
「たまにはこういう仕事も悪くない」
「珍しく素直ね」
「聞かなかったことにしろ」
軽口を叩きながらも、さっき拓本の中に見つけた、あの絵を頭の中で何度も思い返していた。大きな影が、二つの丸いものを抱えている絵。偶然だろうか。それとも――。
◇
依頼料を受け取り、顔役と別れた。夕暮れの道を、馬車に揺られながら帰る。
「ねえ、さっきの話、少しは気にならないの?」
「暇な老人の与太話だ」
「食い気味に言うところが、逆に怪しいのよね」
「腹が減った」
いつもの調子で話をそらされる。私は小さくため息をついて、窓の外に目をやった。空はもう、藍色に沈み始めている。あの絵のことも、悪魔の噂のことも、しばらくは考えないでおこう。そう決めたはずなのに、馬車が街に着く頃には、結局また同じことを考えている自分がいた。




