Try n Dead 狂気系不条理ホラーゲームに転生させられたオレはゆるく死に急ぐ #188
セント・ミカエル・ラザフォード病院からの逃亡 #188
ピーターが両腕を二つに割って、マイケルへと攻勢に出た…同時に起こる、違う地点でのそれぞれ異なる事象。オレの身体は…視線は一方方向にしかない…どれかに注視するとほかが疎かになる…そのいい例……。
「はぁあああああぁあ」
ピーターが悠然とマイケルへと立ち向かった…まるでマイケルが邪悪で斃すべき悪であり、自身が世界の秩序を守る正義だといわんばかりに。その勢いにマイケルがよろめいた…どこからか聞こえた呻き声、吐息にも似た…異性の脳髄を麻痺させるような甘い声、それが確かに囁いた。
母親が立ち上がる、と……。
待合室との境界近く…蹲り身動きもせず、娘に守られていたような母親が起き上がった…何ごとも自分には起きていない、とでもいうように平然と、以前と…いや以前より、より奇麗で完璧な状態で。こんな姿にまでなったのはゲームでも見たことがない…怖気、否応なく感じさせられる、見下すような悪意。鳥肌が立つような感覚が身体中に纏わりつく…生命活動を担う身体も持ち合わせていないはずなのに……。
錆に似た色合いの古風なハイウェストのワンピース、金のブレスレットを右腕に、左の踝に赤いアンクレットが揺れる…なのに裸足。長い付け爪も全てルビーよりも深い赤、その色に合わせるように引かれた口紅の色も真紅、顎を軽く上げ、確かに息を吐いた母親は、ものおく気怠そうに辺りを見直し…こちらに気がつくと首から身体全体を、モデルがランウェイ先で戻るときに行うような優雅さで振り返り、口の端を歪ませるように持ち上げて、見据えた。ストレートの淡い金髪が緩い風に吹かれるように揺れ、額の下、流れるように下した前髪の奥の、娘に似たエメラルドグリーンに金の瞳が人の真意を射抜くように…なぜかオレを見て、嘲笑した。声はない、出してはいない…だが、確実に、愚か者を見下す笑い方で嘲った。まるでこんな事態になったのは全て、お前が愚かなせいだ、とでもいうように。
いや…そうなんだろうな、その言いがかりはすべて受け入れよう。
その声と母親の姿を感じたピーターが恐慌状態に陥ったとでもいうように、インパクトドライバーが金属に穴を開けるような響く音で、悲鳴を上げた…めちゃくちゃに腕を振るう、駄々をこねる子供のように。母親が立ち上がり、こちらへと向くのに同調して、娘を拘束していた何かの制限が解放され…母親の真似をする幼い子供のように、こちらへと無関心を装いつつ顔を向け…直後、オレの背後に現れて、オレを屠ろうと腕を振るった。マイケルに、ではない。オレを通り抜けた光の帯は、なんの抵抗もなくきれいにマイケルを切断し、その向こうにいたピーターの両腕さえも切り落とし…マジで切り伏せられたかと焦った。次の瞬間、少女は母親の側へと、そのスカートの裾も髪の毛も揺らめかせることもなく、舞い戻り、明らかに驚いたような無表情を顔に浮かべた…混乱するように。
マイケルの身体が崩れるようにズレ落ちて…鐘が鳴り響いた。床でへばったマイケルの腕が、何かをつかみ取ろうと伸びる…まだ息がある? もともと息はしてねえか…だが動いた。本当にバケモノになったのか、あるいは死後硬直がそう見えさせたか…そっちであることを願う。誰に? いまこの世界に碌な神様はいない。
連続して鳴り響く鐘の音…鐘の音はひとつではなかった。以前と違い…ふたつの鐘が続けて鳴る…鳴りはじめ途切れる和音の共鳴……。
遠くからとも、すぐそこからとも、よく分からない距離間で鐘が鳴る。ノルドラのカリヨンが、それ以降の残りの鐘が全てないというように、不自然に2回で途切れ…時間が停止した。確かにそれは起こった…ただ、止まったのはピーターだけ。残りは普通に不変に…ジュディも除いてか、オレも…マイケルも、母親も少女もその被害を受けなかった。後ろへとのけぞった姿勢のまま、停止したピーターの片方の腕が、その足元、指先を床につけた直立に近い状態で中空で止まっていた。どういう理屈? さっぱりわからない……。
鐘に続いて…静かに扉が開いた。まるで扉が開いたのを教えるように、待合室の柱にある突起に明かりが点いた…背景の明るいテクスチャーに紛れ込まないように灯る、ガスの炎…狂信者が留められていた柱の棘。そのひとつひとつ、異なる形状の囲いの中、青い火が、ひとつひとつ、灯って行き…待合室を淡く浮き立たせた。
炎の色合い…燭台に灯す蝋燭の炎にそっくりだ……。
待合室、いまだその部屋の空中に置かれたままの椅子の斜め後ろ、両開きの扉が向こう側へと開いていた…植物園の温室へと入る扉が来場者を迎えるように。待合室内はいまだ以前の…床に穴が開き、奈落ができたまま…鐘の音に気づいた母娘が互いの意思を確かめるように見つめ合い…唐突に、気に入らないとでもいうように、母親が娘の頬を平手打ちした。伸ばした輪ゴムが柔らかい皮膚を叩くような音。なにをしても傷つかないはずの少女の頬に赤い痕が残り…母親はそんな娘を無視して、無造作に、足元に穴が開いているはずの待合室へと入って行った…落下しない。ワンピースの背中が大きく開き、滑らかな扇情的な肌を見せて母親が、待合室と廊下との間にあるはずの境界を何の抵抗も受けずに入り、大きく深層へと穴の開いた足元を、床があるかのように、何食わぬ顔で普通に、歩いて行った。光溢れる扉の向こうへと消えていく…扉を出る直前、その母親の後をついて行った少女がこちらを振り返り…オレを無表情な感情で見据えて……。
音もなく閉まる扉…魔法陣も依然としてそこに、床に書かれているというように浮いたまま…耳鳴りがするような静寂が訪れた。中庭の向こう側、明るい光に満ちた約束の地、というような表現をするテクスチャーが扉が閉まると同時に喪失し…墨を立ち入れたような黒より暗い黒へと、照明が落ちたように広がった。待合室内、青い炎に照らされた椅子と魔法陣が淡く浮かぶ。
「うぐわああああああ……」
ピーターが腕を切り落とされた痛みに蠢き…停止時間の終わりを告げた。床に落ちた腕が、べしゃり、と嫌な音を立てて横たわった……。




