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そのドアのないアーチ状の入り口をくぐり、頭上を仰ぎ見た。
一階部分が吹き抜けのようになっているのに対し、二、三階部分は展望スペースが設けられていた。四角い壁面に沿って螺旋のような階段が伸びている。
「うっは、久々に来たネ! 相変わらず蜘蛛の巣が張ってるヨ!」
「ツーちゃん……待ってぇ。そんなに早く。登れないわ……」
袴が足取りを妨げぬよう両手でたくし上げ、一歩ずつ踏み締めるように階段を上がる御眠が、矢羽根模様の胸元を上下させながら声を絞り出す。
「へばるの早いんだよ。威勢がいいのは口だけかこの女」
「大丈夫ですか、御眠さん。無理することはないですよ。ゆっくり上がりましょう。ほら、しっかり手摺りに掴まって」
「ありがとう。ハクヤくん。やっぱり。気遣いができるかは。毛量に比例するのかしらね」
「なに、お前カツラってこと?」
「聞こえちゃったヨ! ハゲ、ついにカツラ買うアルカー?」
「そこだけ切り取って聴いてんじゃねえッ‼︎」
階段の上と下で野次が飛び交うなか、ようやく全員が三階の展望デッキに到着する。
中央に設置された木製の長机とベンチ。
しっかりとした構造を支える、何本もの太い柱と梁。
展望デッキをぐるりと囲む堅牢な造りの欄干の一箇所へと歩み寄り、柏矢は手摺りに手を掛けて北アルプスに面する景色を一望した。
「へぇ、絶景だなこれは……」
見渡す限り、雲海が広がっていた。
標高九三三メートルの長峰山の頂上から見下ろす先はたかだか八〇〇メートルかそこらであるが、そんな高さにも雲ができるためには、いくつかの条件が揃う必要がある。
まず、前提としてその土地に山に谷、盆地があること。
安曇野は、この地理的条件をクリアしているといえよう。
次に天候面で、いくつかの条件が挙げられる。
一つ、湿気があること。これは雲を形成するために水蒸気が必要だから、納得だろう。
一つ、放射冷却などにより日夜の寒暖差が大きくなること。夜間に晴れて風がないと地上の熱が宇宙空間に逃げるため、地表が急激に冷やされ、先の条件にあった水蒸気が凝結する。
こうして、層雲の一種である雲海は形成されるのである。
「雲海なんて初めて見ましたよ。奥の方に北アルプスもあるし、綺麗だなあ」
「ツーちゃんもこの時期に見たのは初めてアル! これ絶対レアだヨ、ハーくんラッキーネ!」
「そこになんかモニュメントがあるみたいですが、あれは? 鎖みたいな形だけど」
「あれは『歴史の塔』アル」
三つの輪が、鎖のように互い違い噛み合い、天に向かって縦列した形の構造物。
展望台の目の前に建ったモニュメントは、およそ一〇メートルの高さがあり、土色の底部は過去、ワサビグリーンの真ん中は現在を、そして銀色の上部は未来を表すのだそうだ。
「明治一〇〇年」を記念して一九七一年に当時の明科町商工会が設置したものだというから、歴史の塔はもう半世紀はこの土地で安曇野の景色を見守っていたということになる。
はしゃぐ柏矢とツーちゃんだったが、残る二人の反応は対照的。
髪のない頭をぽりぽり掻くソンと、口元に両手を当てて「まあ」と驚く御眠が言葉を交わす。
「珍しいっつーか…………おかしくね⁇」
「そうねえ。この時期に雲海だなんて……」
「雲海が夏に見えるのは普通じゃないと、つまりこういうことですか?」
「本当はね。雲海は十か。十一月頃に見られるものなのよ?」
「季節もそうだが、今は真っ昼間で日も出てる。この気温で雲海が維持されるわけがないんだ」
柏矢たちが話す横で、危なっかしいほどに欄干から身を乗り出して浮いた脚をジタバタさせていたツーちゃんが、なにを見つけたのか「あっ!」と雲海の方を指差した。
指し示す先。
見やれば、そこには「赤い」なにか。
手摺りに両手を掛け、眼を凝らす。
黒い眼が捉えたのは、誰かが凧揚げでもしているのか、と思うような代物。
あまりに知っている。
あまりに定番の外貌。
白い袈裟に、一本歯の下駄を履き、その背中には猛禽類のような立派な翼があった。
赤い顔、太い眉毛。
極め付けに、長い鼻。
「天、狗……?」
誰もが脳裏に浮かべた単語を柏矢が発した、その直後。
一閃。
眼前で、歴史の塔の「未来」の鎖に鋭い断裂が走る。
斜めに切断されたモニュメントの上部が空を舞ったのは、ワサビ模様のチャイナドレスを纏った少女が、足掛けた手摺りを蹴って宙へと飛び出して、間もなくのことだった。
バキィンッ‼︎ と。
鋼が鋼を打ち返すような鋭い衝撃音が起こり、ツーちゃんが蹴り返した「斬撃」が雲海を裂いて消えていった。
急襲を迎撃した似非チャイナ娘。
彼女は、落下の直前に懐からお札を取り出し、自らの脚に貼りつける。
着地と同時に、衝撃を肩代わりしたお札が弾け飛ぶ。
「みんな、気をつけるヨロシ!」
空を舞う天狗を視界の中央に捉えたまま、ツーちゃんが叫ぶ。
「こいつはツーちゃんが鎮めるネッ‼︎」




