第1章:血に刻まれた呼び声
カーテンが窓から吹き込む風にゆっくりと揺れていた。
冬の冷たい空気が、小さなアパートの中へと流れ込んでくる。
淡い明かりに照らされたリビングは、ごくありふれた部屋だった。
ただ、何もかもが整いすぎているほどに整頓されていた。
壁際の棚には、さまざまな本が隙間なく並んでいる。
料理本から漫画まで、きっちりと揃えられていた。
反対側には小さな対面式のキッチンがあり、金属製の調理器具が風に揺らされ、小さな音を立てていた。
キッチンの脇を伸びる廊下は薄暗く、その先には半開きになった扉から明かりが漏れている。
そこからは湯気が立ち上り、水の流れる音だけが重苦しい静寂を破っていた。
狭い浴室では、一人の男がシャワーを浴びていた。
顔をシャワーヘッドへ向け、水を全身に浴びながら、ただ立ち尽くしている。
「ほんとになぁ……。
一日くらい平穏に過ごさせてくれてもいいだろ。
あいつ、どうしても余計なことをしないと気が済まないんだよ……。」
疲れ切った声で呟く。
彼は蛇口のハンドルを握り、さらにお湯のほうへ回した。
目を閉じると、心地よい温もりに身体が小さく震える。
「俺、何を間違えたんだろうな……。
欲張りすぎたのかもしれない。
でも……これが、本当に俺の人生なのか?
どうして、あんな選択を重ねてきたんだ……。
こんなところまで来るために……。 」
自問するように呟いた。
彼は口を開き、水をそのまま流し込む。
口いっぱいに溜め込み、やがて溢れ出した。
「グルルルルルル……」
数秒間うがいを続けると、床へ吐き出し、小さく笑った。
「たまには子供の頃に戻りたくなるよな。
何も考えず、何にでも文句を言ってさ。
何も知らないまま、ただ毎日を楽しんでた頃に。」
そう言って息をつく。
再び蛇口へ手を伸ばし、水を止める。
水滴だけが静かに落ち続け、浴室は再び静寂に包まれた。
数秒後、彼は軽く頭を振る。
「よし、ヴェイル。
しっかりしろ。
ここまで諦めずにやってきたんだ。
今さら折れるな。
やれるってことを、あいつらに見せてやれ。」
自分へ言い聞かせるように、力強く言った。
ボディタオルを手に取り、ボディソープをたっぷりとつける。
勢いよく身体を洗い始めるその動きには、前へ進もうとする意志が込められていた。
再びシャワーをひねると、水が肌へ勢いよく降り注ぐ。
泡は床へ流れ落ち、彼は身体を回して丁寧に洗い流していく。
洗い終えると再び水を止め、シャワーブースのガラス扉を開けた。
タオルへ手を伸ばした、その瞬間――
浴室の扉が勢いよく開いた。
突風が部屋中を吹き抜け、ヴェイルの身体を寒さで震わせる。
タオルはハンガーから滑り落ち、そのまま床へ落ちた。
「はぁ……マジかよ。
ほんと安物だな、このタオル掛け。
金属なんだから滑るくらい考えとけっての。」
苛立ったようにため息を漏らす。
彼は片足をバスマットへ乗せ、その足へ体重を預けながらもう片方の足を出す。
同時に身をかがめ、床へ落ちたタオルへ手を伸ばした。
その瞬間――
足元が滑った。
バスマットが勢いよく滑り、ヴェイルの身体は一気にバランスを崩す。
「くそっ、待て待て待て――っ!!」
叫び声が響く。
咄嗟に腕を振り、掴めるものを探す。
だが、その手が掴んだのは空気だけだった。
次の瞬間――
ゴッ――。
鈍い衝撃音が浴室に響く。
彼の頭は洗面台の角へ激しく叩きつけられた。
焼けつくような激痛が全身を駆け巡る。
そのまま重く鈍い音を立てて床へ倒れ込んだ。
冷たく濡れた床が肌を震わせる。
それなのに、頭からは奇妙な熱が広がっていく。
「な……なんだ……。
痛すぎる……。」
か細い声が漏れる。
激しい痛みに視界は霞み、呼吸も乱れていく。
手や腕を動かそうと力を込める。
しかし――
身体はまったく動かなかった。
瞼は勝手に閉じようとする。
冷たい床へ横たわる身体には、不思議な熱だけがゆっくりと染み込んでいった。
彼は必死に目を開く。
ぼやけた視界の中、白いタイルの上へ赤い染みがゆっくりと広がっていくのが見えた。
……眠い。
少し眠れば、それでいい。
そう思った。
声にすることさえできなかった。
再び目を閉じる。
頭の熱は少しずつ失われていき、代わりに全身を刺すような冷たさが広がっていく。
寒い……。
どうしてだ……。
帰りたい。
お願いだから……家に帰らせてくれ……。
心臓が激しく脈打ち、呼吸は途切れ途切れになっていく。
浴室には、太鼓を打ち鳴らすような鼓動だけが響いていた。
だが、どれほど足掻いても、すべては無駄だった。
やがて心臓は――止まった。
わずかに数度だけ脈が打つ。
そして、それも完全に途絶えた。
血に染まった冷たい床の上には、一つの亡骸だけが静かに横たわっていた。
すべてが沈黙に包まれる。
そして彼の魂は、その身体を離れ――
虚無の闇の中を彷徨っていった。




