プロローグ:世界の裂け目
風がゆっくりと吹き抜け、まるでその真実など世界には何の影響もないかのように、アリニアの髪を優しく揺らした。
ヴォーラクは、ヴェイルとアリニアが呆然と立ち尽くしている様子を見て、小さくせせら笑う。
「それがお前たちの限界か?
辺りを見渡してみろ。
仲間はどこへ行った?
本気でこの私に勝てるとでも思っているのか?」
見下すような声でそう言い放った。
アリニアはヴェイルへと顔を向けた。
彼は虚空を見つめたまま、何の反応も示さない。
彼女はそっと彼の手を握り、強く握りしめる。
「ヴェイル、あいつの言葉なんて聞かないで。
私たちはずっと一緒だったでしょう。
あの日、約束したじゃない。
私は一度だって、あなたの言葉を疑ったことなんてない。」
震える声でそう告げた。
ヴェイルはゆっくりと彼女へ顔を向ける。
瞳は涙で潤んでいた。
そしてアリニアの手を自分のほうへ引き寄せる。
不意を突かれたアリニアは、気づけばヴェイルの腕の中に抱き寄せられていた。
「分かってるよ、小さな狼。
俺も一度だって、お前を疑ったことはない。」
そう言って、彼は穏やかに微笑んだ。
ヴェイルはアリニアの手を離すと、両手をそっと彼女の頬へ添えた。
アリニアの知る、あの優しい眼差しのまま見つめてくる彼に、彼女は胸を撫で下ろした。
彼はゆっくりと顔を近づけ、その唇を彼女の唇へ重ねる。
時間さえ止まったかのような口づけの中で、アリニアの身体から力が抜けていった。
「だからこそ、お前をこれ以上進ませるわけにはいかない。
お前は俺の生きる理由なんだ、アリニア。
もう二度と、お前を失うわけにはいかない。」
優しさを宿しながらも、どこか冷たい声音で彼は続けた。
アリニアはその言葉の意味をすぐには理解できなかった。
しかし次の瞬間、ヴェイルの片手が彼女の腹部へと添えられる。
反応する間もなく、二人の間で突風が巻き起こり、彼女の身体は意思とは無関係にヴェイルから遠くへと吹き飛ばされた。
「何をしてるの、ヴェイル!
今すぐやめて!」
もがきながら叫ぶ。
だが、悲しみに染まったままのヴェイルの瞳は、さらに冷たさを帯びていた。
彼がアリニアを押し返していた手を鋭く振るう。
押し返す力が弱まったのを感じたアリニアは、その隙を逃すまいと身を乗り出す。
だが次の瞬間、さらに鋭く激しい突風が彼女を襲い、そのまま足をもつれさせて倒した。
衝撃で頭がくらくらする。
「許してくれ。
今回は、お前の思い通りにはさせられない。」
ヴェイルは小さく呟いた。
彼がもう片方の手を掲げると、風が渦を巻き始め、瞬く間に巨大なドームを形作る。
ヴェイルとヴォーラクだけを、その内側へ閉じ込めた。
アリニアは膝をつき、必死に前へ進もうとする。
だが両手がドームへ触れた瞬間、まるで透明な壁でもあるかのように、それ以上先へは進めなかった。
ヴェイルが意識を集中させると、アリニアの周囲の雪が一斉に溶け始める。
流れ出した水はドームへ吸い寄せられるように張り付き、厚い氷の殻を作り上げていった。
「何を企んでいるのか知らんが、あの娘は守れんぞ。
お前を殺した後は、次はあの娘の番だ。」
ヴォーラクは愉快そうに笑った。
ドームは透き通る水晶のような姿へと変わる。
あまりにも美しく、触れれば砕けてしまいそうなほど繊細に見えた。
しかしアリニアが何度殴りつけても、その表面には傷一つ付かなかった。
ヴェイルは剣を鞘へ収めると、結晶の短剣を取り出し、静かに見つめる。
過去の記憶が閃光のように脳裏を駆け巡った。
犯してきた過ち。
そして最後には失ってしまった、かけがえのないものすべて。
「頼む……。
もう一度だけでいい。
残っているものは全部差し出す。
だから……力を貸してくれ。」
低く静かな声でそう願う。
だが、返ってきたのは長い沈黙だけだった。
その願いは短剣へ届くことなく、刃は微かな輝きすら見せない。
その様子を見て、ヴォーラクはさらに高らかに笑った。
「自分がそれほど特別な存在だとでも思っていたのか?
お前は何者でもない、ヴェイル。
ただの人間だ。
壊される時を待つだけの、取るに足らん玩具にすぎん。」
唸るように言い放つ。
それでもヴェイルの視線は短剣から離れなかった。
だが、この瞬間でさえ何の反応も返さないその姿を前に、彼の最後の希望は静かに潰えていった。
すべては……この結末のためだったのか?
俺は結局、何もできないのか?
最後まで、アリニアを守ることすら――できないのか。
ヴェイルは短剣を強く握り締め、目を閉じる。
掌へ魔力を集中させると、それを途切れることなく短剣へ流し込み始めた。
「全部持っていけ。
残ってるものは、全部くれてやる。
だから頼む……何かしてくれ。
このまま終わらせないでくれ……。」
焦りと絶望を滲ませながら、彼は息を吐くように呟いた。
「いい加減、待たせすぎだ。
それしかできんのなら、もう待つつもりはない。」
ヴォーラクが低く唸る。
彼はゆっくりと目を閉じた。
その瞬間、周囲の空気が荒れ狂い、暴風となってあらゆるものを薙ぎ払う。
近くに立っていた木々は、その圧倒的な力に押し潰されるように砕け散った。
同時に、大地からは黒い瘴気がゆっくりと立ち昇り始める。
「神の力に限界などないということを、その身で思い知れ。
お前の瞳から命の光が消えていく、その瞬間を存分に味わわせてもらおう。」
そう言って、ヴォーラクは口元を歪めた。
彼の頭頂から角がゆっくりと生え始める。
その角には無数の亀裂が走り、その隙間から脈打つような赤い光が漏れ出していた。
やがて頭部も身体も変貌し、全身を覆う鎧のような外殻が形成されていく。
赤い輝きはその装甲の隙間を巡り、全身へと広がっていった。
空気は重く沈み込み、ヴェイルは息をすることさえ苦しくなる。
それでも彼は魔力を流し続け、ひたすら短剣へ注ぎ込んでいた。
ヴォーラクはゆっくりと目を開く。
鋭く冷たい眼差しがヴェイルを射抜く。
その瞳には、二人をここで終わらせるという確固たる意思が宿っていた。
「哀れなものだな。
今になっても、あいつらはお前を見捨てたままだ。
だが安心しろ。
あいつらも次に始末してやる。
今度こそ、誰もお前を助けには来ない。」
冷え切った声で言い放つ。
次の瞬間――空気が揺らぎ、影が景色を横切る。
ヴォーラクは一瞬でヴェイルの眼前へ現れていた。
その腕が振り上げられ、今にも振り下ろされようとした――その時だった。
――ゴォンッ!!
鈍く重い轟音が頭上から響き渡る。
ドームの頂点に、眩い青い光が凝縮されていた。
次の瞬間、その光を中心に無数の亀裂が走り、ドーム全体が森を照らすように輝き始める。
なおも氷を砕こうとしていたアリニアは、その衝撃で大きく後方へ吹き飛ばされた。
頂点に宿った青い輝きが激しく脈動する。
それと同時に、ヴェイルの手の中の短剣が震え始めた。
氷を透過して差し込むその光を、まるで貪るように吸収していく。
「なんだ……これは?
これ……俺がやったのか……?」
ヴェイルは戸惑いに満ちた声を漏らす。
だが、次の瞬間――
得体の知れない感覚が彼を包み込んだ。
全身から力が抜け落ちていく。
それとは逆に、薄い水の膜が彼の周囲へと静かに現れ始める。
そして――
ついに短剣が輝きを放った。
蒼い光が激しく脈打つ。
その光景に、ヴェイルはようやく反応を示した短剣を見て、わずかに笑みを浮かべた。
しかし、その直後だった。
焼けつくような激痛が全身を貫く。
短剣から放たれた蒼い輝きは皮膚へ染み込み、その奥へ潜り込みながら血脈を駆け巡っていく。
その光は全身へと広がり、水はまるで彼を包み込むように静かに肌へと寄り添っていった。




