第2章:虚無の眼差し
ヴェイルは浮かんでいた。
そこは、あらゆる理が通用しない空間。
無限で、圧倒的な虚無。
上も下もなく、方向も境界もない。
全てが静止しているようで、しかしどこかで微かな緊張が震えている。
ここには音も、動きも、常識すらも存在しなかった。
――絶対的な沈黙だけが、この場所を支配していた。
「ここは……どこだ? 俺……死んだのか?
でも……こんなの、俺の思ってた“無”とは違う……」
ヴェイルは、困惑した声で呟いた。
呼吸をしようとした。
だが、何かが違う。
温度も、重さも、空気も――全てが感じられない。
なのに、そこには確かに“圧”があった。
見えない何かが、確かに彼を“見ている”。
「なんだよ……誰かいるのか!? 返事をしろ!!」
ヴェイルは、声を震わせながら叫んだ。
その声は、空間に吸い込まれていくように歪み、引き延ばされて消えていった。
だが、その残響は頭の中にいつまでもこだまし、心をざわつかせる。
冷たい戦慄が背筋を駆け抜ける。
身体を動かそうとしたが、思うように動かない。
動いているはずなのに、感覚が伴わない。
まるで、自分の体が“影”にでもなったかのようだった。
「浮いてるのか……? いや、落ちてる?
……もういい、どうでもいい……ここから出たい……今すぐにだ……」
ヴェイルは、焦りを抑えながら言葉を吐き出した。
その瞬間、闇の中に光が差し込んだ。
最初はごくわずか――
やがて、それらはゆっくりと漂い始めた。
消えかけの星のように揺らめく小さな光が、いくつも、空間に浮かび始めた。
「おい! 誰かいるんだろ!? 返事しろ!!」
ヴェイルは必死に声を張り上げた。
だが、返答はなかった。
光たちは、まるで呼吸するかのように瞬きながら、ゆっくりと集まり始める。
やがて、それは円を描くように収束し、脈動を始めた。
銀と金――
二色の光が絡まり合い、奇妙な調和を生み出していた。
美しく、それでいて不安を煽る、異質な輝き。
「これは夢だ……そうだ、きっと夢だ……
でも……なんでこんなに“リアル”なんだ……?」
ヴェイルは、自分の思考にすがるように呟いた。
だが、その問いを思考する暇すら、彼には与えられなかった。
突如、目に見えぬ力が彼を捕らえた。
「なっ――!」
強制的に引き寄せられるように、彼の身体は闇の中を投げ飛ばされる。
胸が潰されるような圧迫感。
全宇宙が彼にのしかかっているような重さ。
「やめろっ! 離せっ!!」
ヴェイルは必死に叫ぶ。
落下――
それは突然に、そして容赦なく始まった。
顔を打つ風。
――いや、風に似た“何か”。
彼の身体は、光と風の渦に呑まれ、信じられない速度で引き込まれていく。
「やめろ……やめろぉおおおっ!!」
暗闇が、徐々に消えていく。
代わりに現れたのは――
青。深く、静かで、安心感すらある青。
その後に、眩しすぎるほどの白。
その光は、彼の目を突き刺した。
視界の端に、ぼんやりとした“地平”のようなものが現れたが、
それさえも、ぐにゃりと歪んでいた。
「夢じゃない……これは、現実だ……
“現実すぎる”……」
ヴェイルは、確信のように思った。
彼の足元には、底知れぬ虚無が広がっていた。
地面も、地平線もない。
あるのは、終わりなき奈落だけ。
そして、突然、濃い霧が立ち込め始めた。
それは生き物のように動き、形を変え、彼を包み込んでいく。
「どこかに……どこかに出口があるはずだ……!」
ヴェイルは震える声で叫んだ。
霧の中から、曖昧な形が現れた。
輪郭の定まらない、それでいて圧倒的な存在感を放つそれらは、
まるで彼を見つめているかのように動きを止めた。
《……あれは……俺を見てる……。
なんだ……何が目的なんだ……?》
ヴェイルは、胸の奥でざわつく不安を抑えきれなかった。
周囲に漂っていた光の粒が、さらに近づいてくる。
その輝きは強まり、もはや目を開けていられないほどに。
彼は思わず目を閉じたが、それでも逃れられない眩しさがあった。
「やめろっ!! 俺に何をさせたいんだ!!」
彼は、渾身の叫びを放った。
光たちが一つに収束し、爆発的な閃光を放った。
その瞬間――
凍えるような寒気が背筋を貫き、周囲のすべてが崩れ落ちるような感覚に襲われた。
再び、奈落へと落ちていく。
――だが、今度は違った。
すべてが止まった。
音も、光も、霧さえも消え去った。
闇が戻り、重くのしかかるような静寂が、空間を満たした。
「……俺は……まだ生きてるのか……?」
ヴェイルは、息を乱しながら、かすかに呟いた。
混乱と恐怖に支配されそうになったその時――
声が、響いた。
どこからともなく、しかし彼の内側に直接届くような、重厚で威厳ある声。
「なぜここにいる、定命の者よ?
何の権利があって、虚無の縁を踏みしめるのだ?」
それは、存在そのものが問いかけてくるような、魂に響く声だった。
ヴェイルの身体は自然と震え、彼は思わず天を仰ぐ。
「俺……? そんな……分からない……
ここに来たくて来たわけじゃない……
帰りたいんだ……ただ、家に帰りたいだけなんだ……」
ヴェイルは、必死に、震える声で訴えた。
その返答に、空間そのものが震えるような笑いが響いた。
「家に帰りたい……か。
だが、お前にとっての“始まり”は……ここからだ。」
その言葉と共に――
最後の閃光が世界を満たした。
全ての闇が光に飲み込まれ、
そして――
ヴェイルの身体は、光の渦に引き込まれていった。
どこか、未知の場所へ。




