【第四話 陽炎】
瀬川芽衣は、部屋着のまま家の近くの川沿いを歩いていた。
川面で跳ね返る朝の陽差しが、頬に残った涙の痕を、そっと浮かび上がらせていた。
少し前、蓮と喧嘩をして家を飛び出してきたのだ。
芽衣は歩く方向とは逆に流れる川を、ただ茫然と眺めていた。
昨日のことに今朝の喧嘩まで重なって、まだ気持ちの整理がついていなかった。
——9月3日、早朝。
カーテンの隙間から差し込む朝陽が、芽衣の顔を照らした。眩しさに小さく眉を顰め、それからゆっくりと目を覚ました。
昨夜、布団に入ってからも、蓮が本当に10年も売る必要があったのか、芽衣は考えていた。
リビングに出ると、部屋にはまだ微かに、昨日のカレーの匂いが残っていた。
芽衣はうっすらと腫れた目を擦りながら、ベランダの掃き出し窓を開けた。
室外機の上に置いてある如雨露を手に取り、キッチンで水を入れた。再びベランダへ戻り、ゆっくりとプランターの土を濡らしていく。
これは芽衣の日課だ。
今の時代、自動水やり機能が付いた物が一般的だが、父の影響でこうして自分で水をあげていた。
父が昔、「植物には“愛”を持って接してあげると立派に育つんだ」なんて言ってたのを、何故か今でも覚えている。
水をあげ終わり、洗面所で歯を磨いていると蓮が部屋から出てきた。
「おはよう」と言いながら洗面所の前を通り過ぎていく。その横顔が、いつもと少し違って見えた。
昨日は部屋が薄暗くて気付かなかったが、少しだけ老けたような気がする。
芽衣は歯を磨き終わると、リビングへ戻った。
蓮は姿見の前で、首を左右に動かしながら自分の顔を見ていた。芽衣は後ろから声をかけた。
「……お兄ちゃん、やっぱ老けたわ〜。
てか、身体の方は大丈夫?」
「うーん……ちょっと身体が重いかな。それと顔のむくみも気になる……」
そう言いながら蓮は自分の顔を、両拳でぐりぐりとマッサージした。
「そっか……と、とりあえず顔でも洗ったら?
……あ、私の化粧水使ってもいいよ?
その様子だと、そろそろお兄ちゃんも“お肌のケア”が必要じゃないですか〜?」
芽衣は戯けた口調で言った。
蓮は鏡越しに芽衣を見た。それから視線を鏡に戻し、両手で自分の頬を撫でた。
「んー……確かに。ちょっと突っ張ってるかも。じゃあ、借りるわ」
そう言って、洗面所へと向かって行った。
生体時間の売買——
ニュースではよく目にしていた。
「友達の友達の知り合い」が実際に売って大金を手にしたという噂なら、芽衣も聞いたことがあった。けれど、身近にそんな人は一人もいなかった。
それに、耳に入ってくるのは悪い噂ばかりだった。
いきなり大金を手にしたことで精神的におかしくなったり、人間不信になったり。あるいは、元の暮らしに戻れなくなったり——
もちろん、ちゃんと計画的にお金を使って成功した人の話もニュースでは紹介されていた。
蓮もちゃんと考えて決めたと言っていたが、芽衣の不安は消えなかった。
少しすると、蓮が両手で顔をぱちぱち叩きながら洗面所から戻ってきた。
「……そ、そういえば、お金はどうするの?」
芽衣は少し戸惑いながら聞いた。
「……ん、お金?いや、まぁ振り込まれてそのままだよ」
「へぇ〜、そっか」
「え、なんで?」
蓮はリビングの自分の席に腰掛けた。
眠そうに欠伸をしながら、両手を天井に上げて背を反らせた。
「え?いや——」
芽衣は言葉を詰まらせた。
「……お母さんの治療費を払っても、10年も売ればお金はまだ残るでしょ。何に使うのかなって……」
蓮が派手に豪遊したり、いかがわしいお店に通うような人間でないことは知っている。
それでも、大金を手にしたことで人が変わったというニュースが、どうしても頭から離れなかった。
「ああ、んー。まぁ、あれだ。
芽衣の行きたがってた専門学校の金……
俺が全部出してやるから。
フリーターなんか辞めて勉強しな」
「……え?」
芽衣は思わず顔を上げた。
「……専門学校のお金?」
「おう。芽衣、ずっと行きたがってただろ?」
「……うん。まぁ、そうだけど……」
嬉しくないわけじゃない。
けれど、蓮の顔を見たら、素直に喜ぶことができなかった。
「……い、いいよ。いらない」
「……え?いやいや。
入学金も授業料も、全部出せるんだぞ?」
「……うん。わかってる。でも……」
芽衣は少し言葉を詰まらせた。
「……ねぇ、お兄ちゃん。
私が学校に行くために、自分でお金貯めてるの知ってるよね?」
「そりゃあ、知ってるよ。だから無理してバイトなんかする必要ねぇって言ってんの」
そう言って、蓮は両手を頭の後ろで組み、背もたれに寄りかかった。
「……べつに無理なんか全然してないし」
「はっ、いや無理してんだろ。
朝早くから勉強して、バイト行って。
帰ってきてもまた勉強してさ——」
「だけど、嫌々バイトしてるわけじゃないから……自分で決めたことだし」
「……そっか。でも、まぁせっかく金はあるんだ。遠慮なんてすんなって」
(……遠慮?)
「……お兄ちゃん、私が何を言いたいかわかってる?」
「……はぁ?いや、だから——」
「だから、べつに頼んでないし……
私、頼んだ?
お兄ちゃんに、専門のお金出してほしいなんて、私一言も言ってないよね」
「いや、頼まれてないけどさ……
別にそんな言い方しなくてもよくね?」
「そんな言い方……?
そりゃ、そんな言い方にもなるよね?
お兄ちゃんは、生体時間を売ったことだって、私に何ひとつ相談もしてないよね?」
芽衣は、眉を寄せて蓮を睨んだ。
「家族のためなら、自分はどうでもいいの?」
芽衣は蓮の返事を待たずに続けた。
「勝手に売って……?勝手に老いて……?
挙げ句の果てには私のことも勝手に決めるの?」
「あ、いや別に勝手に決めたわけじゃねぇって……」
蓮は珍しくたじろぎ、視線を泳がせた。
「ただ、お前がずっとあの学校行きたがってたの知ってたし。俺が時間売れば、母さんのことも……全部解決すると思って」
「は……?解決ってなに?
……お兄ちゃんの10年を犠牲にして?
それで手に入れたお金を受け取るお母さんと私が、どんな気持ちになるか考えた?」
芽衣の声が次第に大きくなっていった。
「……お兄ちゃん、ニュース見てる?
あれで人間不信になるとか、おかしくなるとか……!今までみたいに暮らせなくなった人だっているんだよ?」
「いや、俺はちゃんと検査も——」
「検査がなに?ちゃんと検査するから大丈夫だとでも言いたいの?この先、絶対に何も起きないって言い切れる?」
「絶対にって……それは、売っても売らなくても言い切れないだろ?」
「そうやってまた屁理屈?そういうことじゃないでしょ!
お母さんを助けたいのは、私だって同じだよ。でも、もしお兄ちゃんに何かあったら……私たちはどうすればいいの?」
蓮は一瞬。口を開きかけたがすぐに閉じた。
「お兄ちゃんがしてることはね、優しさでもなんでもない……
……そんなの、ただの押し付けだよ!!」
言葉を吐き出した途端、涙が頬を伝った。
小さい頃から、いつも兄に守られてきた。
だが、もう20歳だ。自分のことは自分でなんとかしたかった。
「ちょ、待てよ、芽衣落ち着けって。
ニュースのやつは金に目が眩んだ奴等の話だろ?本当に、俺は大丈夫だって。それに親父の土地だって——」
「お兄ちゃんは何にもわかってない!
もういい、お兄ちゃんの話なんて聞きたくない」
蓮が何を言おうとしたのか、芽衣はそれ以上聞く気にはなれず、そのまま家を飛び出した。
——そして、今に至る。
芽衣は川沿いから逸れて、公園の日陰のベンチに腰掛けていた。
「あぁ……!もうなんなの……」
空を見上げて、大きくため息をついた。
(なんで、何でもかんでも勝手に決めるかな)
昨日、蓮はもう売らないと約束はしてくれた。
でも、それだけではやっぱり芽衣は納得できなかった。
「……ったく、お兄ちゃんは本当に何にもわかってない……!」
芽衣は地面に落ちていた小石を爪先で蹴飛ばした。転がった小石は少し先で何かにぶつかり、「キンッ」と甲高い音を立てた。芽衣が顔を上げると、高さの異なる錆び付いた鉄棒が三つ並んでいた。
ふと、芽衣は昔を思い出した。
鉄棒で逆上がりが出来なくて、近所でよく遊んでた友達数人に、からかわれたことがあった。
家に帰ってからそのことを家族に話すと、次の日、蓮は日が暮れるまで逆上がりの練習に付き合ってくれた。
『——できないよぉ、おにいちゃん……』
『大丈夫だ、芽衣!ちゃんと兄ちゃんが支えるから!』
『……そろそろ帰らないと、おとうさんにおこられちゃうよ?』
『んー、そうだなぁ。
じゃあ……俺が無理やり遊びに付き合わせたことにしよう!』
『それじゃあお兄ちゃんが怒られちゃうよ?』
『そんなこと気にすんなよー。芽衣が逆上がりできるようになるまで付き合ってやる!ほら、もう一回——』
懐かしい光景が薄れ、芽衣は目の前の鉄棒に視線を戻した。
「……ちょっと言い過ぎたかな」
そう呟いて、芽衣は膝を抱えた。
(……でも、お兄ちゃんが勝手するからいけないんじゃん)
ベンチに座ったまま、芽衣はしばらく地面を見つめていた。
「……とりあえず、お母さんの治療費はなんとかなるんだもんね……」
母が「特発性肺線維症」と診断されてから、もう3年になる。
最初は軽症だったが、少しずつ悪化し、今は検査のために入院している。
薬で進行を抑えることはできる。けど、根本的な治療には、iPS細胞を応用した肺再生医療が必要だという。
治療費は約3,000万円。
しかも、保険は適用されない。
そんな大金、すぐに用意できるわけがなかった。
しかし、父が遺してくれた土地があった。
小さな山の麓にある、自然豊かな場所だ。あの土地を売れば、治療費の半分くらいにはなるらしい。
以前、治療費について、蓮と二人で話し合ったことがあった。
蓮はもう社会人だったし、父の土地を売って、何年かお金を貯めて、足りない分は借金すればなんとかなると言っていた。
芽衣もフリーターを辞めて就職すれば、少しくらいは力になれると考えていた。
でも、母は自分の治療費のために父の土地を売ることを頑なに拒んだ。
あの土地には、父が叶えたかった夢があったのだ。
小さい頃から、父はいつも子供のように目を輝かせて夢を語っていた。
母がその夢を大切にしていることも、芽衣にはわかっていた。
それに、母から時々こんなことを言われていた。
「あなたはあなたの人生を考えて生きなさい。それが親として一番幸せなの」
芽衣は昔から、自然や植物が好きだった。
それも父の影響が大きかった。
大人になるにつれ、父と同じように、自然インフラの設計や生態系の管理に関わる仕事がしたいと思うようになった。
そのために専門学校へ通いたかったけど、当然お金がかかる。
だから、ちゃんと自分で稼いで、自分のお金で通おうと決めたのだ。
朝から勉強をして、バイトに行って、帰ってきたらまた勉強。
そんな毎日だった。
もちろん大変だし、疲れて何もしたくない日だってある。でも、少しずつでも夢に近づいている気がして、結構楽しかった。
別に、今の生活が嫌だったわけじゃない。
でも、蓮が犠牲にした10年を考えると、素直に喜べなかった。
(……お兄ちゃん、私がお父さんと同じ仕事を目指してるから、応援しようとしてくれたのかな)
そう考えると、少し嬉しくなった。
(……でも、10年も売ることないじゃん)
芽衣はベンチの背もたれに寄りかかった。
「……ただ、私がお兄ちゃんの優しさを素直に受け止められなかっただけなのかなぁ」
そう口にしてみたものの、やっぱり納得できないところもあった。
(でも、相談くらいしてくれたってよかったじゃん。家族なんだから)
「……私にも、言い方あったよね……」
芽衣はしばらくベンチに座っていたが、やがて立ち上がった。
「……謝るか〜」
芽衣は公園を出て、来た道を引き返した。
川沿いに戻ると、芽衣は向こう岸を眺めた。
川の向こうには、ガラス張りの高層住宅がいくつも立ち並び、建物の間には綺麗に整えられた緑地が見えた。
アスファルトから立ち昇る陽炎が、ビルの輪郭を淡く滲ませていた。
川を一本挟んだだけなのに、こちらとは住む世界がまるで違うように見えた。
しばらくして家に着くと、芽衣は玄関のドアをゆっくり開けた。
「……ただいま」
小さな声で言うと、リビングからいつも通り「おかえり」と蓮の返事が聞こえた。
廊下を抜けてリビングへ行くと、蓮がパンを齧りながらテレビを見ていた。
蓮と目が合うと、芽衣は少しだけ視線を落とした。
「……お兄ちゃん。ごめん、言い過ぎた」
少し間をあけて、蓮が言った。
「……なに、反抗期?」
蓮はいつもの調子で笑った。
「……もう! 茶化さないでよ!」
「ははっ。ごめんごめん。ほら、飯食えよ。まだパンあるぞ」
「……うーん。でも、お腹空いてないなぁ」
蓮の様子は、いつもと変わらなかった。
芽衣は少し安心した。
(……学費のことは、またちゃんと話せばいいや)
「そうだ、今日お母さんのところ行くんでしょ?」
「ああ。お前も行くんだろ?」
「うん。じゃあ、準備してくるね」
芽衣はそう言って、自分の部屋へと向かった。
——数時間後。
二人は母が入院している病院を訪れていた。
病棟の廊下を歩きながら、芽衣は隣を歩く蓮の横顔をちらりと見た。
(……お母さん、怒るだろうな)
そんなことを考えているうちに、病室の前に着いた。
蓮は芽衣を見ると、目配せをした。
先にお前が入れ、という合図だろう。
芽衣はコンコンとドアをノックした。
「お母さんー、入るよー?」
「はーい」
中から聞き慣れた声が返ってきた。
芽衣が扉を開けると、蓮もその後に続いた。
窓際のベッドに腰掛けていた小春が、2人に気付いて顔を上げた。
「あら、蓮も芽衣もわざわざありがとね」
お母さんは、いつものように笑っていた。
【あとがき用語解説|第4話「陽炎」】
■ 特発性肺線維症(IPF)
原因が明らかになっていない、進行性の肺疾患。
肺の組織が徐々に線維化して硬くなり、酸素を取り込む機能が低下していく。
現代医療では薬によって進行を抑えることはできるが、根本的な治療は難しいとされている。
■ iPS細胞応用肺再生医療
iPS細胞から作製した肺の細胞や組織を利用し、損傷した肺の機能回復を目指す再生医療。
2071年には臨床応用が実現しているが、高度な医療技術を必要とするため、保険適用外となっている。
作中における治療費は約3,000万円。




