【第五話 道導】
2038年7月23日。
結局——
衛はその日、田端以外の研究員たちに、研究所から離れることを伝えなかった。
もちろん、近いうちには伝えるつもりだ。
思い悩んだ末に決断を下し、田端に話した。それでも、まだ後ろ髪を引かれているのか、仲間たちに告げる気になれなかった。
衛が帰宅した頃、時刻は午後8時を回っていた。
玄関の扉を開けると、室内から冷えた空気が流れ、奥のキッチンから食器の触れ合う音が聞こえてきた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
香穂はキッチンからひょっこりと身を乗り出した。
その後ろから、エプロンで手を拭いながら1人の少女が慌てて姿を現した。
神城家に仕える使用人。17歳の高校生、峰岸薫だ。
「か、神城様、お帰りなさい」
薫は両手をお腹の前辺りに重ね、姿勢を正した。
「おお、薫ちゃん。ご苦労様」
薫は一礼して、再びキッチンに戻った。
「遅かったわね」
「ああ、記録を整理していたもんでな」
衛は靴を脱ぎながら、背中越しで返した。
「ふうん」
自室へ向かおうと衛が振り返ると、香穂と目が合った。
「どうした?」
「いや? べつに?」
香穂は首を傾げて両眉をひょいと上げた。
「貴方、そろそろ食事の支度ができますよ」
「うん?……ああ、ありがとう、すぐ行く」
衛は自室に入ると、テーブルに荷物を下ろした。
ふと、壁に飾られた一枚の写真に目が留まった。
白衣姿の衛と、兄の剛志が肩を並べて写っている。二人ともまだ若い。いつ撮った写真だったか、もう正確には思い出せない。
けれど、衛はこの写真の剛志の笑顔が好きだった。病院を継ぐべきか迷っていた頃、何度もこの写真を眺めた。もちろん、眺めても答えが返ってくるはずもない。
それでも写真の中の剛志は、昔と変わらぬ笑顔を浮かべていた。
衛がリビングへ行くと、薫が食卓に小鉢を並べていた。衛はいつもの席に腰掛けた。
香穂がキッチンから焼き魚を乗せた皿を持って現れた。
「さあ、衛さん。今日は貴方が好きな鮭の塩焼きよ」
「お、奥さま!配膳は私が——」
薫は慌てて香穂に駆け寄った。
「良いのよ、私もそろそろ年だから、たまには動かないとね」
香穂はそう言って皿を置くと、薫に優しく微笑み、衛の向かいの席に腰を下ろした。
薫は少し困ったように笑い、キッチンへ戻った。
しばらくすると、ご飯をよそった茶碗をお盆に載せて戻り、1つずつ丁寧に食卓に並べた。
「さあ、頂こうか」
「はい、頂きましょうか。薫ちゃんもさあ早く」
「あ、ありがとうございます。失礼します」
薫はエプロンを外し、席へ着いた。
3人は手を合わせて、食事を始めた。
衛は箸を取り、鮭の身をほぐして口へ運んだ。
「——んん、うまい」
「あら、よかった。今日は少し塩分控えめにしたのよ」
「そうか。絶妙な塩加減だ」
香穂は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「——そういえば薫ちゃん、明日は休みだね?
どこか出かけるのかい?」
「はい。明日は奥様とショッピングへ」
「ふふ、そうなの。私が行きたいって言ったら、薫ちゃんも付いてきてくれるって」
「そうなのか。休みの日まで香穂が世話になってすまないね」
薫は胸の前で小さく手を振った。
「いえいえ、とんでもないです!
私も行きたかったので、楽しみです」
「そうなのか?
香穂、あまりわがまま言っちゃいかんぞ」
衛がそう言うと、香穂と薫は目を合わせてニコッとした。
食事を終えると、いつものように薫が食器の片付けを始めた。
それを見て衛も席を立とうとしたところ、香穂に呼び止められた。
「ねえ、貴方」
「ん?」
「話すことがあるでしょう」
「ん? ああ、すまんすまん、そうだったな」
「浮かない顔ですね」
「そう見えるか?」
「ええ。顔に書いてますよ。
“研究所から離れたくない”って」
「……違う、と言えば嘘になるな。
だが、兄さんが守ってきた病院だ。私の代でそう簡単に他人へ任せるわけにもいかん」
「衛大に任せる気はないの?」
衛大は、衛と香穂の一人息子で、彼もまた医師だった。
「いずれそうしたいが、まだ早いだろう。
それにあいつは来年には結婚も控えている。
今すぐ背負わせるわけにはいかんよ」
「まあ、そうねぇ……」
香穂は少し間を置いて衛に尋ねた。
「でも、貴方。研究の方はいいの?」
「ああ。私の方は病院の経営をしながら、できる限り皆を支えていこうと考えてる」
衛はそうは答えたものの、真っ直ぐに見つめてくる香穂を前に、本音を隠しきれなかった。
「……気がかりではあるさ。
我々は移転技術を実現した。そのために多くの人に生体時間を提供してもらったし、今も協力してもらっている。だからこそ、早く人工生成を実現させたいんだ」
衛は湯呑みを手に取り、一口啜った。
「……だが、政府は人工生成の研究費を削り、移転技術の事業化ばかりを急いでいる」
「でも、まだ完全にそうなると決まったわけじゃないんでしょ?」
「まだな。しかし、政府だけでなく、資本家たちも動き出している。遅かれ早かれ実現するだろう」
「……どんな未来になるのか心配だわ。
でも貴方、1人で背負い過ぎてはだめよ」
衛は湯呑みを置いた。
「ああ。でもきっと研究所の仲間も同じ気持ちだろう。だけど国の経済が不況なのは事実でもある。皆、どっちが正解なのかわからなくなってる。事業化は進んでも、人工生成の研究が止まるわけではない」
「……私は貴方が心配よ。
少しは身体を休めることも考えてちょうだい」
「ああ。だが、もう決断したからには、前を見て進むしかない」
香穂は何か言いたげな面持ちで衛を見つめた。
「……もう貴方も、私も若くはないのよ?
もちろん、応援はしてるわ。でも……私は貴方との時間も、大切にしたいわ」
衛はここ十数年、ほとんど研究に明け暮れる生活を送っていた。香穂と日帰りで出掛けたり、家で数日のんびり過ごしたことはあった。けれど、夫婦2人でゆっくり過ごす機会は決して多くはなかった。
「……そういえば、私もあと2ヶ月もしないうちに古希を迎えるなぁ?病院に戻る前に、少し休暇を取って、旅行でも行こうか」
「……ふふ、それは良い考えね。
じゃあ私、どこへ行くか考えとくわ」
「できれば近場にしてくれ。
老骨に鞭を打ってまで遠出するのは、さすがに骨が折れる」
「あら?仕事や研究のこととなると元気なのに、旅行となると年寄りじみたことを言うんですねぇ」
衛は図星を突かれ、返す言葉もなく髪をかき上げた。
「ふふっ。じゃあ、近場で探しておきますね」
「……うむ、頼む」
「その代わり、旅行中くらいは仕事と研究のことは忘れてくださいね」
「……まったく、君には敵わんな」
衛は顎を軽く引き、両手を広げて肩をすくめた。
ほどなくして、薫がやってきた。
「奥さま、お風呂の支度できました」
「あら、早いのね。それじゃあお先に」
香穂はそう言って席を立ち、浴室へと向かった。
◇
——2038年、8月中旬。
国立総合生体科学研究所。
衛が研究所で働くのも1ヶ月を切った。
だが、田端以外の研究員にはまだ言えずにいた。
中でも楠原誠には、他の研究員より先に伝えておきたかった。老年医学会で知り合って以来、長い付き合いになる。
その楠原は相変わらずボサボサの頭をゆらしながら、室内を行き来している。
そして、今日の寝癖は最近の中でも特に酷い。
そういえば研究を始めた頃、寝癖について、一度突っ込んだことがある。だが、「わかります?アインシュタインみたいでしょう?」と妙な返しをされ、それから指摘するのをやめた。
しばらくすると、楠原は手元のタブレット端末を持って衛のもとへ歩み寄った。
「神城先生、先日導入した新型のウェアラブル端末ですが、測定データをまとめてみました」
楠原は手元のタブレット端末を操作すると、画面を衛に向けた。
「マイクロニードルセンサーの改良で、体液成分の測定精度がかなり向上しています」
「ほう……定期検査の結果との比較はどうだ?」
「以前より数値のずれは小さくなっています。ただ、長期的な変化を捉えるには、まだデータが足りませんね」
「ふむ……経過観察の期間を延ばす必要があるな」
「ええ。ただ、そうなると改めて協力者の同意を得る必要があります」
「そうだな。彼らへの負担も考えねばならん。端末でどこまで補えるか、引き続き検証してくれ」
「はい。午後のミーティングで改めて報告します」
そう言って自分のデスクへ戻りかけた楠原を、衛は呼び止めた。
「……楠原君」
「はい?」
「楠原君に話しておくことがあるんだ……」
楠原は視線を泳がせると、ボサボサの頭をぽりぽりと掻いて言った。
「……研究所、離れるんですか。神城先生」
衛は呆気に取られた。田端以外には話した覚えがない。
「……ああ、そうだ」
衛がそう答えると、楠原は一瞬表情を曇らせ視線を落とした。
「そうですか……」
「田端から、聞いたのか」
「いいえ……違いますよ。まあ、僕の勘……ですかね。長年一緒にやってますから」
「勘か」
「……神城先生は、特に事業化について納得できていない様子でしたし、お兄さんが亡くなって、しばらくしてから研究所に居る先生、どこか寂しそうでしたから……」
「そうか。そんなふうに見えていたか」
衛は頭の後ろに片手を回した。
さっきまで生き生きとしていた楠原は、しばらく黙り込んでいた。——やがて、口を開いた。
「いつ頃……神城先生は研究所を離れるんですか?」
「9月7日が最後だ。
……私もそろそろ先が短い。家内と旅行でも行って9月いっぱいは身体を休めるつもりだ」
「それはいいですね。研究のことは一度忘れてお休みになってください」
「もちろん、人工生成を諦めたわけではない。病院の経営をしながらも、できる限り関わっていきたいと思ってる」
「そうですか。それを聞いて少し安心しました。
でも……寂しくなりますね。神城先生がいなくなると」
「何を言う。他のメンバーもいるだろう。
それに、田端だっている」
「いやあ、そういうことじゃないんですよ」
楠原は苦笑した。
衛はそういうことじゃなければどういうことだ?と一瞬考えたが、やめた。
思えば、この研究所で楠原と過ごした時間も、随分と長くなったものだ。
「研究所の一員としていられるのもあと少しだが、よろしく頼むよ、楠原君」
「……もちろんですとも!」
楠原はいつもの調子で、衛に向かって両手の親指を立ててみせた。
◇
——2038年9月1日。
今日は衛の70歳の誕生日だった。
誕生日だからといって、衛の朝が特別変わるわけではない。
ただ、研究所を離れる日まで、もう1週間を切っていた。
午前6時。いつものように目覚まし時計のアラームが鳴った。
衛はカーテンを開け、部屋に差し込む朝陽を浴びた。
動きやすい服に着替えると、洗面所へ向かい、顔を洗って歯を磨いた。
キッチンでコップ一杯の水を飲み干し、軽くストレッチをしてから家の周りを30分ほど散歩するのが、衛の長年の日課だった。
9月に入ったというのに、外はまだ真夏のような暑さだった。散歩から帰った衛は、汗ばんだシャツを着替えた。
食事にも気を遣っていた。普段から栄養バランスの整った和食を好み、週に3回は焼き魚を食べている。
朝食のあとは、ブラックコーヒーを飲みながら読書をする。随筆や哲学書が多いが、たまに気になった小説を手に取ることもある。
「これが長生きの秘訣なんだ」と、衛は毎朝の習慣を大切にしていた。
普段なら、そのまま研究所へ向かう。
しかし今日は違う。
節目の誕生日くらい休んでほしいと、以前から香穂に言われていたのだ。何度も念を押されたので、衛も仕方なく休暇を取ることにした。
時刻はもうすぐ7時。
普段なら、香穂が朝食を用意している頃だ。
香穂も朝が早い。衛のように散歩へ出ることはないが、ニュースを見ながらストレッチをするのが日課になっている。
そういえば昨夜、香穂が「夜にケーキを食べると胃がもたれるから、お昼にしましょう」などと言っていた。
衛がリビングへ入ると、すでに食卓には朝食が並んでいた。
いつもなら、衛がニュースを見ながら朝食ができるのを待っている。
今日は誕生日だから、気を遣ってくれたのだろうか。
「衛さん、70歳のお誕生日おめでとう」
「おお、ありがとう」
香穂は嬉しそうに微笑んだ。
二人はいつもと変わらない他愛のない話をしながら、朝食を取った。
7時半を少し回った頃、薫が「おはようございます」と言って家に入ってきた。
薫には家の鍵を渡しているので、家にはいつでも入って来られる。それほど信頼のおける存在だ。
「神城様、お誕生日おめでとうございます」
「おお、おはよう。薫ちゃん。
わざわざ来てくれたのか」
薫は定時制の学校へ通っている。
授業は午前中からだ。学校へ行く前に寄ってくれたのだろう。
「あ、あの……神城様。
これ、お誕生日のプレゼントです」
薫は後ろに隠していた小さな花束を差し出した。鮮やかな紫色の竜胆だ。
「おお、リンドウか。綺麗だな」
「はい。古希のお祝いには紫のお花がいいって、お花屋さんに教えていただいたので……」
「そうかそうか。ありがとう、峰岸さん。
大切に飾らせてもらうよ。とっても嬉しいよ」
薫からプレゼントを貰うのは初めてだった。
うちで働いて得た給金を、少しずつ貯めて買ってくれたのだろうか。
衛は改めて、手元の花束を優しい眼差しで見つめた。
「衛さん。私からもプレゼントよ」
後ろから香穂の声がして、振り返ると、彼女はピンク色のリボンが巻かれた細長い赤褐色の木箱を抱えていた。
「お、おう……ありがとう」
衛は香穂から木箱を受け取った。
思ったほど重くはない。
「開けていいか?」
香穂はにっこりと頷いた。
衛は木箱をテーブルにそっと置き、シュルシュルとリボンを解いた。そして、ゆっくりと蓋を開けた。
箱の中には一本の杖が収められていた。
衛はその杖に思わず見惚れてしまった。
持ち手を覆う金色の金具には、精緻な彫金が施されていた。杖の軸は紫と灰色が溶け合ったような深みのある色合いで、滑らかな光沢を放っていた。
「……これは、本当に見事だな」
「先に言っておくけど、年寄り扱いしたくて選んだんじゃないのよ」
香穂はふふっと笑うと、急に笑みを収め、衛の目を見つめた。
「貴方はこれからも、自分の決めた道を信じて進んでいく。
だから、その支えになるものを贈りたかったの」
——自分の決めた道を信じて進む……か。
衛は箱から杖を取り出すと、持ち手を握った。
杖の先で軽く床を突くと、トンと歯切れの良い音を立てた。そして、腰にもう片方の手を当てた。
「……どうだ、似合うか?」
「ええ、とっても」
薫は嬉しそうに香穂のもとへ駆け寄った。
香穂が両手を掲げると、薫もそれに応え、ぱちんと手のひらを合わせた。
「……香穂、薫ちゃん。ありがとう」
「ふふふ……あっ、薫ちゃん」
香穂が時計を指差した。
「あっ!いけないっ!
神城様、奥様!行ってきます」
薫は素早く一礼して、慌てて家を出て行った。
その様子を衛と香穂は微笑ましく眺めていた。
「……まったく、慌ただしい子だな」
「ふふ、学校に間に合うといいけど」
衛は手にした杖に視線を落とした。
「……大切に使わせてもらおう」
「ええ。そうしてちょうだい」
香穂は嬉しそうに微笑んだ。
◇
——2071年。
車窓の向こうを、街並みが流れていく。
後部座席に腰掛けた衛は、足元に立てた杖の持ち手を握り、金色の金具に施された彫金の模様を親指でそっとなぞった。
「神城様」
隣に座っていた薫が声をかけてきた。
「どうした?」
衛は指を止めて薫の方を見た。
「美琴様からご連絡がありました。近いうちにお顔を見せてほしいとのことです」
「おお、美琴か。そうか……ではスケジュールを調整してくれ」
「かしこまりました。きっとお喜びになります」
笠原美琴は衛の孫娘だった。
12歳の頃にミトコンドリア病を発症し、18歳のときには重い発作を起こした。現在は車椅子での生活を送っている。
衛は今も、生体時間の人工生成を諦めていなかった。それとは別に、美琴の病を治すための研究にも取り組んでいた。
「祖父として、してやれることは何でもしてやりたい。だが……」
衛はそこで言葉をつぐみ、車窓へ目を向けた。
そのとき、衛のスマートリンクが短く振動した。
研究室からの連絡だった。
画面には、人工生成に向けた研究の検証結果が届いていた。
「……これは」
「神城様?」
衛は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……薫さん、研究室へ連絡を取ってくれ」
「何かございましたか?」
「確認したいことがある」




