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ライフ・トレード -Our Clock- 25歳で未来を売った男と、80歳で未来を買った男。  作者: 岡村 ケイ


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【第二話 ヴィタコール因子】



蓮が生体時間移転処置を終えてから、8時間ほど経過していた。


白い壁に囲まれた小さな検査室で、蓮は検査着のまま椅子に座っていた。胸元には薄いセンサーが数枚貼られ、手首には半透明のリング状機器がはめられている。


それらの機器から読み取られた情報が、左の壁に埋め込まれた透明ディスプレイに映し出されているらしい。


心拍数や血圧の数値、血中酸素濃度、代謝機能、肝機能、腎機能、神経反応——他にも、蓮の知らない名前の項目が無数に並んでいた。


向かいのテーブルの前に立っているのが、検査担当医の雑賀(さいか)先生だ。


検査が始まる前に、そう名乗られていた。口数の少ない、無愛想なところのある女医だが、整った顔立ちをしていた。


彼女はディスプレイを見ながら、何もない空間で、ピアノを弾くように指先をリズム良く跳ねさせている。


雑賀先生の話だと、一泊する予定だったが、今日中には帰れる可能性があるそうだ。


「えっと……何か問題は出ましたか」


蓮が尋ねると、雑賀はディスプレイから目を離した。


「問題? 今のところは、すべて正常範囲内よ」


「そっか……じゃあ、そろそろ帰っても?」


雑賀は首を横に振った。


「ごめんなさいね、すべての検査が終わるまでは帰せないの。退屈だろうけど、規則なの」


「あはは……ですよね〜」


蓮は苦笑いして肩を落とした。


「まぁ……まだ若いから、副作用が出ることはほとんどないわ。久道先生が最終確認をしに来ると思うから、もう少し待ってね」


雑賀はそう言って、ディスプレイに目を戻した。


鏡で見た自分の顔は、思っていたより変わっていなかった。だが、身体の中まで10年分進んだことを考えると、妙な感じがした。


施術後の倦怠感はもうない。代わりに、今は眠気に襲われていた。


蓮はふと、売った10年の対価に思いを巡らせた。


母親の治療費、新しい家——


金の使い道を想像するだけで、眠気などあっという間に吹っ飛んでいった。


しばらくして、誰かが部屋に入ってきた。


「雑賀先生、瀬川様の状態はいかがですか」


振り返ると、そこには久道翼の姿があった。


久道は蓮と目が合うと、小さく会釈してテーブル脇の椅子に座った。


「久道先生、瀬川君の生体状態ですが、現在は——」


雑賀はそう言いながら、空間を引き伸ばすように親指と人差し指を広げ、ディスプレイに映る数値を拡大させた。


「なるほど……BACI 97.1%、OLS12.7、CAI7.9%——」


久道は口にしながら、机の上にある小さな透過型のディスプレイに指を滑らせていた。


何かを確認しているようだった。


雑賀はディスプレイの画面を動かしながら、術後の経過を説明していく。


「——以上が、術後から現在までの検査結果です」


「……はい。雑賀先生、ありがとうございます。この数値——」


「あのー……ちょっとすいません」


蓮は眉を顰めながら話に割り込んだ。


「俺にもわかりやすいように説明して頂けると安心なんですが……」


「これは大変失礼いたしました。瀬川様……」


久道は壁際のディスプレイに近寄った。


「こちらは施術後の細胞や組織、臓器などが、どのような状態にあるかを示す数値です」


「……この”BACI”って?」


「BACI……日本語に直すと、生体年齢整合指数です。


人間の細胞内にある特殊物質を取り出した後、瀬川様のお身体が35歳相当の状態に、どれだけ近づいているかを示す指標となります。


現在、瀬川様の数値は良好です」


「特殊物質……えっと、たしかナントカ因子って」


「ええ。人間の細胞に存在する”ヴィタコール因子”は、細胞の若い状態を保つ働きを担っています。


その一部を取り出すことで、瀬川様のお身体は、25歳から35歳相当へと変化したわけです」


「ん……なるほど」


「ただ、取り出したからといって、身体の各部分が同じ速さで変化するわけではありません。適切に制御しなければ、臓器の働きやホルモンバランスが乱れ、細胞や組織に損傷が生じるなど、命に関わる危険もございます。


当社の技術、“ヴィタコントロールシステム”は、各組織から取り出す因子の量と変化の進み方を調整し、全身のバランスを保ちながら、移行後の年齢へと合わせていきます」


要するに、因子を取り除くと身体のあちこちに支障が出るから、ヴィタコントロールシステムで足並みを揃えている——蓮はそう理解した。


「そして、傷ついた部分を修復する力も、年齢に応じて変わります。


施術による異常が起きていないかどうか……すべて確認する必要があるのです。


今回の検査では、いずれも正常範囲内でした。


ただし、ご帰宅後も経過観察が必要です。


非常に稀ではございますが、人によっては状態が急変する可能性もありますので、その点はご理解いただきたく存じます」


「なるほど……わかりました」


「検査はこれで終わりです。あとは、ご帰宅後の注意事項をご説明いたします」


ようやく帰れることになり、蓮はほっとした。


「それから、今回の10年分の売却対価、100,000,000円につきましては、ご指定の口座へのお振り込みが完了しております。


明細は、契約者専用アプリよりご確認いただけます」


蓮はスマートリンクを開き、専用アプリを確認した。


支払金額100,000,000円の横に《支払済》の文字があった。


念のため、自分の口座も確認した。


確かに、1億円が振り込まれていた。


湧き上がる興奮を抑えるために、蓮は大きく、静かに深呼吸をした。


「続いて、経過観察についてです。雑賀先生、お願いいたします」


「はい」


雑賀は座っている蓮のそばに来て、蓮の手首の半透明のリングを指差した。


「まず、このリング。家に帰ってからも着けたままにしておいてね。心拍や血圧、体温、血中の酸素濃度などを測って、こちらへ送ってくれるの。今から胸に貼るセンサーと合わせて、代謝の変化や、身体に負担がかかっていないかも確認していくわ」


蓮は手首をくるくる動かしてみた。


正直なところ、少し邪魔に感じられた。


「まあ、普段の生活で邪魔になることはほとんどないわ」


どうやら顔に出ていたらしい。


蓮は手首を回すのをやめた。


雑賀は手に持っていた小さなケースを机の上に置き、蓋を開けて中身を見せた。


「この楕円形のシートも、そのリングと同様に身体の状態を測るセンサーよ。1日1枚、2週間分入っているわ。お風呂に入るときに外して、上がったら新しいものに貼り替えてね」


「……もし何かあれば、こっちでわかるんですよね?」


「ええ。異常を検知したら、すぐにこちらにも通知が届くわ。必要に応じて連絡するから、当院からの着信には出られるようにしておいてね。あと、少しでも違和感や気になることがあれば、遠慮なく連絡してね」


「わかりました」


「最後にセンサーの交換をするわ」


雑賀は取り替えながら、センサーの貼り方や外し方を簡単に説明してくれた。


腕のリングと毎回同期させる必要があるという。手間はかかりそうだった。


「じゃあ、2週間後の検診で」


雑賀は説明を終えると、あっさりと部屋を出ていった。


(優しいんだか、冷たいんだか……)


久道はタブレットを操作し、画面を蓮に向けた。


蓮は注意事項を上から読み進め、最後の欄に署名した。


「ありがとうございます。それではもう着替えていただいて結構です」


部屋を出る前に時間を確認した。もう、午後9時半を回っていた。


蓮は足早に更衣室へと向かった。


更衣室を出て施設の入り口へ向かうと、久道の姿があった。


「まだ、なんかありますか?」


「……瀬川様。何かあればこちらに連絡を」


久道はそう言うと、自身のスマートリンクを操作して、連絡先をホログラムで表示した。


「え、久道先生に直接連絡してもいいんですか?」


「……最近は、色々と抱え込んでしまう若者が増えておりますので」


「へえ、なるほど……じゃあありがたく」


蓮は左手首を、表示されたホログラムに近づけた。スマートリンクが自動で久道の連絡先を読み取る。


「まぁ、連絡するようなことがないほうが嬉しいんですがね」


「その通りでございますね。では、お気をつけて」


久道は踵を返し、去っていった。


◇


施設から一歩外に出ると、むわっとした熱気が蓮の顔に襲いかかった。


額に汗が滲むのを感じた。


(……クソ暑い)


ナノクール防熱衣は最高出力で稼働している。それでも、服の内側にまで熱がこもるようだった。


駅へ向かう途中、スマートリンクが震えた。


芽衣からだ。


《明日何時に帰ってくる?》


蓮は歩きながら返信した。


《今から帰る》


すぐに既読がついた。


《えっ、今から?

りょーかい。私さっきバイトから帰ってきたところだけど。ご飯たべた?》


《まだ食ってない》


《私は今から食べる〜

カレーならまだ残ってるよ》


《30分後くらいに家に着く》


蓮が駅に着いた頃、芽衣から返信が来た。


《アイスたべたいな〜》


蓮は「はいよ」とだけ返して、駅の改札をくぐった。


◇


玄関の鍵を開けると、廊下の奥からスタスタと足音がした。


「遅かったね」


部屋着姿の芽衣が、蓮の顔を見るなり眉を寄せた。


「……お兄ちゃん、なんか疲れてない?」


「そうか?まあ……ちょっと眠いけど」


蓮は芽衣から目を逸らした。


別に隠すつもりはなかったが、何となく言い出しづらかった。


靴を脱ぎ、手にしていた袋を持ち上げた。


「それより買ってきたぞ、アイス。俺の分は冷凍庫に入れといて」


芽衣は袋を受け取ると、ニコニコしながら中を覗いた。


「いぇーい、ありがと。じゃあ、私はチョコバニラソフトクリーム〜」


「俺は冷たけりゃなんでもいい」


「今日も外は殺人的な暑さだね。……てか、お兄ちゃんなんか老けた? 暑さでやられ過ぎじゃない?」


クスッと笑いながら芽衣はキッチンへ向かい、蓮の分のアイスを冷凍庫に入れ、自分の分はさっそく包装を外してペロペロ舐め始めた。


蓮がキッチンを通り過ぎリビングへ行くと、テーブルには、蓋のされた容器が2つ、スプーンが2つ置いてあった。


「芽衣、まだ食べてないの?」


「先にシャワー浴びてたからね。カレー、さっき温めたばっかだよ」


「そっか。ありがと」


「……えっ、お兄ちゃん、その腕の何?」


蓮は自分の手首を見た。


袖が捲れて、半透明のリングが露わになっていた。


「ああ、これ……身体の状態を測るやつ」


そう答えて、蓮は椅子に腰を下ろした。


「なんでそんなの着けてるの?」


「いや……まあ……」


「まあって……お兄ちゃん……何か隠してる?」


芽衣が蓮の顔を覗き込んでくる。


蓮は反射的に顔を逸らした。


(もう金の心配はいらない。引っ越しだってできる。それに、芽衣の——)


「……母さんの治療費、用意できた」


「え?」


「だから……もう大丈夫だ。来週にでも病院に話して——」


「えっ、待って。用意できたって……お兄ちゃん、まさか——」


蓮はテーブルに両手を置いた。


「ああ、“時間”を売った」


芽衣は唖然として、リビングに立ち尽くしている。しばらく蓮の顔を見つめたあと、静かに口を開いた。


「……何年?」


「10年……」


「10年?」


芽衣は手元に目を落とし、食べかけのソフトクリームを近くの皿に置いた。


「1億だ。母さんの治療費を払っても、まだ——」


「今日?」


言葉を遮られ、蓮は黙った。芽衣は続ける。


「今日、売ってきたの?」


「……うん、そう」


芽衣は向かいの椅子を引いたが、座らなかった。


「……なんで何も言わないの? ……なんでそんな勝手に」


「言ったら、反対するだろ」


「するに決まってるでしょ!」


珍しく強い口調だった。


初めから受け入れてもらえるとは思っていなかった。


(それでも、もうこうするしか——)


「じゃあ、ほかにどうすんだよ! 金が貯まるまで、母さんに待ってろとでも言うのか?」


「でも——」


芽衣は口をつぐんだ。


蓮はそのまま続けた。


「俺だって、何も考えずに決めたわけじゃない。ちゃんと審査だって受けたし、リスクとかの説明も聞いた。今だって別に、どこも悪くない」


「そういう話じゃないでしょ!」


「じゃあ、どういう話だよ! これが……最善の選択なんだよ」


「10年だよ? お兄ちゃんが……お兄ちゃんが生きるはずだった10年なんだよ?」


蓮は口を閉じた。


「私、何も知らずに……お兄ちゃんがそんなことしてる間、何も……家族のために、なんでお兄ちゃんだけが——」


芽衣はその先を言う前に顔を覆った。


蓮は何か言おうとしたが、頭の中にはさっきと同じ言葉しか出てこなかった。


母の病気を治すための金はある。身体だって、今のところ問題はない。


どれも嘘ではなかった。


けれど、同じことを繰り返しても、芽衣が喜ぶとは思えなかった。


「……黙ってたのは、悪かった」


芽衣は顔を覆ったまま、椅子に腰を下ろした。


「……もう、絶対に売らないで」


「わかった」


「ちゃんと約束して」


顔を上げた芽衣は、濡れた目のまま、真っ直ぐに蓮を見た。


「もう売らない……約束する」


「……うん」


そのあと、二人の間に長い沈黙が落ちた。


何分経ったのかもわからない。


先に口を開いたのは芽衣だった。


「……お兄ちゃん、ソフトクリーム溶けちゃったよ」


さっき芽衣が皿に置いたソフトクリームは、溶けてコーンから流れ出していた。


「俺の食べていいから……もう泣くな芽衣」


「うん……でも、お母さんになんて言うの? ……お母さん、絶対悲しむよ」


「……俺から、明日病院に行って伝える。芽衣も来るか?」


「……うん」


「じゃあ……とりあえずカレー食って寝るか」


「うん、そうだね……」


再び二人の間に沈黙が訪れ、カレーをすくうスプーンの音だけが、部屋に響いていた。



【あとがき用語解説|第2話「ヴィタコール因子」】


■ ヴィタコール因子(VitaCore)

人体の若さを維持する働きを持つ、複数の物質からなる複合因子。

細胞の修復能力や代謝機能、臓器の働きなど、人体の老化に深く関わっている。

この因子を他者へ移転させることで、提供者の生体年齢は進み、受容者の生体年齢は若返る。


■ ヴィタコントロールシステム

生体時間移転処置において、身体の年齢変化を制御するために開発された技術。

臓器や組織によって異なる変化速度を同期させ、ヴィタコール因子の移転量を調整することで、全身の機能を移行後の生体年齢へと整合させる。


■ BACI(生体年齢整合指数)

Biological Age Concordance Indexの略称。

生体時間移転処置後の身体が、目標とする生体年齢の状態にどれだけ到達しているかを示す指標。


■ OLS(臓器負荷数値)

Organ Load Scoreの略称。

生体時間移転処置によって、心臓、肝臓、腎臓、肺などの主要臓器にどの程度の負荷がかかっているかを示す指標。


■ CAI(細胞年齢乖離率)

Cellular Age Inconsistencyの略称。

生体時間移転処置後、各臓器や組織の生体年齢にどの程度のばらつきが生じているかを示す指標。

数値が低いほど全身の年齢変化が均一であり、移転処置の安全性を評価するために用いられる。


■ 術後モニタリング機器

生体時間移転処置後の身体状態を継続的に観察するための医療機器。

手首に装着する半透明のリングと、胸部に貼り付ける薄型センサーで構成される。

心拍数や血圧、血中酸素濃度、代謝の変化などを測定し、医療機関へデータを送信する。


■ ナノクール防熱衣

2071年に一般向けに販売されている、温度調節機能を備えた衣服。

衣服に組み込まれた冷却機構によって外部からの熱の影響を軽減し、高温環境下での身体への負担を抑える。

日常着からフォーマルウェアまで、さまざまなデザインが展開されており、機能性とファッション性を兼ね備えている。

ただし、外気温や使用環境によっては冷却能力に限界がある。


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