【第一話 残響】
一部修正しました。
物語の大筋に変更はありません。
2071年。仲秋。
東京都港特区、常盤CITY。
空は厚い雲に覆われ、街には雨が降り続いていた。
遠くに並ぶ高層ビルは、雨に霞んでぼんやりと見える。
かつて東京タワーと呼ばれた赤い鉄塔が、この街の象徴だった時代は遠い昔のことになった。
現在、この街を見下ろしているのは
——蓬莱タワー。
高さ、839メートル。187階建て。
日本史上、最も高い建築物である。
雲を突き抜けるように伸びたその巨塔を中心に、大小さまざまな高層建築が密集している。
建物と建物の間を縫うように走る高架道路。
地上では、自動運転車が一定の間隔を保ちながら流れている。
半世紀前とは、街の姿も、人々の暮らしも大きく変わった。
それでも、人間の営みそのものは変わらない。
この地に生まれ、
誰かと出会い、愛し、結ばれ、
新たな命を繋ぎ、やがて老いて、死んでいく。
人生は短い。
——いや、本当にそうだろうか。
古代ローマの哲学者は、こう残した。
「人生が短いのではない。
我々がその多くを浪費しているのだ」
人は皆、
限られた時間の中で生きている。
それだけは、誰にでも平等だった。
——かつては。
◇
蓬莱タワー187階、邸内。
一面を覆う分厚いガラス窓の向こうに、常盤CITYの街並みが広がっている。
その窓際、逆光のなかに、上質な漆黒のスーツを纏った男が立っていた。
男の名は神城衛。
後ろへ流した白髪混じりの髪。
その片手に握られた杖の頭部には、鈍い光を返す細密な彫金が施されている。
薄らと刻まれた目尻の皺と、少し痩せた頬。
その表情には、年齢だけでは測れない確かな威厳が滲んでいた。
衛はただ、眼下に広がる街を黙って見つめていた。
ここまで来れば、街を行き交う人々の姿など見えるはずもない。
すると、背後で扉の開く音がした。
「失礼いたします」
柔らかい声とともに、落ち着いた佇まいの女性が室内へ入ってきた。
執事の峰岸薫だ。彼女との付き合いはもう長い。
「おはようございます、神城様。
お食事のご用意が出来ました」
「わかった、ありがとう」
衛は窓の外を見たまま答えた。
「本日の朝食は、北凪養魚場の鮭の塩焼きでございます」
「……そうか。私の好物だ」
衛は一度だけ薫の方へ振り返り、ニカッと笑った。
それから再び窓に目を向け、ガラスを伝う雨粒越しに、霞んだ街を、しばらく見つめていた。
「どうかなさいましたか、ご主人様」
「……いや。まさか、鮭が贅沢品になるとはな」
彼女は優しく微笑んだ。
「私が子どもの頃も、まだ普通に食卓に並んでいましたよ」
「そうか」
衛は彼女を見る。
「薫さん、君も昔の話になるのか」
その言葉に、薫は少しだけ戸惑いながら答えた。
「去年、知命の年を迎えましたから」
衛は「そうか、そうか」と頷いた。
「……フッ、思えば遠くへ来たもんだ」
「はい?」
「昔、そんな歌があったんだよ」
「歌ですか?」
「ああ……私がまだ、子どもだった頃のな。『海援隊』って知ってるか?」
「……申し訳ございません、存じ上げません」
「だろうな。薫さんが生まれるよりもずいぶん前の音楽グループだ」
衛は懐かしげに笑った。
ふとテーブルに飾られた一枚の写真に目が留まる。衛はテーブルの方へゆっくりと歩き、写真立てを手に取った。その縁を、指先で辿る。
その表情から、先ほどまでの微かな笑みが消えていた。
窓を静かに叩く雨音だけが、部屋に響いていた。
「さあ、朝食にしよう。せっかくの鮭が冷めてしまう」
「……はい」
薫は遅れて答え、一礼した。
◇
広いダイニングの中央には、艶のある黒いテーブル。
その上には鮭の塩焼きを中心にいくつかの小鉢と汁物が綺麗に並べられていた。
窓際には半透明の映像が浮かび、朝のニュースを映し出している。
『今年度8月末時点で、ライフ・トレード社が公表した生体時間の総売却年数は——』
衛は箸を止めて、ニュースへ視線を移した。
『——そのうち、20代から30代の売却者が全体のおよそ7割を占めています』
「……相変わらず、若者が多いな」
傍らに立つ薫も、映像へ目を向けた。
「売却人数の制限に加え、厳格な適格審査も設けられているはずですが」
衛は小さくため息をついた。
「これだけ豊かな時代になっても、世の歪みはなくならないか」
「……左様でございますね」
「私がこう考えるのも烏滸がましいがな」
薫は何か言葉を探すように間を置いた。
「……ですが、神城様は多くの方をご支援なさってきたではありませんか」
「それと、これとは別の話だよ。薫さん」
「でも、神城様は——」
薫はそこまで言いかけて、口を閉じた。
「……失礼しました」
「ありがとう、薫さん。
でも、これが私の選んだ人生なんだ」
衛は口をつぐんだ薫に微笑み、再び箸を取った。
「……恐縮でございます」
薫は左胸にそっと手を当て、視線を落とした。
衛は箸を動かし、綺麗にほぐした鮭の身を口に運んだ。お茶を一口含んでから、薫へ穏やかに声をかけた。
「……うむ。やはり、薫さんの焼く鮭は絶品だ。
皮の香ばしさといい、この火加減といい……完璧だ」
薫は一瞬だけ顔を上げたが、衛と目が合う前に目を伏せた。
「……そんな、勿体なきお言葉にございます」
「薫さん……朝食はもう済んだのか」
「いえ、後ほど頂戴しようと存じております」
衛は箸を置いた。
「そうか……今日、私がこの身体で薫さんと食事をするのも最後になるかもしれない。この私の顔を見るのも——
……君の分も持ってきてくれないか。
歳を重ねると、どうも寂しがりやになってね。
頼めるかな」
彼女は言葉を失ったように佇み、それからゆっくりと深く頭を垂れた。
「……御意にございます。ただいま、すぐに持ってまいります」
薫がダイニングを後にして数分後、扉が開いた。
戻ってきた薫の傍には、寄り添うように配膳ワゴンが浮かんでいた。
「お待たせ致しました。神城様」
薫はそう言って、テーブルへと向かった。ワゴンは床から数センチ浮き、絨毯を擦る音も立てず、薫の歩調に合わせて動いていく。
衛の向かいの席にワゴンを止めた。
すべての食事を並べ終えた薫はテーブルから少しだけ離れ、姿勢を正し上体を軽く傾けた。
「神城様」
「どうした、薫さん」
「……奥様も、ご一緒でよろしいでしょうか」
その言葉に、衛は目を潤ませ、わずかに俯いた。
「……ああ。構わない。気を遣わせたな」
薫はワゴンの下段から、小さな写真立てを取り出した。
写真の中にいる女性は、まるで陽だまりのような優しい笑みを浮かべていた。
「……」
中央の席の前に、写真立てを優しく置いた。
「神城様と二人きりで食卓を囲むなど、私には少々恐れ多いものですから——」
薫は一度顔を伏せて、ゆっくりと上げた。
「……差し出がましいことを申し上げますが、神城様が積み重ねてこられた年月を、私は傍で見てまいりました。
ご主人様がどのようなお姿であろうと……
奥様はきっと——」
衛は写真を見つめた後、目を細めて笑った。
「……香穂。そうか」
背もたれからゆっくりと背を離した。
「では、三人で食べよう」
「はい」
薫は一礼して、衛の向かいの席へ腰を下ろした。
衛と薫、そして写真の中で微笑む香穂。
三人の朝食が始まった。
◇
食事を終える頃には、朝から降り続いていた雨も次第に弱まり、空を覆っていた雲の隙間からは、ほんのりと光が差し始めていた。
衛はドレスルームへと向かい、スラックスに履き替え、外出用の薄手のジャケットに袖を通した。
鏡の前に立ち、衛はそこに映る自分の姿を、しばらく見つめた。
「……香穂」
間を置いたあと、静かに呟く。
「そっちに行くのは、まだ先になる——
……許してくれ」
衛はドレスルームを出ると、邸内専用のエレベーターへと向かった。
エレベーターの前ではすでに薫が待っていた。その傍らには、小さなケースが静かに浮かんでいる。
「神城様、お車はすでに下で待機させてあります」
衛はジャケットのボタンをしめた。
「ああ。参ろうか」
「承知いたしました」
衛に一礼し、エレベーター脇のコンソールに触れた。
エレベーターのドアが開き、二人は乗り込んだ。
「薫さん、外の景色を見せてくれ」
「かしこまりました」
薫はエレベーター内のコンソールを操作した。
《壁面ディスプレイを解除します》
AIの音声とともに、壁一面に映し出されていた海中の映像がゆっくりと消えていった。
調光ガラスは透明になり、高さ800メートルから見下ろす常盤CITYの景色が目の前に広がった。
衛と薫を乗せたエレベーターは、ただ静かに地上へと降りていく。
衛はゆっくりと近づいていく街を見つめながら呟いた。
「……あれから、23年も経つか」
薫も街を見下ろした。
「もう、それほど経つのですね」
「地球の歴史に比べたら、我々の生きた時間など一瞬に過ぎんのだがな——」
衛は空を見上げた。
今朝まで空を覆っていた雨雲は散り散りとなり、雲の隙間から差し込む陽が、常盤CITY全体を照らしていた。
「——それでも私は……
その一瞬を、与えたいのだな」
薫は何も言わなかった。
ただ、近づいてくる地上を見つめていた。
《まもなく、一階に到着いたします》
ほどなくして、短い電子音とともにドアが左右へと開いた。
衛は杖をつき、薫とともにエレベーターを降りた。
厳重なセキュリティに守られた、住人専用の広いロビー。
いくつかの認証を済ませ、エントランスへと向かった。
いつになく足取りは重かった。
ふと、薫が立ち止まった。
「神城様」
衛は振り返り、薫を見た。
「私は、神城様がお選びになった道が、たとえ茨の道であろうとも——
どこまでもお供いたします」
束の間、衛は薫を見つめ、それから自身の足元へ視線を落とした。
「……フッ。君は執事の鑑だな。
ああ。行こう」
正面玄関を抜けると、黒い車とスーツの運転手が二人を待っていた。
運転手は衛の姿を確認すると、一礼して後部座席のドアを開けた。
衛と薫が乗り込む。
「出してくれ」
「かしこまりました」
衛と薫を乗せた車は、ゆっくりと走り出した。
雨上がりの常盤CITYへ、静かに溶け込んでいった。
雨は上がっても、その音だけは衛の中に残り続けていた——
【あとがき用語解説|第1話「残響」】
■ 常盤CITY
2071年の東京都港特区に位置する都市。
高層建築や高架道路が密集し、自動運転車などの先進技術が人々の生活を支えている。
■ 蓬莱タワー
常盤CITYの象徴となる超高層建築物。
高さ839メートル、地上187階建て。2071年現在、日本で最も高い建築物である。
■ ライフ・トレード社(Life Trade Corporation)
生体時間の売買を事業とする民間企業。
政府と密接な協力関係にあり、国の認可・監督のもと、生体時間の売買契約や取引管理、売却者の適格審査などを担っている。
生体時間の売買によって生じる巨額の資金は、税収や研究開発費などを通じて国家経済を支えており、国の重要産業の一つとなっている。
■ 北凪養魚場
高度な陸上養殖技術を用いて、鮭の生産を行う施設。
水温や水質、餌などを徹底管理することで、天然物と遜色のない品質と味わいを実現している。
2071年では天然魚の漁獲量が減少しており、北凪養魚場の鮭は高級食材として扱われている。
■ 浮遊式配膳ワゴン
磁気浮上技術を応用した自律移動型の配膳機器。
床下に設置された電磁装置と連動し、床面から数センチ浮遊する。
内蔵センサーによる自動追従機能に加え、あらかじめ移動経路を設定することで、指定されたルートを自律的に移動することも可能。
磁気浮上に対応した床設備が必要であり、使用できる場所は限られる。
■ 調光ガラス
光の透過率を電子的に制御できる特殊なガラス。
透明度の調整が可能で、映像表示機能と組み合わせることで、壁面ディスプレイとしても利用されている。
◇お読み頂きありがとうございます。
感想などいただけましたらすごく嬉しいです。




