【プロローグ】
初めまして、岡村ケイです。
数ある多く作品の中から、この作品を見つけていただきありがとうございます。
『ライフ・トレード ―Our Clock―』
西暦2071年。
生体時間の売買が当たり前になった近未来を舞台に、人々の人生や選択を描いたSF群像劇です。
「Our Clock」=「僕らの時計」
人にはそれぞれの人生があって、考え方も、選ぶ道も違う。
でも、僕らが生きている世界は一つ。
どこかで誰かと繋がりながら、同じ時間を共有している。
そんな意味をこの副題に込めました。
この物語を通して、何か一つでも感じてもらえるものがあれば嬉しいです。
感想などもお待ちしています!
※本作品は「カクヨム」にも掲載しています。
【プロローグ】ライフ・トレード
「10年で、お願いします」
瀬川蓮は、思いのほか落ち着いた声で答えた。
だが、耳の奥では鼓動が激しく鳴っていた。
目の前のガラステーブルにはディスプレイが埋め込まれ、今回の契約内容が表示されていた。
【売却年数——10年】
【売却対価——100,000,000円】
1億円——
もちろん、契約前から知っていた。だが、その桁の多さを目の前にすると、10年という歳月さえ短いものに思えた。
「承知いたしました。ですが、ご署名の前にもう一度だけ重要事項を確認させてください」
向かいに座る男は、久道翼という医師で、事前審査のときから蓮を担当している。
銀髪で細身の体格。スーツの上に白衣を羽織り、背筋を伸ばして座っている。
「……まだあるんですか?」
蓮が尋ねると、久道は申し訳なさそうに首を垂れた。
「はい。多少お時間をいただきますが、大切なことですので」
「いや、まあ……わかってますけど」
蓮は背もたれに身体を預けた。
壁も天井も白く、中央にあるガラステーブルと2脚の椅子を除けば、目につくものはほとんどない。
9月に入ったというのに、外はまだ真夏のような暑さだった。
室内は適度に空調が効いていた。だが、正直なところもう少し温度を下げてほしかった。
「瀬川様は現在、25歳ですね」
「はい」
「今回、10年間の生体時間を売却された場合、処置後の生体年齢は35歳相当になります。これは外見だけの変化ではありません。筋力や代謝、臓器機能、ホルモンバランスなど、身体のさまざまな機能が移行後の年齢に応じて変化します」
その説明は、事前審査で何度も聞かされた。
生体時間を別の人間へ移転させる技術が実用化されてから、生体年齢の売買が珍しくない時代になっていた。
とはいえ、厳しい精密検査や審査を突破できた者に限られる。
「もちろん、これまでに培われた記憶や経験、人格が失われることはありません。一方で、加齢に伴う疾病リスクも変化します。生体年齢が10年進んだからといって、必ずしも寿命が10年短くなるわけではありませんが——」
久道は一度言葉を区切った。
「10年先の身体で生きていくことになります。そして、一度売却した生体時間は、契約を取り消して取り戻すことができません」
「……はい」
「ここまでで、何かご不明な点はございますか?」
「いや、特には……」
蓮が答えると、久道は小さく頷いた。
「承知いたしました。では、最後にもう一つだけ」
久道は蓮の目を真っ直ぐ見て言った。
「瀬川様。10年という時間は決して短くありません」
(そんなことはわかってる。だが、俺はまだ25だぞ——)
久道はそのまま話を続けた。
「瀬川様はまだ25歳です。だからこそ慎重にご判断いただきたいのです」
「……久道先生から見て、俺の判断はまだ安易だとでも?」
「いいえ。決してそのような意味ではございません。ですが、契約成立後に後悔されたとしても、私どもにはどうすることもできません」
蓮は目の前のディスプレイにもう一度視線を落とした。
【売却対価——100,000,000円】
その下には、自分の名前と署名欄がある。
覚悟なら、ここへ来る前に決めてきた。
それなのに、こうして改めて言われると迷いが生じる。そんな自分が情けなかった。
ディスプレイの数字から目を逸らし、蓮は天井を見上げた。
——白い天井。
母の病室が頭に浮かんだ。
担当の先生から、「治療を受ければ助かる可能性がある」と聞いたとき、蓮は嬉しかった。
だが、見積書に並んだ金額を見て絶望した。
とても自分に用意できる額ではなかった。
しかし今、目の前にはそれを上回る金額が表示されている。
それだけじゃない。芽衣の学費も、これから住む家のことも——
「……久道先生」
「はい」
「10年後、自分がどうなってるかなんて、わかんないじゃないですか」
「……ええ。それは、おっしゃるとおりです」
「でも、今売らなきゃ……あとで俺は絶対に後悔する」
久道はそれ以上、何も言わなかった。
「だから、やります。今日」
少しの沈黙のあと、久道はゆっくりと頷いた。
「……承知いたしました」
久道がディスプレイを操作すると、契約書の最終確認画面が表示された。
「それでは、こちらにご署名をお願いいたします」
そのとき、蓮の左手首のスマートリンク端末が震えた。
右手で触れると、端末の上に帯状のホログラムが浮かび上がった。
妹の芽衣からだった。
《お兄ちゃん、いつ帰ってくる?》
蓮はもう一度端末に触れ、通知を消して画面に指を伸ばした。
だが、署名欄に触れる直前で、その手が止まった。
芽衣にはこのことを相談もしていない。言ったところで反対されるとわかっていた。
それでも、蓮はもう一度指を伸ばした。
《2071年9月2日 瀬川 蓮》
書き終えた名前が、画面の中央に表示された。
「……続いて、本人認証を行います。こちらに手のひらをお願いいたします」
言われるまま、蓮はディスプレイの認証部分に手を置いた。
淡い光が手のひらを照らす。
【本人認証中——40%】
たかが数秒なのに、異様に長い。
【——76%】
(このまま止まってくれたら——)
馬鹿げたことを考えている間にも、数字は淡々と進んでいく。
【——91%】
(なに、たった10年だ)
蓮は自分にそう言い聞かせ、目を閉じた。
やがて、AIの音声が流れた。
《契約認証が完了しました》
蓮が目を開けると、久道は手元の端末を操作し、《契約完了》と表示された画面を蓮に見せた。
「……瀬川様。これをもちまして、契約成立となります」
蓮はゆっくりと手を離した。
(終わった。いや、これからか……)
ディスプレイには、先ほどと変わらない数字が並んでいる。
【売却年数——10年】
【売却対価——100,000,000円】
久道はこのあとの流れを簡単に説明して、部屋を後にした。
処置室の準備が整うまで、少し時間があった。
蓮が椅子に座っていると、手元の端末が震えた。また芽衣からだった。
《ねぇ、無視ー?》
《今忙しい。明日の夜には帰るかな》
すぐに既読がついた。
《ごめんごめん。了解〜》
蓮は少し考えてから、続けてメッセージを送った。
《なんか食いたいもんある?》
《んー、天然牛!》
蓮はふっと鼻息を漏らした。
《天然牛?アホ、高過ぎるわ》
《冗談だよ。なんでもいいよ》
端末に触れてホログラムを消したあと、自然と口元が緩んだ。
「瀬川様」
顔を上げると、久道が立っていた。
「お待たせいたしました。処置の準備が整いましたので、ご案内いたします」
「……はい」
蓮は立ち上がった。
処置室は、先ほどの契約室よりも広かった。
中央には処置台があり、その周囲にいくつもの医療機器が配置されている。
蓮は案内されるまま、処置台に横になった。
天井には照明が並び、眩しいほどの白い光が降り注いでいる。
スタッフが蓮の腕に器具を取り付け、それぞれの管を装置から伸びるチューブに接続していく。
壁面のディスプレイに数字が表示された。
【25.1】
蓮はそれを眺めた。
自分の生体年齢だろう。
25年。
「気分はいかがですか?」
傍らに立つ久道が尋ねた。
「……大丈夫です。まあ、ちょっと緊張してますけど」
「あまり力を入れず、楽にしていてください。これから鎮静薬を投与します。目が覚めたときには、処置は終了していますので」
「はい」
蓮は静かに目を閉じた。
ふと、親父の顔が浮かんだ。
「それでは、瀬川蓮様。生体時間10年間の移転処置を開始いたします」
久道の声が聞こえた。
装置から低い駆動音が響き始めた。
やがて、蓮の意識はゆっくりと薄れていった。
目を開けたとき、最初に感じたのは喉の渇きだった。
身体を起こそうとすると、まだ少し力が入りにくい。
「……終わったのか」
声に出してみたが、特に変わった感じはしなかった。
自分が10年も年を取ったという実感が、まるでない。
しばらくして、スタッフに付き添われながら鏡の前に立った。
映っていたのは、見慣れた自分の顔。だが、ほんのわずかに違う。
目尻には薄い皺ができ、ほうれい線も以前より少し深くなっている。肌のハリも、どことなく違って見えた。
「……少し老けたかな」
蓮は鏡に顔を近づけ、角度を変えてみた。
思ったほど変わっていない。
むしろ、少しワイルドになった気さえする。
「んー……悪くないな」
蓮はフッと鼻で笑った。
その笑い方だけは、25歳のままだった。
背後で久道がタブレット端末を確認する。
「生体時間移転処置は正常に完了しています」
近くのディスプレイには、処置後の測定結果が表示されている。
【生体年齢——35.1歳】
数字を確かめると、蓮は鏡へと視線を戻した。
瀬川蓮、25歳。
その日。
彼は自分の未来を、10年売った。
【あとがき用語解説|プロローグ】
■ 生体時間
人体の老化や若さに関わる、生物学的な時間情報。
寿命そのものではなく、細胞の修復能力や代謝、臓器機能など、身体の状態に関係する。
他者への移転が可能だが、一度売却した生体時間を取り戻すことはできない。
■ 生体年齢
身体の機能や老化状態をもとに算出される年齢。
実年齢とは異なり、生体時間の移転によって変化する。
なお、記憶や人格、これまでに培った経験は変化しない。
■ 生体時間移転処置
生体時間を一人の人間から別の人間へ移転させる医療技術。
提供者の生体年齢は進み、受容者の生体年齢は若返る。
■ スマートリンク端末(Smart Link)
2071年に広く普及している、従来のスマートフォンに代わる手首装着型の情報通信端末。
ホログラムによる画面表示が可能で、通信や決済、情報検索など、さまざまな機能を備えている。
空中に仮想キーボードを投影し、内蔵された赤外線センサーが指先の位置や動きを検知することで、文字入力も可能。
■ 天然牛
2071年の世界では超高価な食材として扱われている牛肉。
芽衣が冗談でねだるほどの贅沢品。
◇お読みいただき、ありがとうございます。
感想などいただけましたらとても嬉しいです。




