9話 物語に条件を突きつける
月の城の廊下に、白い光が差し込んでいた。
窓の外には、どこまでも月面のような荒野が広がっている。
地上の記憶みたいな青い光が、遠くで揺れていた。
美月の意識は、もう奥へ沈んでいる。
さっき触れた肩の温度だけが、まだ手に残っていた。
あの一瞬を支えにしなければ、今すぐ声を荒げていたと思う。
かぐや姫は、扉の前から動かない。
白い着物の袖が、月光に溶けるように揺れている。
「私が完全に力を取り戻すには、5段階の解放が必要です」
淡々とした声だった。
その言葉が落ちるたび、廊下の空気がわずかに沈む。
ここが彼女の中心なのだと、嫌でも分かる。
俺は千夜一夜を抱え直した。
「5段階?」
「はい。私の力は、この地にダンジョンとして固定された際、複数の概念に分けて封じられました」
かぐや姫の足元に、月光の円が浮かんだ。
円の中に、5つの細い光が並ぶ。
どれも欠けた月のように不完全だった。
「月。孤独。試練。境界。支配」
声に合わせて、光がひとつずつ揺れる。
説明ではなく、宣告に近い。
聞く側の都合など考えていない響きだった。
「それぞれに対応する物語ダンジョンがあります。そこにいる怪異を攻略し、こちら側へ引き込む必要があります」
「引き込むって、倒すんじゃないのか」
「倒しても意味はありません。協力させなければ、解放キーにはなりません」
仲間にしろ、ということか。
物語ダンジョンを攻略し、怪異を救い、力の鍵にする。
言葉にすると簡単だが、実際には赤ずきんの試練だけであの有様だった。
本番は、あれより重い。
俺は息を吐く。
「つまり、美月を助けたければ、俺がその物語ダンジョンを回れってことだな」
「正確には、私の力を取り戻すためです」
「同じことだろ」
「違います」
即答だった。
美月の顔で、かぐや姫はまっすぐ俺を見る。
「目的は私の力の回復です。結果として、彼女の人格消滅を避けられる可能性が高まるだけです」
本当に、他人事みたいに言う。
怒りが胸まで上がってくる。
けれど、ここで怒鳴っても何も変わらない。
この存在は、悪意で美月を傷つけているわけじゃない。
必要だからそうしている。
それが、余計に厄介だった。
「話はわかった」
かぐや姫の瞳が、わずかに動いた。
俺は続ける。
「ただし、条件がある」
廊下に沈黙が落ちた。
シェヘラザードが、隣で楽しそうにページを撫でる。
もう俺が何を言うか、少し予想している顔だった。
「ダンジョン攻略のときは、美月の意識を表に出すこと」
かぐや姫の視線が冷える。
「認められません」
返答は早かった。
「彼女の意識を表に出せば、制御が不安定になります。侵食の進行も読みづらくなる」
「なんとかしろ」
俺は引かなかった。
一度、奥に沈んだ美月を見た。
あのまま俺が何も言わずに従えば、美月はただの器にされる。
それだけは絶対に駄目だ。
「美月を置き去りにしたまま、俺だけで進めるつもりはない」
「非効率です」
「人間は、効率だけで動いてない」
かぐや姫は、ほんの少し眉を寄せた。
初めて、明確な不快が見えた。
「もう一つある」
「まだあるのですか」
「配信する」
廊下の空気が止まった。
かぐや姫だけでなく、シェヘラザードも少しだけ目を丸くした。
「攻略中は配信を入れる。記録も残す。外に見せる」
「認められません」
かぐや姫の声が、今度は少し硬かった。
「外部の視線は不確定要素です。物語を乱します」
「だから必要なんだ」
俺は千夜一夜の表紙に手を置く。
契約の紋様が、手首の奥で熱を持った。
「閉じた物語は強すぎる。外から見られることで、物語の固定は崩れる。千夜一夜の試練で分かった」
シェヘラザードが、口元に指を当てて笑った。
「学びが早いですね」
「……分かってる。続けてくれ」
「はい。では少しだけ、お手伝いを」
かぐや姫は笑わなかった。
月光が濃くなる。
床に落ちた白い線が、刃みたいに鋭く伸びた。
「却下します。あなたには協力してもらいますが、条件を付ける権利はありません」
その瞬間、シェヘラザードの笑みが消えた。
彼女は本を一度閉じる。
乾いた音が、廊下に響いた。
「かぐや姫。あなたは、一つ見落としています」
柔らかい声だった。
だが、さっきまでの遊びは消えている。
「神代陽斗が断る可能性です」
かぐや姫の視線が、シェヘラザードへ向く。
「彼は妹を救いたい。あなたは力を取り戻したい。利害は重なっていますが、同じではありません」
シェヘラザードは一歩前へ出た。
夜色の衣が、月光の中で静かに揺れる。
「姫という役割のままでしたね。これまでは、望めば周囲が差し出したのでしょう」
空気が変わった。
かぐや姫の表情は動かない。
けれど、月光だけが一瞬強く揺れた。
「ですが、ここは地球の物語ダンジョンです」
シェヘラザードは、微笑む。
その笑みは優しいのに、刃みたいだった。
「私の契約者が拒否すれば、あなたの願いは成立しません。二度と、ね」
沈黙が落ちた。
長い廊下の奥まで、音が消える。
かぐや姫は、初めて顔を歪めた。
苦虫を噛み潰したような表情だった。
美月の顔でそんな顔をされると、妙に胸が痛む。
それでも、俺は目を逸らさなかった。
「……条件を受け入れます」
かぐや姫は、低く言った。
月光が少しだけ弱まる。
「攻略時は、可能な範囲で彼女の意識を表に出します。配信も許可します」
「可能な範囲、か」
「完全な保証はできません」
「それは分かってる」
嘘をつかれている感じはしない。
ただし、都合よく解釈される余地はある。
だから、ここで釘を刺す必要があった。
「美月の意識を意図的に奥へ押し込めたら、その時点で俺は降りる。
実家でも協会でも千夜一夜でも。何でも使って、お前を美月から追い出す」
かぐや姫の目が細くなる。
「それは脅しですか」
「条件だ」
廊下に、また沈黙が落ちる。
シェヘラザードが楽しそうに笑った。
「交渉成立ですね」
「……まとめるの早いな」
「物語は、少し早いくらいが読みやすいものです」
かぐや姫は、深く息を吐いた。
人間の仕草に見える。
けれど、そこに人間らしい疲れはない。
役割を乱されたことへの、わずかな苛立ちだけが残っていた。
「最初の解放キーは、執着と帰属を持つ怪異です」
月光の円に、ひとつだけ光が灯る。
薄く震える、小さな光だった。
「名は、メリーさん。メリードールと呼びましょう」
最初の相手としては、あまりにも象徴的だった。
その名前を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走る。
都市伝説。
電話。
背後に近づく少女。
誰でも知っている怪異だ。
そして、物語ダンジョンになれば、ただの噂では済まない。
「場所は」
「座標を開きます」
かぐや姫が袖を振る。
床に白い線が走り、月光の地図が広がった。
だが、俺はすぐには見なかった。
まず、美月を表に出すこと。
配信を入れること。
それを呑ませた。
まだ対等じゃない。
けれど、一方的に使われるだけの立場ではなくなった。
俺は千夜一夜を握る。
「物語は、選ばせてもらう」
シェヘラザードが、楽しそうに笑った。
かぐや姫は、答えなかった。
ただ月光だけが、次のダンジョンの入口を静かに照らしていた。




