8話 月の城で、妹は待っていた
白い世界が、月光に裂かれた。
次に足裏へ返ってきたのは、湿った土の感触だった。
竹の匂いがする。
俺は、かぐや姫ダンジョンへ戻っていた。
見上げると、満月が近い。
さっきよりもずっと近い。
空に浮かんでいるというより、頭上から覗き込まれているようだった。
竹の影が、地面に長く伸びている。
風はない。
なのに、竹林全体が息をしているように揺れていた。
正面に、美月が立っていた。
白い着物。
淡く白んだ瞳。
月光を受けても、影の輪郭がほとんど揺れない。
さっきより、存在がはっきりしている。
美月の姿をしているのに、そこに立つものの重さが違う。
人間の身体に、物語そのものが収まっているみたいだった。
俺は胸元に抱えた本を持ち上げる。
表紙に刻まれた金文字が、月光を受けて淡く光った。
千夜一夜。
その名を見た瞬間、かぐや姫の目が、ほんのわずかに細くなる。
「……想定より早いですね」
表情は崩れない。
けれど、確かに一瞬だけ驚いた。
すぐに、その揺れは消える。
「ですが、やはりそうでしたか」
「契約はした。約束通り、話してもらう」
声が少し低くなる。
美月の身体を前にして、冷静でいられるはずがない。
それでも、怒りだけで動けば何も聞き出せない。
本の表紙が勝手に開いた。
白紙のページに、金の文字が流れる。
その隣で、空気が薄く揺れた。
夜色の衣をまとった女が、当たり前のように俺の横へ立つ。
シェヘラザード。
彼女はにこりと笑い、軽く裾をつまんだ。
「無事に契約者として戻れました。少々、強引ではありましたけど」
かぐや姫の視線が、シェヘラザードへ移る。
二人の間で、月光が一瞬だけ濃くなった。
「禁書が、人の姿を取るとは」
「語り手ですから。姿くらい、必要に応じて用意します」
シェヘラザードの声は柔らかい。
だが、笑っているのに引いていない。
かぐや姫を前にしても、まるで物語の続きでも読むような顔をしている。
かぐや姫は、それ以上追及しなかった。
俺を見る。
「では、目的を話しましょう」
その一言で、竹林の空気が変わった。
声が落ちるたび、空気が一段沈む。
月光が地面を白く染め、足元の影が音もなく薄くなった。
「私の目的は、封印された力を取り戻すことです」
「封印?」
「地球でダンジョン化したことで、私の力と能力の大半は封じられました。今の私は、本来の形ではありません」
かぐや姫は淡々と告げる。
美月の声で。
美月ではない口調で。
俺は本を握る手に力を込めた。
「力を取り戻して、何をするつもりだ」
かぐや姫は答えない。
月を背に、静かに立っている。
「その先は、まだ話す必要がありません」
「都合がいいな」
「はい」
即答だった。
悪びれる様子もない。
隠していることを、隠すつもりもない。
その正直さが、逆に不気味だった。
シェヘラザードが小さく笑う。
「嘘はついていませんね。言わないことを選んでいるだけです」
「余計に質が悪い」
そう返しながらも、視線はかぐや姫から逸らさない。
聞くべきことは、まだある。
「美月はどうなる」
かぐや姫は、まるで天気の話でもするように答えた。
「力を取り戻さなければ、その身体は私に完全に取り込まれます」
息が止まった。
表情は変わらない。
声も揺れない。
目の前の少女は、美月の顔で、当然の事実を告げている。
「……その結果、あなたの妹という人格は消えるでしょう」
胸の奥が冷たくなる。
怒りより先に、手足から温度が抜けた。
かぐや姫は俺の反応を見ている。
理解はしているのだろう。
だが、共感しているわけではない。
「あなたにとっては、望ましくない結果でしょう」
「当たり前だ」
声が震えた。
抑えようとしても、抑えきれない。
「だったら、最初から美月を巻き込むな」
「彼女でなければ、私は保てませんでした」
かぐや姫は一歩も引かない。
「彼女の強さと適合率が必要でした。そして、あなたが近くにいる必要があった」
「またそれか」
「はい。あなたがいなければ、契約者は得られなかった」
言葉の意味が重い。
俺がいたから、美月は選ばれた。
その事実が、喉の奥に棘みたいに刺さる。
かぐや姫が袖をわずかに動かした。
空間が歪む。
竹林が遠ざかり、足元の土が白い砂へ変わった。
足裏の感触が、さっきと違う。
軽い。
一歩踏み出した瞬間、身体がわずかに浮いた。
息を吸うだけで、胸の奥まで冷たい光が入り込む。
地面は白く乾き、ところどころに黒い岩が突き出ている。
見渡す限り、月面みたいな荒野が続いていた。
空には、巨大な地球が見えた。
いや、違う。
あれは地球じゃない。
青い光をまとった、地上の記憶みたいなものだ。
その下に、城が建っていた。
白い石で作られた、静かな城。
塔は細く、壁は月光を受けて淡く輝いている。
美しいのに、ひどく寂しい。
かぐや姫が先に歩き出す。
「ここが、このダンジョンの最奥です」
城門は音もなく開いた。
中に人の気配はない。
長い廊下。
白い壁。
窓の外には、どこまでも続く月面。
足音だけが、やけに大きく響く。
廊下の奥に、小さな部屋があった。
かぐや姫は扉の前で止まる。
「まずは、確認させましょう」
「何を」
「彼女が消えていないことを」
心臓が強く鳴った。
かぐや姫が目を閉じる。
白かった瞳の奥に、ほんの少しだけ色が戻った。
肩が揺れる。
呼吸が乱れる。
次の瞬間、美月が膝から崩れそうになった。
「美月!」
駆け寄る。
腕を伸ばすと、今度は触れた。
細い肩。
温度がある。
確かに、生きている。
美月は荒い息を吐きながら、ゆっくり顔を上げた。
瞳に、俺の知っている色が戻っている。
不安で、混乱して、それでも俺を探している目だった。
「……兄さん?」
その一言で、胸の奥が詰まった。
言いたいことは山ほどあった。
謝りたいことも、聞きたいこともある。
けれど、今は長く話せない。
それだけは分かった。
俺はできるだけ柔らかく言う。
「大丈夫。ちゃんといるよ」
美月の目が揺れた。
泣きそうな顔になる。
けれど、泣く前に、瞳の色がまた薄く白む。
肩から力が抜ける。
かぐや姫が戻ってきた。
「確認は済みましたね」
怒鳴りそうになるのを、奥歯で噛み殺す。
本当に一瞬だった。
けれど、美月はいた。
消えていなかった。
それだけを、今は握るしかない。
「時間は多くありません」
かぐや姫が静かに告げる。
「力を取り戻すか、彼女が私に取り込まれるか」
月光が窓から差し込み、床に白い線を描いた。
その線が、まるで期限を示す境界に見えた。
俺は千夜一夜を抱え直す。
シェヘラザードが隣で、楽しそうにページを撫でる。
「さて。ここからが本番ですね」
軽い声だった。
けれど、その言葉で逃げ道が消えた気がした。
俺はかぐや姫を見る。
美月を守るために。
この結末を変えるために。
この物語は、まだ終わっていない。




