6話 言葉の意味を書き換える
霧が裂けた先に、古い家があった。
森の奥にぽつんと建つ、小さな家。
煙突から煙は出ていない。
窓は閉じている。
それなのに、中から誰かの呼吸だけが聞こえた。
少女は籠を抱えたまま、細道を進む。
狼は消えていない。
背後の霧の向こうで、灰色の影がゆっくり形を変えている。
さっき道を外れたことで、爪は避けられた。
それでも、物語は終わっていない。
「第一夜は、まだ未完です」
シェヘラザードの声が、森の上から降ってきた。
楽しんでいるような声だった。
けれど、助ける気はない。
「ですが、続けましょう。次は、言葉の場面です」
家の扉が、勝手に開いた。
少女が中へ入る。
俺も追う。
中は薄暗かった。
木の床。
小さな暖炉。
壁に吊るされた古い外套。
奥のベッドに、誰かが横たわっている。
布団をかぶり、顔の半分を隠している。
だが、寝ている人物が老婆ではないことは、すぐに分かった。
呼吸が深すぎる。
布団の下で、獣の爪がわずかに床を掻いた。
もう先回りされている。
少女は気づかない。
籠を抱えたまま、ベッドへ近づいていく。
俺は声を抑えきれなかった。
「近づくな。そいつは違う」
少女は止まらない。
俺の声は、やはり届かない。
いや、届いていても、物語が聞かせない。
ベッドの中の狼が、ゆっくり顔を上げる。
目だけが光っていた。
老婆のふりをしているのに、口元の裂け方だけが獣だった。
「よく来たね」
少女が足を止める。
場面が固定される。
空気が固まった。
今度は歩き方じゃない。
台詞だ。
ここから先は、言葉そのものが物語を進める。
「どうして、そんなに耳が大きいの?」
少女が言った。
俺が知っている流れだ。
質問。
返答。
質問。
返答。
最後に、喰われる。
俺はすぐに割り込んだ。
「聞かなくていい。もう分かってるだろ」
少女の口は止まらない。
狼が笑う。
「お前の声を、よく聞くためだよ」
言葉が終わった瞬間、部屋の壁に赤い線が一本走った。
進行している。
俺は歯を噛みしめた。
「逃げろ。今すぐ下がれ」
少女は動かない。
ベッドの前で、次の台詞を待つ人形みたいに立っている。
命令じゃ駄目だ。
行動を変えようとしても、台詞の場面では届かない。
なら、言葉の意味を読むしかない。
少女が、また口を開く。
「どうして、そんなに目が大きいの?」
「お前を、よく見るためだよ」
狼の声が近くなる。
布団の下で、体が膨らんだ。
牙の影が、枕元に落ちる。
少女の喉元まで、あと数歩。
このままだと、次で終わる。
俺は少女の横に立った。
触れない距離で、顔を覗き込む。
怖がっている。
表情は変わらない。
けれど、籠を抱く指だけが強くなっていた。
この子は、騙されているだけじゃない。
見ている。
違うと感じている。
なのに、役割がそれを言わせない。
俺は息を吸う。
「怖いから聞いてるんじゃないよな」
少女のまつ毛が、わずかに揺れた。
狼の目が、初めて俺の方へ向いた。
見えている。
俺を敵としてではなく、物語に混ざる異物として見ている。
「ちゃんと見てるから、確かめてるんだろ」
部屋の空気が軋んだ。
少女の足元に巻きついていた赤い線が、ほんの少しだけ緩む。
狼が低く唸る。
「黙れ」
声が届いた。
初めて、狼が俺へ反応した。
それだけで十分だった。
外から壊すんじゃない。
内側にある意味を変える。
少女の次の台詞は決まっている。
「どうして、そんなに口が大きいの?」
狼が笑う。
牙が見える。
その返答も、結末も、もう決まっている。
俺は声を重ねた。
「それは、怯えて聞いてる言葉じゃない」
少女の瞳が揺れる。
俺は、できるだけ静かに続けた。
「本当におばあさんかどうか、確かめるための言葉だ」
狼の笑みが止まった。
一瞬だけ。
だが、その一瞬で部屋の空気が変わる。
少女の唇が震えた。
同じ台詞。
けれど、響きが違った。
「どうして、そんなに口が大きいの?」
狼が答えようとする。
だが、言葉が詰まった。
決まっていた返答が、出てこない。
少女は籠を抱いたまま、一歩下がった。
初めて、自分の意思で。
そして、ベッドの中の狼を見た。
「あなた、おばあさんじゃない」
部屋の壁が軋んだ。
赤い線が弾ける。
布団が裂け、灰色の狼が正体を現した。
狼は少女へ飛びかかる。
だが、今度は少女が動いた。
籠を胸に抱え、横へ跳ぶ。
狼の牙は空を噛んだ。
俺は札を投げる。
さっき燃えたはずの札が、今度は狼の影に刺さった。
倒せない。
けれど、一瞬だけ縫い止めることはできた。
少女が扉へ走る。
森ではない。
家の外ではなく、部屋の奥に別の扉が現れていた。
さっきまで存在しなかった扉だ。
少女がそれを開ける。
白い光が溢れた。
狼の唸り声が遠ざかる。
部屋の壁も、ベッドも、暖炉も、紙のように薄くなっていく。
シェヘラザードの声が、すぐ近くで笑った。
「面白い。台詞を消さずに、意味を変えましたか」
俺は息を吐く。
膝が少し震えていた。
助けたわけじゃない。
まだ試練は終わっていない。
それでも、少女は自分で狼を見抜いた。
それだけは、確かだった。
「ですが、それでも契約には届きません。もう少し、物語を乱してみてください」
声と同時に、白い光が濃くなる。
少女が振り返った。
今度は、俺の姿を見ている。
「ありがとう」
小さな声だった。
その瞬間、胸の奥に熱が走った。
定められていたはずの結末が、静かに軋み始めていた。




