22話 場所を与えるな
「今、どこにいると思う?」
少女の問いが、ノイズの奥で止まっている。
答えれば終わる。
そう分かっているのに、頭は勝手に場所を探そうとした。
後ろ。
左。
肩の横。
画面の端。
どれも危ない。
俺は唇を噛み、声を飲み込んだ。
言葉にしない。
思い浮かべた場所を、形にしない。
美月が俺の前で、刀の切っ先を下げずに立っている。
守るための距離。
けれど、その距離すら信用できない。
背後にいるはずのものが左肩へ飛んだ。
画面にだけ映る影が、現実の位置を裏切った。
今は、前にいる美月の背中だけがかろうじて現実に見えた。
コメントが視界の端で流れる。
【答えるな】
【場所言うな】
【認識させようとしてる】
【今の質問やばい】
【ゲームみたいになってきた】
ゲーム。
その言葉に、俺は小さく息を吸った。
ふざけた言い方に見えるのに、今の状況を一番近く言い当てている気がした。
これは、ただ追われているだけじゃない。
条件がある。
条件を満たせば進む。
満たさなければ止まる。
ただし、止まっている間にも圧は消えない。
「……ルールがある」
声に出すと、背中側の空気が揺れた。
少女が反応したのか、俺が意識したからかは分からない。
それでも、もう考えを止めるわけにはいかなかった。
「電話が進行。距離の言葉が接近。振り向けば認識が繋がる。条件が揃えば、背後へ飛ぶ」
美月が息を詰める。
「整理できるの?」
「できるんじゃない。しないと死ぬ」
言いながら、自分の声が震えているのが分かった。
怖くないわけがない。
肩は痛む。
背後の気配は消えていない。
スマホの向こうでは、まだ少女が待っている。
それでも、形が見えれば対処できる可能性がある。
逃げる相手ではなく、解く相手になる。
シェヘラザードが千夜一夜を開いた。
ページの金文字が、今度は少しだけ長く浮かぶ。
電話。
宣言。
背後。
視認。
そこまで読めた瞬間、文字は水に溶けるように崩れた。
「まだ不足しています。ですが、骨格は見えています」
「十分だ」
「いいえ、十分ではありません。間違えれば終わります」
その通りだった。
ゲームのように見える。
だが、失敗してもやり直せるわけじゃない。
俺は肩を押さえたまま、スマホを見た。
通話は繋がっている。
発信者不明。
切断ボタンは、画面の端に赤く浮かんでいる。
押したくなる。
この声を切れば、少しは楽になる。
だが、電話が進行なら、切ることが別の条件になる可能性もある。
俺は指を動かさなかった。
「切らない」
美月が少しだけ顎を引く。
「次を聞くの?」
「聞く。でも答えない。こっちから距離も場所も言わない」
「分かった」
美月は短く言った。
その声に迷いはない。
俺が決めたなら、まず乗る。
俺より強いくせに、こういう時だけ俺の判断を待つ。
それが少しだけ痛かった。
コメントが流れる。
【場所言わない】
【距離言わない】
【質問にも答えない】
【カメラは見すぎない】
【振り向かない】
視聴者の整理が、視界の端で積み上がる。
正しいとは限らない。
でも、今は助かる。
俺はその中から、使えるものだけ拾う。
電話。
距離。
背後。
視認。
四つ。
たぶん、これが今見えているルールだ。
少女の声がした。
「どうして答えてくれないの?」
俺は返事をしない。
代わりに、息だけを吐く。
背後の気配が少し濃くなる。
返事を待っている。
こちらの言葉を、次の距離に変えるために。
美月が刀を構え直した。
その刃先が、ほんの少しだけ右へ動く。
気配を追ったのだろう。
俺はすぐに低く言った。
「位置を追うな」
美月の動きが止まる。
「追ったら、そこにいるって認めることになるかもしれない」
美月は数瞬黙ったあと、刃を正面へ戻した。
「面倒な相手」
「ああ。戦う前に、考え方を縛ってくる」
少女が、小さく笑った。
ノイズの奥。
遠くも近くもない場所。
その笑い声だけで、町の道が少し狭くなった気がした。
実際に狭くなったのか。
そう感じただけなのか。
それすら分からない。
だが、分からないものを全部恐れていたら、動けなくなる。
俺は足元を見る代わりに、正面の道路だけを見た。
路地が左右に分かれている。
古い住宅が並び、どの窓も暗い。
その暗さの奥に、何かが潜んでいるように見える。
見えるだけだ。
そこにいると決めるな。
不意に、スマホからノイズが消えた。
完全な無音。
美月が息を止める。
シェヘラザードがページに手を添える。
少女の声が、ひどく近く聞こえた。
「今、あなたの――」
その瞬間、俺は言葉の続きを待たずに口を開いた。
「聞くだけだ」
声が震えていた。
だが、出した。
自分に言い聞かせるための言葉だった。
「聞いても、決めない。場所を与えない」
ノイズが乱れる。
少女の声が、一瞬だけ途切れた。
コメントが跳ねる。
【今止まった】
【場所を与えない】
【それっぽい】
【認識しないってことか】
【でも難しすぎる】
難しすぎる。
本当にそうだ。
人は、聞けば想像する。
想像すれば場所を作る。
場所を作れば、怪異はそこに立てる。
この怪異は、それを使っている。
俺は歯を食いしばった。
「電話は進行装置だ。距離の言葉は接近条件。背後は成立位置。見ることは、たぶん最後の確定だ」
口に出した瞬間、胸の奥に冷たい納得が落ちた。
合っているかは分からない。
でも、外れてはいない。
美月の肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
「つまり、こっちが勝手に完成させないようにする」
「そうだ。見ない。答えない。場所を決めない」
「斬るのは?」
「まだ無理だ。斬る場所を決めた時点で、向こうに場所を渡すかもしれない」
美月は悔しそうに黙った。
刀を抜いているのに、振れない。
美月にとって、それはかなり苦しいはずだ。
だが、美月は刃を下げなかった。
守るために構えている。
それだけで、俺は前を見ていられた。
シェヘラザードが静かに告げる。
「マスター。今の整理で、最低限の盤面はできました」
「盤面?」
「はい。ここからは、恐怖ではなく条件で動けます」
条件。
その言葉が、背中に重く落ちた。
怖さが消えたわけではない。
むしろ、ルールが見えたせいで、自分がどれだけ危ない場所に立っているのか分かってしまった。
それでも、何も分からず震えているだけよりはましだ。
俺はスマホを握り直す。
配信画面の端に、白い影が滲む。
今度はすぐに消えなかった。
じっと、そこにいる。
俺の後ろなのか、横なのか、画面の中だけなのか。
考えかけて、止める。
場所を与えるな。
少女の声が、低く沈んだ。
「見て」
その一言で、首の筋肉がこわばる。
だが、もう振り向かない。
見ることが、向こうの最後の形を決める。
それだけは分かった。
俺は正面を見たまま、かすれた声で言った。
「……完全に、ルール型だ」
白い影が揺れた。
電話の向こうで、少女が笑う。
次の声は、すぐ近くから聞こえた。
「じゃあ、遊ぼう?」




