21話 構造が少し見えた
肩の傷が、呼吸に合わせて小さく痛んだ。
深くはない。
それでも、血が出ているという事実が、頭の奥を冷やしていく。
振り向いていない。
見てもいない。
返事もしていない。
それなのに、届いた。
俺は前だけを見たまま、肩を押さえる。
指先にぬるい感触がついた。
視線を落としたい衝動を、奥歯で噛み殺す。
今は、傷を見ることすら怖い。
少しでも視線を動かせば、そのまま後ろへ引っ張られそうだった。
美月は俺の横に立ち、刀を抜いたまま周囲を警戒している。
刃先は揺れていない。
けれど、柄を握る指には力が入りすぎていた。
見えない敵を斬るための構えじゃない。
いつ飛び込まれても、俺を庇うための構えだった。
「兄さん、無理に動かないで」
「ああ」
返事をしただけで、背後の空気が少し重くなった気がした。
俺はすぐに口を閉じる。
電話はまだ切れていない。
ノイズの奥で、少女の呼吸が聞こえる。
さっき俺を切った直後だというのに、そこに怒りも興奮もない。
ただ、待っている。
見られるのを。
返事をされるのを。
次の距離を、言葉にする瞬間を。
コメントが、視界の端で乱れて流れる。
【血出てる】
【肩やられてる】
【見てないのに攻撃された】
【今の、距離飛んだ?】
【電話のあとに動いてない?】
【毎回言ってから近づいてる?】
毎回。
その言葉が、引っかかった。
俺は傷の痛みを意識の端に追いやり、頭の中で声を並べ直す。
今、トンネルに入ったの。
今、角を曲がったの。
今、すぐ近くにいるの。
今、あなたの後ろにいるの。
今、もっと近くにいるの。
今、手が届くの。
全部、同じだった。
先に言う。
それから、起きる。
いや、違う。
言ったから、そこまで来る。
胸の奥で、嫌な形に噛み合うものがあった。
「……距離を宣言してる……?」
声に出した瞬間、美月の肩がわずかに動いた。
俺を見たいのだろう。
けれど、美月も正面から目を外さなかった。
代わりに、半歩だけ俺に寄る。
刀の届く範囲へ、俺を入れるための動きだった。
「距離?」
「電話だ。あいつは、ただ場所を言ってるんじゃない」
喋るたびに、背中の気配が微かに揺れる。
言葉に反応しているのか。
それとも、俺が意識したから濃くなっているのか。
まだ分からない。
それでも、考えを止めたら終わる。
俺はスマホを握り直した。
「トンネルに入った、角を曲がった、近くにいる、後ろにいる、手が届く。全部、距離が変わる前に言ってる」
美月の指が刀の柄を強く握った。
「宣言した距離になる、ってこと?」
「たぶん。少なくとも、言葉と接近が連動してる」
コメントが反応する。
【それだ】
【毎回“今”って言ってる】
【言ったあと映る位置変わってる】
【電話がトリガー?】
【距離更新してるってこと?】
視聴者の言葉が流れる。
正しいとは限らない。
それでも、俺の思考を補強する材料にはなる。
シェヘラザードが千夜一夜を開いた。
金文字はまだ薄い。
だが、さっきよりは滲みが少ない。
ページの端に、短い文字列だけが浮かんでは消える。
電話。
宣言。
接近。
それ以上は読めない。
けれど十分だった。
「マスター。仮説としては成立します」
「確定じゃないな」
「はい。ですが、今は仮説でも足場になります」
足場。
その言葉に、俺は息を吐いた。
怖いままでもいい。
震えたままでもいい。
何が起きているかを少しでも掴めれば、足は動く。
完全に理解できなくても、次の一歩を選べる。
スマホの向こうで、少女が笑った。
「考えてるの?」
俺の背筋が固まる。
声は近い。
けれど、さっきのように肩の横ではない。
距離が少しだけ離れている気がした。
いや、そう感じただけかもしれない。
俺は返事をしない。
返事をしたら、また何かが進む。
美月が低く言う。
「兄さん、今は少し遠い」
「分かるのか」
「気配が薄い。でも、消えてない」
薄い。
なら、さっきの攻撃で離れたのか。
それとも、次の宣言まで待っているのか。
俺はコメントを視界の端で追う。
【返事しない方がいい】
【言わせるな】
【電話切れないの?】
【切ったらどうなる?】
【距離宣言止められる?】
電話を切る。
当然、その選択肢はある。
だが、切れば終わるとは限らない。
むしろ、電話という形を失っただけで、別の進行に変わる可能性もある。
今の俺たちは、少なくとも声を聞けている。
次に来る距離を、宣言として受け取れている。
怖いが、情報でもある。
俺は奥歯を噛んだ。
この電話は罠だ。
同時に、唯一の手がかりでもある。
「切らない」
美月が短く頷く。
「なら、聞くしかないね」
「聞く。でも反応しない」
「難しいこと言う」
こんな状況なのに、美月の返しはいつもの調子に近かった。
その一言で、少しだけ呼吸が戻る。
すぐに、ノイズが深くなった。
ざり、と音が濃くなる。
少女の呼吸が、また近づいた。
俺は視線を正面に固定する。
首を動かさない。
目だけで配信画面の端を見る。
白い影は映っていない。
だからこそ怖い。
見えない時ほど、次の距離が来る。
少女の声がした。
「今――」
俺の身体が硬直する。
来る。
次の宣言だ。
俺は声の続きを待つ。
だが、最後まで聞く前に、唇が勝手に動いた。
「違う」
美月が息を呑む。
俺は正面を見たまま続けた。
「お前がそこにいるんじゃない」
ノイズが止まる。
一瞬だけ、町の音が完全に消えた。
「言葉で、そこまで来てる」
背後の気配が揺れる。
消えたのではない。
怒ったのでもない。
ただ、初めてこちらの言葉に引っかかったような揺れだった。
コメントが止まりかけ、次の瞬間に爆発する。
【今止まった】
【反応した】
【効いてる?】
【距離宣言ってことか】
【陽斗気づいた】
俺はまだ勝ったとは思わない。
ただ、初めて向こうの動きが乱れた。
それだけで十分だった。
スマホの向こうで、少女が小さく息を吸う。
「……どうして?」
声が、少しだけ幼くなった気がした。
責める声ではない。
本当に分からない声。
俺は肩の痛みを押さえながら、ゆっくりと言った。
「お前は、近づいてるんじゃない。近づいたことにしてる」
白い影が、配信画面の端に滲む。
今度は、一瞬だけ止まって見えた。
揺れている。
迷っているようにも見えた。
美月が低く呟く。
「動きが止まった」
「ああ」
でも、それは止めたわけじゃない。
言葉に引っかけただけだ。
次の瞬間には、また来る。
俺はそれを理解していた。
少女の声が、静かに落ちる。
「じゃあ」
ノイズが戻る。
ざり、と深く鳴る。
「今、どこにいると思う?」
背中の皮膚が粟立った。
問いに変わった。
距離の宣言ではない。
こちらに認識させようとしている。
答えた瞬間、その場所に固定される。
そんな確信が、喉元を塞いだ。
俺が「後ろ」と思えば、後ろになる。
「近い」と認めれば、近くなる。
認識した場所へ、物語が形を合わせる。
俺は口を閉じる。
答えてはいけない。
見てもいけない。
返事もいけない。
認識してもいけない。
ルールが少しずつ、厄介な形を見せ始めている。
美月が半歩、俺の前へ戻った。
刀の切っ先を下げずに、俺の呼吸に合わせるように立つ。
それだけで、折れかけた膝に少しだけ力が戻った。
俺は前だけを見たまま、震える息を吐いた。
「……構造が、少し見えた」
安心ではない。
むしろ逆だ。
分かった分だけ、怖くなった。
この怪異は、ただ近づいてくるんじゃない。
俺たちの言葉と認識を使って、距離を作っている。




