2話 妹が怪異になった夜
摩天楼ダンジョン、30層。
ボス部屋の前に立つ扉は、黒い金属で出来ていた。
壁面を走る青白い光が、無機質な廊下を照らしている。
ここまで来れば、いつも通りだ。
違うのは、配信画面に流れる視線の数だけだった。
【きた30層】
【今日も余裕だろ】
【美月無双始まるな】
【兄、今日もサポート頼むぞ】
コメントを横目で確認し、軽く息を吐く。
いつもの空気だった。
美月が前で敵を斬る。
俺が式神で視界を広げ、足場を整える。
兄妹配信者として名前が売れ始めたのは、ここ半年のことだ。
派手なのはいつも美月だった。
俺は画面の端で札を投げるだけ。
それでも、美月は一度も俺を不要だと言わなかった。
隣で、美月が刀の柄に手をかける。
黒髪をまとめた横顔は、もう完全に戦闘のそれだった。
「兄さん、行くよ」
「ああ。後ろは任せろ」
短く返す。
それだけで通じる。
俺は札を指の間に挟み、霊力を流した。
足元に小さな陣が浮かび、空気がわずかに張り詰める。
前衛が美月。
後方支援が俺。
それが俺たちの形だった。
美月が一歩踏み出す。
扉に手をかけ、迷いなく押し開けた。
軋む音はしなかった。
代わりに、音が消えた。
違和感が一瞬で広がる。
足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わった。
ボス部屋じゃない。
床がない。
壁がない。
気づいた時には、景色が変わっていた。
竹林。
一面に広がる、静かな緑。
空は夜で、満月が低く浮かんでいる。
摩天楼の内部とは思えない光景だった。
視界の端で、AR表示が乱れる。
【え?】
【なにここ】
【映像止まっ】
文字が滲み、途中で途切れた。
浮遊カメラの駆動音が遠ざかる。
配信端末の接続表示が、赤く点滅した。
【通信断絶】
【リアルタイム配信を停止しました】
【自動録画のみ継続】
それきり、コメントは流れなくなった。
俺は足元に触れた。
指先に湿った土の感触が返る。
完全に別の空間だった。
「……転移か」
呟くと同時に、霊力を巡らせる。
結界を張ろうとして、指が止まった。
張れない。
構造が違う。
いつもの術式が、空間に噛み合わない。
美月が前へ出る。
「変な感じ」
軽く刀を振る。
何もない空間に一閃が走った。
そのまま、竹が一列、音もなく倒れる。
やっぱり強い。
この程度の異常では揺らがない。
だが、美月の視線は別の場所に向いていた。
一本の竹。
他よりもわずかに光っている。
月光を受けているだけではない。
内側から、淡く発光していた。
「……あれ」
美月が近づく。
止めるべきだと思った。
だが、足が動かなかった。
嫌な予感がしたのに、遅れた。
その一瞬が、致命的だった。
美月が竹に手を伸ばす。
触れた。
その瞬間、風が止まった。
虫の声が消える。
月の光だけが、強くなる。
「ようやく、来ましたね」
女の声が響いた。
どこからでもない。
この空間そのものが喋っているようだった。
声は耳に届いた後、少し遅れて頭の奥でもう一度響く。
同じ言葉なのに、聞くたび意味がずれていく。
美月の身体が、わずかに強張る。
「……誰?」
問いかけても、返事はない。
代わりに、月が近づいた。
距離がおかしい。
見上げるだけで、思考が引っ張られる。
嫌な感覚だ。
足元に陣を展開し、強引に意識を固定する。
美月の肩が揺れた。
呼吸が浅くなる。
「役割を、認識してください」
口から勝手に言葉が出た。
物語ダンジョン。
資料で読んだばかりの現象だ。
内部の人間は、登場人物として割り当てられることがある。
役割が固定されるほど、人間性は削られていく。
半怪異を経て、最後には完全に怪異へ変わる。
美月の身体に、薄い紋様が浮かんだ。
腕から首筋へ、月光みたいな白い線が走る。
服の輪郭が揺れ、私服の上に白い着物が重なった。
黒髪が風もないのに持ち上がる。
瞳の色が、淡く白んでいく。
速すぎる。
役割付与から怪異化までが、一気に進んでいる。
止める余地が、ほとんどない。
「やめろ!」
俺は駆け出した。
だが、数歩目で見えない壁にぶつかった。
弾かれ、肩から地面に転がる。
結界だ。
透明な膜が、美月を囲んでいる。
札を切ろうとしても、集めた霊力が膜の手前で散った。
「美月!」
内側で、美月がゆっくりこちらを向いた。
「……兄さん」
その声は、まだ美月のものだった。
泣きそうな顔をしている。
だが、目の奥が違う。
焦点が遠い。
月を映した水面みたいに揺れていた。
それでも。
ほんの一瞬だけ戻る。
視線が合った。
ちゃんと俺を見た。
まだ、意識が残っている。
「まだ戻れる……!」
俺は結界を殴った。
鈍い痛みだけが返る。
拳の皮が裂けても、膜は揺れない。
美月は、唇を震わせた。
次の瞬間。
「受理しました」
別の声になる。
同じ口から、違う響きが出た。
空気から温度が消える。
美月が、ゆっくりと振り返った。
目が合う。
その瞳は、確かに美月だった。
だが、そこにある感情は明らかに違う。
静かすぎる。
整いすぎている。
人間の揺れがない。
「……あなたには可能性がある」
俺に向けて、そう言った。
言葉が出ない。
理解が追いつかない。
美月の姿をした何かは俺を見ていた。
嫌な確信が、喉の奥に張りつく。
今、何かが始まってしまった。
「目的達成まで、この身体を使用します」
冷静な声だった。
感情のない宣言だった。
それでも、敵意はなかった。
「終われば、解放します」
淡々と続ける。
敵ではない。
だが、味方とも言い切れない。
俺は、その事実だけを飲み込むしかなかった。
これは戦闘じゃない。
物語だ。
そして、美月はその中心にいる。
足元の陣が、勝手に崩れた。
霊力が空間に弾かれ、札が指の中で乾いた音を立てる。
この場所では、俺の力は通用しない。
それでも、目だけは逸らさない。
美月を見続ける。
その瞳の奥に、確かに本人がいる。
完全には消えていない。
なら。
まだ、間に合う。
握っていた札を強く握り直す。
震える指先を、力ずくで止める。
ここから始まる。
これは攻略じゃない。
俺は、この結末を変える。




