19話 振り向いたら終わる
俺には、見えていない。
そう認めた瞬間、画面の中の白い影が揺れた。
直接見れば何もいない。
配信画面には、確かにいる。
その矛盾が、足元から感覚を崩していく。
コメント欄はさらに速くなっていた。
【後ろ】
【後ろにいる】
【画面端じゃない】
【陽斗の後ろ】
【振り向くな】
【絶対振り向くな】
俺は息を止めた。
後ろ。
その二文字だけで、首の筋肉が勝手に動こうとする。
見てはいけないと分かっているのに、確認したい衝動が湧き上がる。
人間は、後ろにいると言われたら振り向く。
その当たり前の反応が、今は一番危険に思えた。
美月が俺の横で、刀の柄を強く握る。
抜いてはいない。
だが、鞘の中で刃がわずかに鳴った気がした。
「兄さん、動かないで」
声は低い。
いつもの美月なら、もっと強く言い切る。
けれど今は違う。
美月にも、何が起きているのか分かりきっていない。
ただ、危ないことだけは分かっている。
スマホの向こうで、女の子の呼吸がした。
さっきまで画面の中から聞こえたようだった声が、今は背中側に寄っている。
耳元ではない。
けれど、確かに近い。
ノイズが一瞬だけ消えた。
静かになりすぎて、自分の心臓の音が聞こえる。
次に届いた声は、はっきりしていた。
「今、あなたの後ろにいるの」
首が動いた。
ほんの少し。
反射だった。
背中に冷たいものが落ちる。
見るな。
そう思った時には、もう視線が横へ流れかけていた。
美月が息を呑む。
シェヘラザードが何かを言いかける。
その前に、美月の気配が変わった。
空気の温度が、一段落ちる。
隣にいるのは美月のままだ。
声も、顔も、何も変わっていない。
美月の口が開いた。
「振り向いてはいけません」
静かな声だった。
ただ、呼吸の間だけが違った。
言葉を選ぶ前の沈黙が、人間の迷いではなく、手順を確認する静けさに変わる。
視聴者も、そこまでは分からない。
それでも画面の向こうで違和感だけは拾っていた。
【今の間なに?】
【美月ちゃん?】
【同じ声なのに変】
【言い方こわい】
【なんか寒い】
怒鳴られたわけではない。
それなのに、首の動きが止まった。
身体の奥を、細い釘で固定されたような感覚が走る。
俺は正面を見たまま、浅く息を吐いた。
「……今、なんで止めた」
「振り向けば、あなたの認識が接続されます」
「接続?」
「見えていないものを、あなた自身が見たと認めることになります」
喋り方だけが違う。
美月の声なのに、美月なら絶対に使わない言葉の並べ方だった。
俺には分かる。
今、前にいるのは美月じゃない。
かぐや姫だ。
だが、それを配信に向けて説明する気はなかった。
コメントが流れる。
【どういう意味?】
【認識が接続ってなに】
【美月ちゃんの言い方じゃなくない?】
【でも声は同じだよな】
【とにかく振り向くな】
俺は画面を見た。
白い影は、配信画面の端にいた。
端のはずなのに、影の位置だけが妙に近い。
俺の後ろにいる。
そう言われたから、そう見えるのか。
それとも、本当にそこにいるのか。
判断できない。
女の子の声が、再びスマホから漏れた。
「どうして、見てくれないの」
寂しそうな声だった。
胸が痛む。
けれど、同時に背筋が凍る。
見てほしい。
その願いは、たぶん本物だ。
だが、この物語の中では、願いがそのまま刃になる。
俺は唇を噛んだ。
「見たら、どうなる」
かぐや姫は一拍置いた。
「終わります」
それ以上の言葉はなかった。
死ぬ。
消える。
取り込まれる。
どれなのかは分からない。
けれど、終わる。
それだけで十分だった。
美月の身体で、かぐや姫は前を向いたまま続ける。
「この怪異は、背後に成立する存在です。あなたが振り向き、その存在を認めれば、物語は完成します。
完成したら、あなたは背後にいるものを見た人間になります」
冷たい言い方だった。
だが、悪意はない。
事実だけを並べている。
その分、余計に怖かった。
コメントがまた荒れる。
【振り向いたら終わり】
【ルールやばい】
【後ろ見るな】
【カメラだけ見ろ】
【怖すぎる】
俺は奥歯を噛む。
画面だけを見る。
直接は見ない。
それが今の正解だ。
だが、画面の中の白い影は、少しずつ揺れている。
近づいているのか。
こちらが近づいているのか。
分からない。
シェヘラザードが、千夜一夜を胸元に抱えたまま言った。
「マスター。視線を固定してください。目で追うほど、向こうの位置が強まります」
「じゃあ、どうしろっていうんだ」
「見ないまま、聞いてください」
簡単に言う。
だが、それが一番難しい。
見えないものを相手にする。
見れば終わる。
聞かなければ分からない。
怖がりの俺には、最悪の条件だった。
スマホのノイズが深くなる。
背中側の空気が、さらに重くなった。
何かが近い。
本当に、すぐそこにいる。
肌には触れていない。
服も揺れていない。
それでも、存在だけが背中に張りついている。
俺は拳を握った。
逃げたい。
今すぐ走り出したい。
けれど、走れば視線が揺れる。
振り返る可能性が増える。
足を止めるしかない。
女の子の声が、すぐ後ろから聞こえた。
「ねえ」
スマホからではなかった。
耳元でもない。
背中の真後ろ。
はっきりと、そこから聞こえた。
俺の膝が揺れる。
美月の身体をしたかぐや姫が、俺の前へ半歩動いた。
「呼びかけに応じてはいけません」
「分かってる」
声が震えた。
分かっているのに、返事をしそうになる。
ねえ。
ただそれだけの呼びかけが、異様に強い。
無視する方が、悪いことをしているような気分になる。
「見て」
女の子が言った。
コメント欄が一気に流れた。
【ダメ】
【見るな】
【後ろいる】
【反応するな】
【カメラだけにしろ】
俺は端末を握りしめた。
画面には白い影が映っている。
はっきりとは見えない。
顔も、手も、輪郭も曖昧だ。
けれど、その影が俺の背後にいることだけは、誰の目にも分かる。
俺以外には。
その事実が、喉を締めつける。
俺はかすれた声で言った。
「……見ない」
通話の向こうが静かになった。
背後の気配も、一瞬だけ止まる。
女の子の声が、少しだけ低くなる。
「どうして?」
悲しそうだった。
本当に、悲しそうだった。
だから余計に、怖かった。
俺は答えを探す。
拒絶したいわけじゃない。
見捨てたいわけでもない。
でも、今は見られない。
見たら終わる。
それだけは、もう分かっていた。
かぐや姫が静かに告げる。
「これが、この物語の死の条件です」
俺は息を止めた。
死の条件。
その言葉が、冷たく胸に落ちる。
振り向くな。
見てはいけない。
応じてはいけない。
ようやく、ルールの輪郭が見えた。
背後にいる怪異。
電話で距離を詰める声。
画面にだけ映る白い影。
全部が一本に繋がる。
俺は正面だけを見た。
配信画面も、視界の端に留める。
直接は追わない。
後ろにいる。
それを理解した上で、見ない。
その行為が、これほど苦しいとは思わなかった。
女の子の声が、もう一度だけ近づく。
「見てくれないんだ」
俺は歯を食いしばる。
胸の奥に、痛みが残った。
怖い。
けれど、それだけじゃない。
この声には、理由がある。
その理由を知らないまま、倒すわけにはいかない。
俺は震える息を吐いた。
「……振り向いたら、終わる」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
自分に言い聞かせたのか。
美月に伝えたのか。
画面の向こうの視聴者へ向けたのか。
白い影は、画面の中で揺れている。
背後の気配は消えない。
それでも俺は、前だけを見た。




