11話 まだ渡さない
美月の身体が小さく震えていた。
美月はゆっくりと瞬きをする。
瞳の色は戻っている。
それでも、奥に白い光が残っていた。
かぐや姫は消えていない。
美月の中に、確かにいる。
「……兄さん、顔こわい」
美月が、かすれた声で言った。
無理に笑おうとしている。
その笑い方だけで、俺は何も言えなくなった。
「怖くもなるだろ」
「うん。だよね」
美月は素直に頷いた。
自分の身体の内側を確かめるように、胸元へ手を当てる。
指先は、まだ少し震えていた。
「分かってるよ。私、かぐや姫に侵食されてるんだよね」
俺の喉が詰まる。
美月は、もう理解していた。
自分が何に巻き込まれたのか。
自分の身体がどうなっているのか。
「それに、これから初期解放っていうのをするんでしょ。私が表に出たまま動けるようにするために」
「……どこまで分かってる」
「全部じゃない。でも、怖いことくらいは分かる」
美月は、そこで笑った。
今度は少しだけ、いつもの美月に近い笑い方だった。
「でも大丈夫。私、神代家最強の剣士で陰陽師だから」
軽い言い方だった。
わざとだ。
怖くないわけがない。
手はまだ震えている。
それなのに、美月は俺を安心させようとしている。
「最強って、自分で言うか」
「言うよ。兄さんが落ち込むと面倒だし」
「面倒ってなんだ」
「面倒は面倒。すぐ自分のせいにするし」
言い返せなかった。
実際、俺はさっきからずっと考えていた。
俺が近くにいたから、美月は選ばれた。
その事実は、消えない。
「兄さん」
美月の声が少しだけ低くなった。
俺は顔を上げる。
「それ、今はやめて」
胸を突かれたようだった。
美月は俺の考えていることを見抜いていた。
「私が怖いのは、かぐや姫に取られることだけじゃないよ。兄さんが私の前で、ずっと罪悪感みたいな顔してることも怖い」
「……悪い」
「謝るのも今は禁止」
即答だった。
美月は、少しだけ得意げに笑う。
「ほら、主導権あるうちに言っておくけど、私は巻き込まれただけの妹じゃないから」
その言葉で、空気が変わった。
細い肩で、まだ震えている。
それでも、美月は自分の足で立ち直ろうとしていた。
俺はゆっくり手を離す。
美月は少しふらついたが、倒れなかった。
腰のあたりに手を伸ばす。
そこに刀はない。
おそらくかぐや姫が外したのだろう。
それでも、柄を握る癖だけが残っていた。
「刀がなくても、立ち方は忘れてない」
美月は小さく呟いた。
シェヘラザードは、少し離れた場所で静かに見守っている。
いつもの軽い笑みはない。
「マスター。初期解放を行えば安定します。ただし、侵食そのものが消えるわけではありません」
美月がシェヘラザードを見る。
初対面のはずなのに、あまり驚かない。
「あなたが、千夜一夜の人?」
「はい。シェヘラザードと申します」
「兄さんのこと、よろしくお願いします」
「承りました。ですが今は、あなた自身のことを優先してください」
「うん。分かってる」
美月は頷いた。
そして、俺を見る。
「やるよ」
短い一言だった。
怖がっていないわけじゃない。
覚悟を決めただけだ。
俺は止めたかった。
だが、ここで止めれば、美月の覚悟まで奪うことになる。
「……分かった。無理だと思ったらすぐ言え」
「その時は、兄さんが勝手に止めるでしょ」
「止める」
「うん。知ってる」
美月は笑った。
その笑顔のまま、目を閉じる。
白い月光が、足元に広がった。
五つの欠片は光らない。
代わりに、外側の輪だけが淡く浮かぶ。
初期解放。
力を取り戻すためではなく、美月が美月のまま立つための調整。
かぐや姫の声が、奥から響いた。
「始めます」
美月の肩が揺れた。
月光が足元から立ち上がり、腕へ絡む。
細い白線が皮膚の上に浮かび、そのまま奥へ沈み込んでいく。
息が詰まる。
肺がうまく動かないのか、美月の呼吸が細く途切れた。
視界が白く飛んだように、美月の瞳から焦点が抜ける。
それでも、美月は膝を折らなかった。
俺は拳を握る。
助けに入るべきなのか。
見守るべきなのか。
その判断だけが、何より難しい。
美月の内側で、何かが揺れた。
白い着物の幻が、彼女の肩に重なる。
長い黒髪が、月光に持ち上げられる。
かぐや姫の輪郭が、美月の背後に浮かんだように見えた。
息が途切れる。
それでも、美月は歯を食いしばる。
「まだ」
小さな声だった。
けれど、確かに聞こえた。
「まだ、渡さない」
月光が揺れる。
白い線が一瞬だけ強く光り、すぐに細くなる。
押し潰されるのではなく、内側から押し返している。
俺には、そう見えた。
シェヘラザードが静かに息を吐く。
「……通りました」
かぐや姫の気配が、奥へ沈む。
完全に消えたわけじゃない。
だが、表から一歩退いた。
美月のまぶたが震える。
ゆっくりと目が開いた。
瞳の奥に、白い光は残っている。
それでも、そこにいるのは美月だった。
「……大丈夫」
声は弱い。
でも、ちゃんと美月の声だった。
俺は手を伸ばしかけて、止める。
美月は自分で立っていた。
支えたい。
けれど、今は支えない方がいい。
「本当に大丈夫か」
「大丈夫。ちょっと、身体の奥に変なのがいる感じはするけど」
「それは大丈夫じゃないだろ」
「でも、私の声はちゃんと私の声でしょ」
美月はそう言って、胸元を押さえた。
震えはまだ残っている。
それでも、目は逃げていない。
次の瞬間、美月の瞳がふっと揺れた。
城の空気から温度が落ちる。
声を出す前に、誰が表に来たのか分かった。
「確認します」
声の温度が変わっていた。
美月の口から出ているのに、そこにいたのはかぐや姫だった。
俺は反射的に一歩近づく。
「もう出てくるのか」
「必要な確認です」
かぐや姫は淡々と答える。
そこに遠慮はない。
美月の意識を押しのけたことを、特別なことだと思っていない。
「侵食率、安定。主導権移行、問題なし」
かぐや姫は自分の掌を見下ろした。
指を開き、閉じる。
動作は美月のものなのに、感情だけが抜け落ちている。
「初期解放は成功です」
胸の奥に、安堵と苛立ちが同時に落ちた。
成功した。
美月は表に戻れる。
だが、優位なのはかぐや姫のままだ。
「すぐメリードールに行くのか」
「いいえ」
意外な答えだった。
かぐや姫は廊下の窓へ視線を向ける。
月面の荒野に、白い影が長く伸びていた。
「念のため、翌朝まで経過観察を行います」
「翌朝?」
「主導権移行に乱れがないか確認します。問題がなければ、メリードールダンジョンへ向かいます」
淡々とした予定確認だった。
美月の身体で言われるからこそ、余計に冷たく聞こえる。
シェヘラザードが千夜一夜を閉じる。
「妥当です、マスター。急ぐ場面ではありません」
「分かってる」
俺は短く答えた。
ここで焦れば、また美月に負担をかける。
分かっている。
それでも、すぐに動けない時間が怖かった。
かぐや姫は、月光の地図へ視線を落とす。
メリードールの座標が、淡く震えていた。
「最初の解放キーは、明朝攻略します」
夜は、静かに更けていく。
美月の身体はそこにある。
けれど、今はかぐや姫が前にいる。
成功したのは、始めるための準備だけだった。
俺は千夜一夜を握りしめる。
明日、物語ダンジョンへ入る。
逃げ場はない。
それでも、俺が選んだ道だった。




