78.煙の中のガール
勝利目前で奇跡の大逆転。
我らが院長先生のゴリラパワーは実に大したものでしたが、残念ながら次元の壁だか何だかを純粋な物理的腕力だけでこじ開ける域には達していないでしょう。
人間側が優勢になったのも束の間。
またも悪魔が圧倒的な強さを見せつける流れに……いや、もしかすると大丈夫なのかもしれません。一か八かの奥の手で院長先生から逃げ切ったとはいえ、今や四肢のうち右足以外の三本はメチャクチャに折れ曲がった痛々しい姿。
それ以外にも脇腹が大きく抉れていたり、ほんの数秒とはいえ陽光を浴びてきたせいで全身のあちこちが焦げて煙を噴いていたり。武器のステッキも真っ二つに折れていましたし、これだけ消耗していれば兵士の皆さんだけでも十分に勝機がありそうです。
『おおっと、暴力反対! 怪我人を寄ってたかって乱暴とは紳士として如何なものかと思いますよ? ここは穏便に話し合いで解決の道を探るというのはどうですかな?』
当の悪魔もこんな風に言っています。
まあ、ここまでの過程を見る限りでは人類側を揶揄うための軽口という線も捨てきれませんが、少なくとも全身のダメージに関しては見た通り。器用にバランスを取ってこそいますが、片足立ちのままでは満足に動き回ることもできないはず。同じく、折れ曲がったままの両腕では攻撃も防御も難しいでしょう。
「話し合いとは言うが、こちらの要求は最初から変わらぬ。その肉体を元の持ち主に返し、早急に元の世界へ帰るがよい」
ここで後方に下がって戦況を見ていた王様が再び悪魔の前に出てきました。
周りの皆さんは万が一に備えて油断なく構えていますが、この有り様では悪魔に攻撃手段など残っていないはず。これだけ満身創痍の状態であれば『本』のページを押し付けるだけで、問答無用で元の世界にお帰り願うことができるはずです。
あれ、そういえば今は『本』ってここにはないんでしたっけ?
たしか兵隊さん達が公園に落下した黒龍を人間に戻しに行っていて、その用事が済んで恐らくお城に引き返してくる途中で目の前の悪魔が入っていたタマゴが出現した……みたいな流れでしたっけ。
悪魔が城に現れたことは上述の『本』を預かっている皆さんも既に知るところでしょうし、ならば今は急いでこちらに向かっている途中といったところでしょう。王様が会話に応じているのは、彼らが城に到着するまでの時間稼ぎの意図もあるのかもしれませんね。
『ううむ、これは参りましたな。お手上げです……と申しましても満足に手を挙げることも叶わぬ身ではありますが』
まさか本当に諦めたのでしょうか?
ここまでの悪魔の言動を見る限り、そんな殊勝な性格とは到底思えませんが。
上階の皆さんもわたしと同意見らしく、構えた武器を下ろす様子もありません。まあ既に文字通り手も足も出なくなった相手を不必要に痛めつける意思はないのか、積極的に攻勢に出るつもりまではなさそうです。
後のことを思えば、相手がどれだけボロボロであろうとも、今のうちに死ぬ寸前まで痛めつけて心身の余力を完全に奪い去っておくのが正解だったわけですけれど。
『見ての通り、手も足も出ない憐れな身にどうかお慈悲を。ほら、吾輩にできることなど、こうしてフーッと息を吐くくらいでございます故』
悪魔紳士の体型は極端な痩せ型。
背丈は四メートルほどもあるのに、肩幅やウエストは常人と同程度でしかありません。全体的にヒョロリと細長い印象だったのですが、それが急激に不自然な丸みを帯び始めたではありませんか!
「んなっ!?」
まるで全身がパンク寸前の風船になったかのような、ほぼ球形。
明らかに不審な動きを見せた悪魔に兵士の皆さんも一斉に剣や槍を突き込もうとしたのですが、残念ながら対応が一歩遅かったようです。
『フーッ』
そんな間の抜けた音と共に悪魔の顔面から、無貌の表面がメリメリと裂けて開いた口から、大量の煙が吐き出されたではありませんか。色合いからすると毒ガスの類でしょうか。紫色の毒々しい煙の量は尋常ではなく、上階のバルコニー付近にいた兵士の皆さんや王様、そればかりか一階の我々や城外の街まで呑み込まんばかりの凄まじい勢いです。
「陛下、どうか後ろに!」
大量の煙で視界が閉ざされつつある中、光り輝く大盾を手にした騎士さんが王様を庇うように毒煙の前に立ちはだかるのが見えました。あれが噂の聖盾なのでしょうが、無形の気体が相手では果たして防ぎきれるものかどうか。
いえ、わたし達も人の心配をしている場合ではありません。周囲の人達と一緒になって大慌てで廊下の窓を閉めようとはしたのですが、ごく僅かな隙間から入り込んだ煙だけでも相当の量です。
皆それぞれハンカチを口に当てて床に伏せたり、頑張って息を止めようとはしていたようですが、なおも毒ガスの勢いは増すばかり。やがて我々は気色が悪い煙の中に完全に呑み込まれてしまいました。
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